ニューズウィーク日本版2月12日号は、「なぜ日本は誤解されるのか(Rethinking Japan)」という特集を組みました。
先ず、ダートマス大学のジェニファー・リンドさんは、「日本が世界から誤解される理由(Japan, The Never Normal)」というタイトルのコラムで、学者や政治アナリストやジャーナリストは、どういうわけか日本を“普通の国”として扱うのが苦手のようで、日本経済が急成長を遂げた70~80年代にはいずれアメリカを追い抜き世界に君臨するだろうと持ち上げ、バブルがはじけて日本経済が下り坂に転じると日本衰退論が主流になるというように、日本が何をしても極端な色眼鏡を介してその意味を曲解してしまうと述べます。それは外交政策でも同様で、第二次大戦後、ごく最近まで、軍事体制と決別した非武装の平和国家と見なしていたのに、尖閣問題を巡る中国との関係悪化を日本の平和主義の終焉とナショナリズムの台頭の兆しと叫ぶ声が俄かに高まって来ました。しかし日本は決して平和国家でもないし攻撃的な軍国主義国家でもない、ゴジラのように手に負えない経済大国でもないし超高齢国家でもない、普通の“ミドルパワー”国家だと説明します。誤解を招く理由として、一つは、伝統的な国力を図る指標を予測する時の問題で、現在の政治・経済状況の延長で直線的に予測するがために過小評価(中国は逆に過大評価)されていること、二つ目は、日本政府自身の振る舞い(言葉と現実のズレ)が疑念を招くことを挙げます。例えば日本の政府関係者や学者などの専門家は「日本に軍隊はない」と口にしますが、陸軍は勿論のこと東アジア最強の海軍と空軍を有するのが実態ですし、日本の指導者は8月6日や9日に行う演説で核兵器のない世界を目指すと言いながら、核兵器を持たない国としてはどこよりも多い40トン以上のプルトニウムを保有しており、日本が軍国主義にならないとは俄かに信じられないというわけです。そして三つ目は、日本の政策を意図的に歪曲し、日本を極端視する、近隣諸国の存在を挙げます。こうした見方は、間違っているだけでなく、東アジアの勢力バランスの中で、日本が担うことが出来る役割を、同盟国が見逃すことになり、日本の存在価値を過小評価することになると、警告を発します。
続いて、米戦略国際問題研究所太平洋フォーラム研究員のJ. バークシャー・ミラー氏は、「欧米も誇張する日本の『右傾化』(The Twisted Truth about Tokyo)」と題するコラムで、日本の外交・安全保障政策が“右傾化”すると恐れているのは、韓国や中国だけではなく、英エコノミスト誌までが1月、“恐ろしく右翼的な”安倍政権は“過激なナショナリスト”の集団であり、“地域にとって凶兆だ”と断じたのは、欧米にも、アジアで政治的に利用されている歴史の「物語」と質は異なるがよく似た「物語」が存在し、「国際世論」として定着しているため、すなわち欧米にも、第二次大戦がファシズムと帝国主義を打倒した“正義の戦い”だったという単純な「物語」が根付いているため、これと食い違う意見や史実を再検証しようとする意見は全て悪と見なされ、“修正主義”“歴史の歪曲”と切り捨てられてしまう現実があると断じています。そして、こうした自国に関する誤解が蔓延しているにも係らず、領土問題や歴史問題を巡って韓国や中国と同じレベルで泥仕合を繰り広げるのは品がないとか、あるいは韓国や中国の主張に真っ向から声高に反論するのは大人げないとか、品位や節度を重んじるあまり、誤解を解く努力をしてこなかった日本政府の対応、とりわけ情報発信力の弱さを非難しています。その結果、例えば日本の平和憲法が現代の国際情勢の現実にそぐわないことが十分に理解されておらず、集団的自衛権の行使や国連の平和維持活動における自衛隊の権限拡大など、安倍首相をはじめとする保守政治家が提案する改革案は、欧米の価値観からすれば取りに足らないことで、“普通”の国であれば問題視されることはないのに、日本の安全保障政策の如何なる変更も“再軍備”と曲解されてしまう、すなわち日本を巡る誤解は日本の国益を損なうばかりだと警告しています。
また、南京生まれのブロガー・コラムニスト安替氏は、「僕が『反日』をやめた理由(Japan of Nanjing, Japan of Tokyo)」と題するコラムで、かつて彼が学生の頃、毎年春の墓参りの時期に訪れていたのは市内の革命墓地で、弔うのは国民党軍に殺された共産党員だったのに、南京大虐殺記念館を訪れるように変わったのは90年代後半に愛国主義教育が始まってからであり、日本政府には問題があるが、日本の人民は友好的で、日本が軍国主義の亡霊が善良な民衆を支配する国だというのが、大部分の中国人の日本に対する“公式見解”だと述べた上で、日本に留学し、大学教授や学生やジャーナリストと交流する中で、出会った若い日本人はアメリカの友人たちと変わらないことを確信し、日本に対する見方は根底から変わったと告白しています。さらに、中国の歴史教科書には、日本の戦後政治について「80年代の日本の軍拡はアジアの周辺国家の警戒を招いた」と書いてあるだけで、その他の説明は全て戦前あるいは戦中のことであるため、東京に行かない中国人の日本政治に対する理解は、1945年で止まっているのに対し、自分が東京で見聞きした日本政治の発展ぶりは、中国で知ることの出来ない情報ばかりだったとも告白しています。
過去三回のブログで、日・中の「情報心理戦」あるいは「情報戦」について書いて来ましたが、日本は、外交力だけでなく、あらためて中・韓の国民や広く国際世論に訴えるコミュニケーション力を磨かなければならないようです。
先ず、ダートマス大学のジェニファー・リンドさんは、「日本が世界から誤解される理由(Japan, The Never Normal)」というタイトルのコラムで、学者や政治アナリストやジャーナリストは、どういうわけか日本を“普通の国”として扱うのが苦手のようで、日本経済が急成長を遂げた70~80年代にはいずれアメリカを追い抜き世界に君臨するだろうと持ち上げ、バブルがはじけて日本経済が下り坂に転じると日本衰退論が主流になるというように、日本が何をしても極端な色眼鏡を介してその意味を曲解してしまうと述べます。それは外交政策でも同様で、第二次大戦後、ごく最近まで、軍事体制と決別した非武装の平和国家と見なしていたのに、尖閣問題を巡る中国との関係悪化を日本の平和主義の終焉とナショナリズムの台頭の兆しと叫ぶ声が俄かに高まって来ました。しかし日本は決して平和国家でもないし攻撃的な軍国主義国家でもない、ゴジラのように手に負えない経済大国でもないし超高齢国家でもない、普通の“ミドルパワー”国家だと説明します。誤解を招く理由として、一つは、伝統的な国力を図る指標を予測する時の問題で、現在の政治・経済状況の延長で直線的に予測するがために過小評価(中国は逆に過大評価)されていること、二つ目は、日本政府自身の振る舞い(言葉と現実のズレ)が疑念を招くことを挙げます。例えば日本の政府関係者や学者などの専門家は「日本に軍隊はない」と口にしますが、陸軍は勿論のこと東アジア最強の海軍と空軍を有するのが実態ですし、日本の指導者は8月6日や9日に行う演説で核兵器のない世界を目指すと言いながら、核兵器を持たない国としてはどこよりも多い40トン以上のプルトニウムを保有しており、日本が軍国主義にならないとは俄かに信じられないというわけです。そして三つ目は、日本の政策を意図的に歪曲し、日本を極端視する、近隣諸国の存在を挙げます。こうした見方は、間違っているだけでなく、東アジアの勢力バランスの中で、日本が担うことが出来る役割を、同盟国が見逃すことになり、日本の存在価値を過小評価することになると、警告を発します。
続いて、米戦略国際問題研究所太平洋フォーラム研究員のJ. バークシャー・ミラー氏は、「欧米も誇張する日本の『右傾化』(The Twisted Truth about Tokyo)」と題するコラムで、日本の外交・安全保障政策が“右傾化”すると恐れているのは、韓国や中国だけではなく、英エコノミスト誌までが1月、“恐ろしく右翼的な”安倍政権は“過激なナショナリスト”の集団であり、“地域にとって凶兆だ”と断じたのは、欧米にも、アジアで政治的に利用されている歴史の「物語」と質は異なるがよく似た「物語」が存在し、「国際世論」として定着しているため、すなわち欧米にも、第二次大戦がファシズムと帝国主義を打倒した“正義の戦い”だったという単純な「物語」が根付いているため、これと食い違う意見や史実を再検証しようとする意見は全て悪と見なされ、“修正主義”“歴史の歪曲”と切り捨てられてしまう現実があると断じています。そして、こうした自国に関する誤解が蔓延しているにも係らず、領土問題や歴史問題を巡って韓国や中国と同じレベルで泥仕合を繰り広げるのは品がないとか、あるいは韓国や中国の主張に真っ向から声高に反論するのは大人げないとか、品位や節度を重んじるあまり、誤解を解く努力をしてこなかった日本政府の対応、とりわけ情報発信力の弱さを非難しています。その結果、例えば日本の平和憲法が現代の国際情勢の現実にそぐわないことが十分に理解されておらず、集団的自衛権の行使や国連の平和維持活動における自衛隊の権限拡大など、安倍首相をはじめとする保守政治家が提案する改革案は、欧米の価値観からすれば取りに足らないことで、“普通”の国であれば問題視されることはないのに、日本の安全保障政策の如何なる変更も“再軍備”と曲解されてしまう、すなわち日本を巡る誤解は日本の国益を損なうばかりだと警告しています。
また、南京生まれのブロガー・コラムニスト安替氏は、「僕が『反日』をやめた理由(Japan of Nanjing, Japan of Tokyo)」と題するコラムで、かつて彼が学生の頃、毎年春の墓参りの時期に訪れていたのは市内の革命墓地で、弔うのは国民党軍に殺された共産党員だったのに、南京大虐殺記念館を訪れるように変わったのは90年代後半に愛国主義教育が始まってからであり、日本政府には問題があるが、日本の人民は友好的で、日本が軍国主義の亡霊が善良な民衆を支配する国だというのが、大部分の中国人の日本に対する“公式見解”だと述べた上で、日本に留学し、大学教授や学生やジャーナリストと交流する中で、出会った若い日本人はアメリカの友人たちと変わらないことを確信し、日本に対する見方は根底から変わったと告白しています。さらに、中国の歴史教科書には、日本の戦後政治について「80年代の日本の軍拡はアジアの周辺国家の警戒を招いた」と書いてあるだけで、その他の説明は全て戦前あるいは戦中のことであるため、東京に行かない中国人の日本政治に対する理解は、1945年で止まっているのに対し、自分が東京で見聞きした日本政治の発展ぶりは、中国で知ることの出来ない情報ばかりだったとも告白しています。
過去三回のブログで、日・中の「情報心理戦」あるいは「情報戦」について書いて来ましたが、日本は、外交力だけでなく、あらためて中・韓の国民や広く国際世論に訴えるコミュニケーション力を磨かなければならないようです。