大阪市立桜宮高校で、バスケットボール部の顧問から暴力を受けた2年生の男子生徒が自殺した痛ましい事件は、田中真紀子さんを思わせるような橋下市長のお騒がせなオマケがつきましたが(念のため申し添えますと、同校の入試中止にまで及ぶのは、いくら自殺者が出たとはいえ、行き過ぎです、しかも市長が首を突っ込む話ではありません、現・校長の責任を問うて、新しい校長に任せるべき問題です・・・教育行政のことはわからない、一企業人の発想ですが)、女子柔道の園田監督から暴力やパワーハラスメントを受けていた国内トップ選手15人が内部告発した問題が出るに及んで、益々、「体罰」問題として議論を呼んでいます。
このブログのタイトルもマスコミ報道に倣って「体罰」という言葉を付しましたが、実のところ、桜宮高校の問題は、女子柔道と同じで「体罰」の問題ではなく、件の高校生の品行方正と件の顧問の悪しき所業を聞けば、単に「暴力」問題もしくは「パワーハラスメント」問題として認識すべきものであり、「教育に体罰は許されるべきか否か」といった命題を立てる以前に、違法行為を問うべきものです。以前、中国の反日デモに日本中が揺れた時に、ブログに書いたことがあったように、あれは反日「デモ」と呼ぶべきではなく、反日「暴動」または「テロ」と名付けるべき違法行為のはずでした。たかが言葉と言えども正確に使用しなければ、情勢判断を誤りかねません。
では「体罰」問題は、どう捉えるべきか。私は専門家じゃありませんし、自らの経験として「体罰」らしい「体罰」に縁がなかったものですから、観念的にしか捉えることが出来ません。が、元・巨人軍の桑田真澄さんが言われた通り、スポーツに「体罰」は“基本的に”必要ないと思います。私のようなオッサン世代はともかく、もはやそういう時代ではないでしょう。また教育に「体罰」は・・・やはり“原則として”必要ないと思います。ただ、あらためて全否定することもないのではないかとも思います。原発ゼロと同じで、全否定して世の中が全て上手く行くと思うほど、私はナイーブではありませんし、実際問題として、全否定することによって、主役たるべき教育者の手足を縛り、教育現場での打ち手の柔軟性を奪うとしたら、そのマイナスのインパクトの方が罪深いことです。“基本的に”禁止または“原則として”禁止しつつ、飽くまで是々非々で、個別に対応すべきという気はします。
そうしてようやく最大の課題として、「体罰」と「暴力」の境界をどう監視していくかと言う難題に行きつきます。
私は、短いながらも海外駐在したとき、子供の学校には機会があるごとに必ず都合をつけて顔を出すようにしていました。家内が英語が苦手だったという事情もありますが、教師に対して、現地の子供たちに対しては明らかに弱い立場にあるであろう我が子の教育をしっかりサポートする親であることを、印象付けるためです。そうすれば、少なくとも、私は欧米的な義侠心は信じていましたから、教師も人の子、我が子が困ったときには助けてくれるに違いないと、そう信じていました。そういう中で、親として何が出来るかを常に考え、教師と相談し、結果として、教師がニッポン人という異人を受け入れて、クラス運営をスムーズに行う作業を、親の立場でサポートするという運命共同体を作りあげようとしたのです(なんて言うと大袈裟ですね)。
これは極端な例ですが、日本の教育シーンに横たわる問題の一つは、親の不在ではないかと思っています。教育行政に期待し過ぎるのではなく、教師や校長に任せ切るのではなく、教育を親が見守る、場合によっては乗り込んでいく、教師を信頼しつつ、親としてどんなサポートが出来るか考える、そういう姿勢が、教師との間に信頼関係を築き、「いじめ」や「体罰」の問題を少しでも和らげる(完全に防ぐことは難しいと思いますが)ことに繋がるのではないかという気がしています。もし、我が子が「体罰」ならぬ「暴力」を受けていることを知ったら、助けない親はあり得ない。教師は「聖職」だと、私は真剣に思っていますが、それでは学校は親が手出し出来ない「聖域」かというと、そんなこともあり得ない。そのあたりの意識がどうも日本には弱いような気がします。こんなこと言うと、モンスター・ペアレントと紙一重!?でしょうか。
このブログのタイトルもマスコミ報道に倣って「体罰」という言葉を付しましたが、実のところ、桜宮高校の問題は、女子柔道と同じで「体罰」の問題ではなく、件の高校生の品行方正と件の顧問の悪しき所業を聞けば、単に「暴力」問題もしくは「パワーハラスメント」問題として認識すべきものであり、「教育に体罰は許されるべきか否か」といった命題を立てる以前に、違法行為を問うべきものです。以前、中国の反日デモに日本中が揺れた時に、ブログに書いたことがあったように、あれは反日「デモ」と呼ぶべきではなく、反日「暴動」または「テロ」と名付けるべき違法行為のはずでした。たかが言葉と言えども正確に使用しなければ、情勢判断を誤りかねません。
では「体罰」問題は、どう捉えるべきか。私は専門家じゃありませんし、自らの経験として「体罰」らしい「体罰」に縁がなかったものですから、観念的にしか捉えることが出来ません。が、元・巨人軍の桑田真澄さんが言われた通り、スポーツに「体罰」は“基本的に”必要ないと思います。私のようなオッサン世代はともかく、もはやそういう時代ではないでしょう。また教育に「体罰」は・・・やはり“原則として”必要ないと思います。ただ、あらためて全否定することもないのではないかとも思います。原発ゼロと同じで、全否定して世の中が全て上手く行くと思うほど、私はナイーブではありませんし、実際問題として、全否定することによって、主役たるべき教育者の手足を縛り、教育現場での打ち手の柔軟性を奪うとしたら、そのマイナスのインパクトの方が罪深いことです。“基本的に”禁止または“原則として”禁止しつつ、飽くまで是々非々で、個別に対応すべきという気はします。
そうしてようやく最大の課題として、「体罰」と「暴力」の境界をどう監視していくかと言う難題に行きつきます。
私は、短いながらも海外駐在したとき、子供の学校には機会があるごとに必ず都合をつけて顔を出すようにしていました。家内が英語が苦手だったという事情もありますが、教師に対して、現地の子供たちに対しては明らかに弱い立場にあるであろう我が子の教育をしっかりサポートする親であることを、印象付けるためです。そうすれば、少なくとも、私は欧米的な義侠心は信じていましたから、教師も人の子、我が子が困ったときには助けてくれるに違いないと、そう信じていました。そういう中で、親として何が出来るかを常に考え、教師と相談し、結果として、教師がニッポン人という異人を受け入れて、クラス運営をスムーズに行う作業を、親の立場でサポートするという運命共同体を作りあげようとしたのです(なんて言うと大袈裟ですね)。
これは極端な例ですが、日本の教育シーンに横たわる問題の一つは、親の不在ではないかと思っています。教育行政に期待し過ぎるのではなく、教師や校長に任せ切るのではなく、教育を親が見守る、場合によっては乗り込んでいく、教師を信頼しつつ、親としてどんなサポートが出来るか考える、そういう姿勢が、教師との間に信頼関係を築き、「いじめ」や「体罰」の問題を少しでも和らげる(完全に防ぐことは難しいと思いますが)ことに繋がるのではないかという気がしています。もし、我が子が「体罰」ならぬ「暴力」を受けていることを知ったら、助けない親はあり得ない。教師は「聖職」だと、私は真剣に思っていますが、それでは学校は親が手出し出来ない「聖域」かというと、そんなこともあり得ない。そのあたりの意識がどうも日本には弱いような気がします。こんなこと言うと、モンスター・ペアレントと紙一重!?でしょうか。