今日は朝から冷たい雨が降り、先ほど来、雪に変わったが(東京の気温は昼頃でも2℃程度)、靖国神社の標本木で5~6輪以上の花が咲く状態が確認されたようで、平年より12日、昨年より7日も早い、統計開始以来最速の開花宣言が出た。このまま新型コロナウイルスの活動が沈静化してくれればよいのだが。
先日、YouTubeで国会のある委員会の審議の模様を見るとはなしに見た。旧・民主党として、こういうときこそアラ探しをして足を引っ張るのではなく、東日本大震災を政権与党として経験したのだから、その教訓を活かして危機管理をリードするくらいの器量を見せて欲しいところだが、蓮舫さんの五月雨式の質問は、ケチをつけたい気持ちがありありの悪意に満ちていて、どう贔屓目に見ても建設的とは思えなかった。まあ政治家の質疑はそんなものだとタカを括っていたが、かかる情勢だから、あらためて失望してしまった。第二次・安倍政権になってからというもの、安倍さん本人が戦後レジームの克服を口にして改憲への意欲を見せ、岸という血筋からの類推もあり、これまでになく保守色が強いように受け止められて(打ち出す政策は野党のお株を奪うようなリベラルなものも多いのだが 笑)、与・野党の間の、さらにはマスコミを含めた体制・反体制の間の対立は、これまで以上に激しくなった。朝日新聞からは、アベの葬式はウチで出すなどと豪語する声が漏れ聞こえてきたものだった(苦笑)。そうこうする内に、ニワトリとタマゴの関係だと言わざるを得ないが、安倍さんの対応は見る見る悪くなり、折からのネットの普及で、外野席の観客も見たいものしか見ないような人が多くなったこととも相俟って、溝は深まるばかりである。こうした分断があることは、新型コロナウイルス対応のような非常時において良いはずがない。日本人はおしなべて粛々と新型コロナウイルスへの対応を続け、例年になくインフルエンザの流行も抑えられているほどだが、安倍政権が打ち出す対策に対しては、なにかとケチがつく。中には「ためにするケチ」で疑問に思うことがある。
この春には十年に一度と言われる中国の国家主席の国賓としての来日が予定され、その延期なり中止なりがなかなか決まらなかったため、中国に忖度しているのではないかと批判を浴びた。地域を限定するのではなく中国全土からの入国制限という強硬措置(と言っても要請だが)が後れたのは事実だろう。その証拠に、国賓来日の延期と中国全土の入国制限はほぼ同時に発表された。これは忖度と言うよりも、誘った側から断れない外交儀礼に忠実過ぎたためではないかと思うのは、前回ブログで触れた通りだが、中国にしても安倍さんにしても、新型コロナウイルスの影響は大きくないと見誤ったのではないかとも思う。証拠や証言もない、私の憶測でしかないが、いずれにしても、この一件で、安倍政権の対応にはマイナス・イメージが付きまとい、疑心暗鬼が、後々、尾を引いている。
一つは、指定感染症の問題だ。日本において政治行政が感染症に積極的に対応するためには、先ずその感染症が「法律上に位置づけられる感染症」すなわち「指定感染症」に指定される必要がある。これは厚労省の管轄で、厚生科学審議会の専門家が判断することになっていたのだが、WHOによる非常事態宣言がなかなか出なかったため(ようやく1/30に発出)、「指定感染症」指定も時期尚早として見送られていた。そこで安倍政権は、この専門家会議の議論をすっ飛ばし、形式的に専門家の間で書面を回覧する持ち回り決議という方法で手続きを進め、1/28に政治判断(閣議決定)により指定感染症に指定したのだそうだ(このあたりの話は橋下徹氏による)。まあ、閣議決定の乱発を懸念する声があるのは事実だし、専門家の意見を聞かないといった批判も聞かれるのは、分からなくはないが、専門家会議が機能しないケースもあったようなのである。
二つ目は、2/27に要請された小中高一斉休校で、安倍さんは「子どもたちの健康・安全第一」と発言したが、子供の重症化リスクは高くないので、明らかにオカシイ。だったら同じように高齢者に手厚い対策をと、蓮舫さんは反応したが、ああ言えばこう言うで、これも聞くに堪えない。本来は学級閉鎖からの類推で、濃厚接触しがちな子供たちを介して高齢者に感染が広がるのを予防するのが趣旨だと考えるのが常識だと思うが、反安倍の勢い余って、そんな常識は揉み消されたかのようだ。実際のところ、休校を決めたキッカケは、ある地域で教職員の多くが通うスポーツジムで感染者が出たことから、学校がクラスターとなって軽症にとどまりがちの子供から高齢者に感染が広がるのを避けたかった、というのが真相のようである(このあたりの話は岸博幸氏による)。それならそうと説明すればいいのに、官僚が作った答弁だったのか、正確に伝えられなかったばかりに、安倍さんの突然の休校要請に対して、マスコミや俄か評論家をはじめ多くの人が反発した。
三つ目は、医療崩壊で、孫さんの一件で、最近ようやく普通に会話に出てくるようになったが、習近平国家主席来日や東京オリパラに配慮して、感染者数を低く見せているのではないかと、さんざん批判された。PCR検査は必ずしも精度が高いわけではなく、特効薬もワクチンもないし、院内感染も懸念されるので、重症化しない限りは自宅療養して、限りある医療のリソースを重篤者に専念させるのがベスト、というコンセンサスがようやく出来つつあるように思う。
こうして危機管理においては、コミュニケーション(クライシス・コミュニケーション)が如何に重要か、そしてその前提には受け手と出し手の信頼関係が如何に重要かを実感する。安倍政権の対応は、後手後手でお世辞にも褒められたものではないが、素性が今もなおよく分からない新型コロナウイルスを相手にする以上、多少の後手は仕方ないようにも思う。それよりもむしろ、常日頃から、体制・反体制の分断が広がり、両者の間の信頼感が失われていたことが、実に不幸だと思う。そして非常時には、官僚にも勿論、働いてもらわなければならないが、官僚が用意する答弁に頼るのではなく、クライシス・コミュニケーションなど、その筋の専門家をうまく使うことがポイントではないかとも思う(国内向けだけではなく、海外向けも)。
先日、YouTubeで国会のある委員会の審議の模様を見るとはなしに見た。旧・民主党として、こういうときこそアラ探しをして足を引っ張るのではなく、東日本大震災を政権与党として経験したのだから、その教訓を活かして危機管理をリードするくらいの器量を見せて欲しいところだが、蓮舫さんの五月雨式の質問は、ケチをつけたい気持ちがありありの悪意に満ちていて、どう贔屓目に見ても建設的とは思えなかった。まあ政治家の質疑はそんなものだとタカを括っていたが、かかる情勢だから、あらためて失望してしまった。第二次・安倍政権になってからというもの、安倍さん本人が戦後レジームの克服を口にして改憲への意欲を見せ、岸という血筋からの類推もあり、これまでになく保守色が強いように受け止められて(打ち出す政策は野党のお株を奪うようなリベラルなものも多いのだが 笑)、与・野党の間の、さらにはマスコミを含めた体制・反体制の間の対立は、これまで以上に激しくなった。朝日新聞からは、アベの葬式はウチで出すなどと豪語する声が漏れ聞こえてきたものだった(苦笑)。そうこうする内に、ニワトリとタマゴの関係だと言わざるを得ないが、安倍さんの対応は見る見る悪くなり、折からのネットの普及で、外野席の観客も見たいものしか見ないような人が多くなったこととも相俟って、溝は深まるばかりである。こうした分断があることは、新型コロナウイルス対応のような非常時において良いはずがない。日本人はおしなべて粛々と新型コロナウイルスへの対応を続け、例年になくインフルエンザの流行も抑えられているほどだが、安倍政権が打ち出す対策に対しては、なにかとケチがつく。中には「ためにするケチ」で疑問に思うことがある。
この春には十年に一度と言われる中国の国家主席の国賓としての来日が予定され、その延期なり中止なりがなかなか決まらなかったため、中国に忖度しているのではないかと批判を浴びた。地域を限定するのではなく中国全土からの入国制限という強硬措置(と言っても要請だが)が後れたのは事実だろう。その証拠に、国賓来日の延期と中国全土の入国制限はほぼ同時に発表された。これは忖度と言うよりも、誘った側から断れない外交儀礼に忠実過ぎたためではないかと思うのは、前回ブログで触れた通りだが、中国にしても安倍さんにしても、新型コロナウイルスの影響は大きくないと見誤ったのではないかとも思う。証拠や証言もない、私の憶測でしかないが、いずれにしても、この一件で、安倍政権の対応にはマイナス・イメージが付きまとい、疑心暗鬼が、後々、尾を引いている。
一つは、指定感染症の問題だ。日本において政治行政が感染症に積極的に対応するためには、先ずその感染症が「法律上に位置づけられる感染症」すなわち「指定感染症」に指定される必要がある。これは厚労省の管轄で、厚生科学審議会の専門家が判断することになっていたのだが、WHOによる非常事態宣言がなかなか出なかったため(ようやく1/30に発出)、「指定感染症」指定も時期尚早として見送られていた。そこで安倍政権は、この専門家会議の議論をすっ飛ばし、形式的に専門家の間で書面を回覧する持ち回り決議という方法で手続きを進め、1/28に政治判断(閣議決定)により指定感染症に指定したのだそうだ(このあたりの話は橋下徹氏による)。まあ、閣議決定の乱発を懸念する声があるのは事実だし、専門家の意見を聞かないといった批判も聞かれるのは、分からなくはないが、専門家会議が機能しないケースもあったようなのである。
二つ目は、2/27に要請された小中高一斉休校で、安倍さんは「子どもたちの健康・安全第一」と発言したが、子供の重症化リスクは高くないので、明らかにオカシイ。だったら同じように高齢者に手厚い対策をと、蓮舫さんは反応したが、ああ言えばこう言うで、これも聞くに堪えない。本来は学級閉鎖からの類推で、濃厚接触しがちな子供たちを介して高齢者に感染が広がるのを予防するのが趣旨だと考えるのが常識だと思うが、反安倍の勢い余って、そんな常識は揉み消されたかのようだ。実際のところ、休校を決めたキッカケは、ある地域で教職員の多くが通うスポーツジムで感染者が出たことから、学校がクラスターとなって軽症にとどまりがちの子供から高齢者に感染が広がるのを避けたかった、というのが真相のようである(このあたりの話は岸博幸氏による)。それならそうと説明すればいいのに、官僚が作った答弁だったのか、正確に伝えられなかったばかりに、安倍さんの突然の休校要請に対して、マスコミや俄か評論家をはじめ多くの人が反発した。
三つ目は、医療崩壊で、孫さんの一件で、最近ようやく普通に会話に出てくるようになったが、習近平国家主席来日や東京オリパラに配慮して、感染者数を低く見せているのではないかと、さんざん批判された。PCR検査は必ずしも精度が高いわけではなく、特効薬もワクチンもないし、院内感染も懸念されるので、重症化しない限りは自宅療養して、限りある医療のリソースを重篤者に専念させるのがベスト、というコンセンサスがようやく出来つつあるように思う。
こうして危機管理においては、コミュニケーション(クライシス・コミュニケーション)が如何に重要か、そしてその前提には受け手と出し手の信頼関係が如何に重要かを実感する。安倍政権の対応は、後手後手でお世辞にも褒められたものではないが、素性が今もなおよく分からない新型コロナウイルスを相手にする以上、多少の後手は仕方ないようにも思う。それよりもむしろ、常日頃から、体制・反体制の分断が広がり、両者の間の信頼感が失われていたことが、実に不幸だと思う。そして非常時には、官僚にも勿論、働いてもらわなければならないが、官僚が用意する答弁に頼るのではなく、クライシス・コミュニケーションなど、その筋の専門家をうまく使うことがポイントではないかとも思う(国内向けだけではなく、海外向けも)。