昨日、巨人の坂本勇人選手が通算2000安打を達成した。アメリカ大統領選のように、あれかこれかで揺さぶられるのと違って、ただ地道にヒットを積み重ねていく作業だから、すっきりしている。しかし、途方もない数字であるのは間違いない。
なにしろ、過去にプロはおろか甲子園にも出場出来ない野球小僧を含めて幾千万人もの中で、またプロ野球86年の歴史の中で、達成したのは53人目である。しかも31歳10ヶ月での達成は、史上2番目の若さでもある(試合数で言えば8番目)。さらに、遊撃手という激務をこなしながらの記録である。因みに過去に遊撃手のまま記録達成したのは石井琢朗氏(当時35歳)くらいで、だいたい別のポジションに移ってから記録達成したらしい。
今年はコロナ禍のため、開幕が三ヶ月近くズレ込んだ。コロナ禍がなければ、史上最年少記録を狙える位置にあったのが惜しまれる。シーズン立ち上がりは調子が出ずにもたついたが、残り3試合で、しかもチームにとって東京ドーム最終戦に合わせて来たのは、「持っている男」故であろうか。巨人の生え抜きとしては、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲、阿部慎之助に次ぐ6人目で、誰もがよく知る名選手列伝に名を連ねた。
若い頃のエピソードが面白い(今も十分若いが)。
田中まーくんとともに所属していた少年野球チームの監督は、「吸収がすごく早い。教えたことを、すぐに7、8割の完成度で実行できた」と振り返り、「天才肌」の坂本と「努力型」の田中という、正反対の2人が競い合うように力を磨いたという。ONのような運命を感じる(言うまでもなく一つのチーム内で切磋琢磨した「天才肌」の長嶋と「努力型」の王である)。坂本はもともと左利きだったとは驚きだが、指導者の勧めもあり、一時期、両打ちに挑戦し、どうしても飛距離で田中に勝つことができず、再び右打者に専念したのだそうだ。
母校・光星学院高(現・八戸学院光星高)時代の恩師が、中学生時代の坂本を見たときの印象として、「身のこなしが柔らかく、『プロに行く子だな』とピンときました。ただ、かなりヤンチャだっていうんです(笑)」と語っておられる。(“更生”ならぬ)“光星”学院に野球留学すると、案の定、手を焼いたそうで、「練習をさぼることはありませんでしたが、ノックを『死ねボケ!』と言いながら返球してきたり(笑)」したそうで、2000安打を達成するまでの選手に成長した理由を聞かれて、「反骨精神ですね」と答えておられる。なるほど。
ドラフトのときの巨人スカウトの見立ては、身体能力に優れたアスリートタイプの投手、打者としても有望で、ショートとして育ててみれば面白い、大化けする可能性は十分にある、というものだったそうだ。当時、二岡に代わる新時代の遊撃手を欲しており、また余り報道で注目されていなかったこともあって、外れ1巡目で坂本を当てたそうだ。「初めて見たのは高校1年の秋。それからずっと気になっていました。躍動感があって、魅せるものがある。特に目に留まったのは、あの独特の打席でのタイミングの取り方でした。2年秋の東北大会は初戦から決勝まで、坂本目当てで全試合を見に行ったぐらいです」とまで言わせている。
今、巨人の野手総合コーチを務める件の石井琢朗氏は、坂本が打てる一番の理由を「彼の持っている独特の間(ま)」と表現し、武道を引き合いに出される。野球では打者は常に攻められる立場、しかも速球もあれば変化球もあり、3割打てば「勝者」で、自分が打てるポイントにいかに呼び込めるか、坂本はタイミングを取ることが抜群にうまく、石井コーチは「(投手に)合わせるんだけれども、なるべく自分の間合いに持っていく。それが彼の独特のもの」と評される。また、「間近で見て、インコースのボールに対するさばきというか、バットの出し方は天才的」だと再確認したといい、「修正能力が高い。ピッチャーに対して、おかしいなと思ったらタイミングなり、バットの持ち方も変えられる。だから大崩れしないというか、調子の悪い時期が続かない」と語られる。絶妙なバット捌きの内角打ちは彼の代名詞だ。
そして昨日の試合後のインタビューで、「今でも、野球がうまくなりたい。どうやったらもっと打てるのか考えている。」と語った。イチローに通じる、永遠の野球小僧だ(微笑)。シーズン最多二塁打記録を持つ先輩の谷佳知氏(当時巨人)に「二塁打ってどうやって打つんですか?」と率直に質問したというし、山田哲人選手(ヤクルト)にバッティングや練習方法の話を聞き、今期、首位打者争いを演じる佐野恵太選手(DeNA)に内角打ちの考え方を聞き、オフには同学年の秋山翔吾選手(レッズ)らと野球談議を重ねるなど、好きこそものの上手と言うが、いくら天才的であっても、旺盛な探究心と向上心があってこそ、球界屈指の好打者にのぼり詰められるのだろう。やんちゃな野球小僧と言えば、清原和博氏などの愛すべき系譜に連なる(笑)。
原辰徳監督は、次の打席で放ったバックスクリーンに飛び込む19号ホームランを、力強く3000安打に向かってスタートを切ったとして、喜んだ。日本プロ野球史上二人目の3000安打を見てみたいものだ。
なにしろ、過去にプロはおろか甲子園にも出場出来ない野球小僧を含めて幾千万人もの中で、またプロ野球86年の歴史の中で、達成したのは53人目である。しかも31歳10ヶ月での達成は、史上2番目の若さでもある(試合数で言えば8番目)。さらに、遊撃手という激務をこなしながらの記録である。因みに過去に遊撃手のまま記録達成したのは石井琢朗氏(当時35歳)くらいで、だいたい別のポジションに移ってから記録達成したらしい。
今年はコロナ禍のため、開幕が三ヶ月近くズレ込んだ。コロナ禍がなければ、史上最年少記録を狙える位置にあったのが惜しまれる。シーズン立ち上がりは調子が出ずにもたついたが、残り3試合で、しかもチームにとって東京ドーム最終戦に合わせて来たのは、「持っている男」故であろうか。巨人の生え抜きとしては、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲、阿部慎之助に次ぐ6人目で、誰もがよく知る名選手列伝に名を連ねた。
若い頃のエピソードが面白い(今も十分若いが)。
田中まーくんとともに所属していた少年野球チームの監督は、「吸収がすごく早い。教えたことを、すぐに7、8割の完成度で実行できた」と振り返り、「天才肌」の坂本と「努力型」の田中という、正反対の2人が競い合うように力を磨いたという。ONのような運命を感じる(言うまでもなく一つのチーム内で切磋琢磨した「天才肌」の長嶋と「努力型」の王である)。坂本はもともと左利きだったとは驚きだが、指導者の勧めもあり、一時期、両打ちに挑戦し、どうしても飛距離で田中に勝つことができず、再び右打者に専念したのだそうだ。
母校・光星学院高(現・八戸学院光星高)時代の恩師が、中学生時代の坂本を見たときの印象として、「身のこなしが柔らかく、『プロに行く子だな』とピンときました。ただ、かなりヤンチャだっていうんです(笑)」と語っておられる。(“更生”ならぬ)“光星”学院に野球留学すると、案の定、手を焼いたそうで、「練習をさぼることはありませんでしたが、ノックを『死ねボケ!』と言いながら返球してきたり(笑)」したそうで、2000安打を達成するまでの選手に成長した理由を聞かれて、「反骨精神ですね」と答えておられる。なるほど。
ドラフトのときの巨人スカウトの見立ては、身体能力に優れたアスリートタイプの投手、打者としても有望で、ショートとして育ててみれば面白い、大化けする可能性は十分にある、というものだったそうだ。当時、二岡に代わる新時代の遊撃手を欲しており、また余り報道で注目されていなかったこともあって、外れ1巡目で坂本を当てたそうだ。「初めて見たのは高校1年の秋。それからずっと気になっていました。躍動感があって、魅せるものがある。特に目に留まったのは、あの独特の打席でのタイミングの取り方でした。2年秋の東北大会は初戦から決勝まで、坂本目当てで全試合を見に行ったぐらいです」とまで言わせている。
今、巨人の野手総合コーチを務める件の石井琢朗氏は、坂本が打てる一番の理由を「彼の持っている独特の間(ま)」と表現し、武道を引き合いに出される。野球では打者は常に攻められる立場、しかも速球もあれば変化球もあり、3割打てば「勝者」で、自分が打てるポイントにいかに呼び込めるか、坂本はタイミングを取ることが抜群にうまく、石井コーチは「(投手に)合わせるんだけれども、なるべく自分の間合いに持っていく。それが彼の独特のもの」と評される。また、「間近で見て、インコースのボールに対するさばきというか、バットの出し方は天才的」だと再確認したといい、「修正能力が高い。ピッチャーに対して、おかしいなと思ったらタイミングなり、バットの持ち方も変えられる。だから大崩れしないというか、調子の悪い時期が続かない」と語られる。絶妙なバット捌きの内角打ちは彼の代名詞だ。
そして昨日の試合後のインタビューで、「今でも、野球がうまくなりたい。どうやったらもっと打てるのか考えている。」と語った。イチローに通じる、永遠の野球小僧だ(微笑)。シーズン最多二塁打記録を持つ先輩の谷佳知氏(当時巨人)に「二塁打ってどうやって打つんですか?」と率直に質問したというし、山田哲人選手(ヤクルト)にバッティングや練習方法の話を聞き、今期、首位打者争いを演じる佐野恵太選手(DeNA)に内角打ちの考え方を聞き、オフには同学年の秋山翔吾選手(レッズ)らと野球談議を重ねるなど、好きこそものの上手と言うが、いくら天才的であっても、旺盛な探究心と向上心があってこそ、球界屈指の好打者にのぼり詰められるのだろう。やんちゃな野球小僧と言えば、清原和博氏などの愛すべき系譜に連なる(笑)。
原辰徳監督は、次の打席で放ったバックスクリーンに飛び込む19号ホームランを、力強く3000安打に向かってスタートを切ったとして、喜んだ。日本プロ野球史上二人目の3000安打を見てみたいものだ。