ロシアは、戦場では意外にヘタレだが(そのためロシアの装備品に頼る中国や北朝鮮は当惑していると言われる)、経済制裁を受けても意外にしぶといと評価されているようだ(確かに制裁には抜け道が多い)。戦闘の中心は東・南部に移って、自衛隊の元幹部の方々を中心にロシア軍を軽く見る声が多いが、プーチン大統領は「マリウポリの戦闘任務完了」との認識を早々に示したのは、情報戦の一種なのか、予断を許さない。
ちょうど今頃の季節のことだった。大学に入学して間もない麗かな春の日に、英語の講義が同級生の友人に乗っ取られたことがある(とは、過去にも本ブログで話題にしたことがある)。彼は北海道の出身で、大学の古ぼけた寮に住み、彼ら寮生たちは、老朽化した寮を取り壊そうと躍起になる大学当局との間で「闘争」を繰り広げていた。黒ヘルメットが彼らの目印だ(因みに、革マルは赤ヘルで、中核派は白ヘルだったと記憶する)。彼が教室の壇上で演説を始めると、担当教授は、諦めて何も言わずに教室を出て行かれた。私は申し訳ないことに彼の話の大半は聞き流したが、唯一、「自由は勝ち取るものである」と言い残したことが記憶に残る。当時の私には、ざらついた違和感しかなかったが、今となっては欧米の歴史ではごく当たり前の事実だと思う。
ロシア・ウクライナ戦争を見ていて、ふとそんな記憶が蘇った。ウクライナは、まさに自由と自主独立のために戦っている。そこには、旧・ソ連をはじめとして、ウクライナ民族の独立が蹂躙された歴史的な記憶が大いに作用しているように思う。自由も独立も、地続きのユーラシア大陸にあっては(島国として周囲から隔絶される幸運に恵まれた日本人が思うような)所与のものではない。アメリカは、ウクライナの行く末など気にしない、軍産複合体を抱えて老朽化した装備品を一掃できて却ってハッピー、などと揶揄する声があがるが、それは言い過ぎで、アメリカはやはり理念の国だと思う。民主主義を破壊したトランプ氏の後を継いだ民主党のバイデン氏のことだから、なおのこと。
先日、東京大学の入学式で、映画監督・河瀬直美さんの祝辞が物議を醸した。切り取られ発言だと援護する声があり、確かに分からなくはないが、それにしては無造作で隙があり過ぎる。祝辞の全体からすれば本丸ではないにしても、その限りでは本心と言わざるを得ない。曰く、「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」などと切り取ってしまったが(苦笑)、さすがに喩えとしては筋が良くなくて、国際政治学者の細谷雄一さんや池内恵さんや篠田英朗さんといった私が贔屓にする教授たちから批判が相次いだ。さらに祝辞の引用を続けると、「人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」・・・う~ん、本丸は分かるが、その主張の裏にチラつく本心にはやはり違和感がある。「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性」に触れるのは、某野党幹部と同じである。こんなに平和ボケして骨抜きの国民になってしまったというのに(と、自戒をこめて・・・)。
彼女が、とは言わない。あくまで一般論だが、リベラルな方は論理に溺れるところがあって、現実的な思慮に乏しく、奇を衒うことにも吝かでなく、危なっかしいように思う。
学生時代、私が尊敬する、ロシア政治思想を専門とする教授は、一人のドストエフスキーをも輩出しなかった共産主義の旧・ソ連をボロクソに貶し、価値相対主義(今風に言えば「どっちもどっち」)なるものをこっぴどく批判された。甘ちゃんだった私は大いに戸惑ったものだが、今となってはよく分かる。世の中には、論理で割り切れなくても重要なことがある。
政治学の文脈で、かつて第一次世界大戦以前、ナポレオン戦争後に、クラウゼヴィッツが言ったように、戦争は政治の延長であり、アナーキカルな世界にあっては、国家間の闘争は正義と正義の争いだった。日露戦争などはまさにその渦中にあった。今もなお、オフェンシブ・リアリズムで鳴らすシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授は、かつてのジョージ・ケナン氏同様、ロシア・ウクライナ戦争のそもそもの責任をアメリカに帰しておられる。私はかねて氏の理論には敬意を払って来たが、だからと言ってオフェンシブ・リアリズムだけでこの世界を割り切るとすれば、覇権学としての帝国主義時代の地政学に舞い戻るかのようで、第一次世界大戦以降、価値の体系にも重きを置いて来た国際政治の理想主義的な側面との間でバランスがとれず、居心地がよいものではない。
具体的に言えば、プーチン大統領が主張するNATOの東方拡大やウクライナとの民族的同一性は、彼一人の独善でしかなく、21世紀を生きる私には19世紀的なノスタルジーにしか見えない。その証拠に、まがりなりにも形式的には「中立」を維持して来た(実質的には1994年にNATOの「平和のためのパートナーシップ」に加わっていた)フィンランドとスウェーデンすら、今、NATOに追いやろうとしているではないか。これはロシアの行動が撒いた種(=結果)であって、NATO東方拡大が先にあった(=原因)わけではない。小泉悠氏の著書でも、旧・ソ連圏を「勢力圏」と見做すロシアの地政学について語られていて、なるほど現状が説明できてよく分かるのだが、だからと言って、ソフトパワーの魅力によって東欧圏を引き留めることが出来ず、ハードパワーとしての武力によって現状変更し、「勢力圏」を回復しようとする試みは、21世紀の現代にあっては19世紀的であって独善でしかない(と思うのは、プーチンにしてみれば西欧の独善なのだろうが)。
二度の世界大戦を経て、その戦禍が余りに悲惨だったことから、人類は(侵略)戦争を違法化する新たな段階に踏み込んだ(かつての日本とドイツは、周回遅れの帝国主義で、世界の潮流から外れて悲劇を招いた)。その精神は、その後、国連憲章だけでなく日本国憲法にも埋め込まれている。こうして積み上げられて来た人類の(と言うより正確には西欧の・・・なのだが)歴史の叡智は、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国を迎え入れた「世界」が西欧を超えて地球規模に広がってなお、まがりなりにも受け継がれていると思いたい。その重みを私たちは忘れるべきではないと思う。何よりロシアは、国際連合の常任理事国だったソ連の後継国家なのだから。
ちょうど今頃の季節のことだった。大学に入学して間もない麗かな春の日に、英語の講義が同級生の友人に乗っ取られたことがある(とは、過去にも本ブログで話題にしたことがある)。彼は北海道の出身で、大学の古ぼけた寮に住み、彼ら寮生たちは、老朽化した寮を取り壊そうと躍起になる大学当局との間で「闘争」を繰り広げていた。黒ヘルメットが彼らの目印だ(因みに、革マルは赤ヘルで、中核派は白ヘルだったと記憶する)。彼が教室の壇上で演説を始めると、担当教授は、諦めて何も言わずに教室を出て行かれた。私は申し訳ないことに彼の話の大半は聞き流したが、唯一、「自由は勝ち取るものである」と言い残したことが記憶に残る。当時の私には、ざらついた違和感しかなかったが、今となっては欧米の歴史ではごく当たり前の事実だと思う。
ロシア・ウクライナ戦争を見ていて、ふとそんな記憶が蘇った。ウクライナは、まさに自由と自主独立のために戦っている。そこには、旧・ソ連をはじめとして、ウクライナ民族の独立が蹂躙された歴史的な記憶が大いに作用しているように思う。自由も独立も、地続きのユーラシア大陸にあっては(島国として周囲から隔絶される幸運に恵まれた日本人が思うような)所与のものではない。アメリカは、ウクライナの行く末など気にしない、軍産複合体を抱えて老朽化した装備品を一掃できて却ってハッピー、などと揶揄する声があがるが、それは言い過ぎで、アメリカはやはり理念の国だと思う。民主主義を破壊したトランプ氏の後を継いだ民主党のバイデン氏のことだから、なおのこと。
先日、東京大学の入学式で、映画監督・河瀬直美さんの祝辞が物議を醸した。切り取られ発言だと援護する声があり、確かに分からなくはないが、それにしては無造作で隙があり過ぎる。祝辞の全体からすれば本丸ではないにしても、その限りでは本心と言わざるを得ない。曰く、「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」などと切り取ってしまったが(苦笑)、さすがに喩えとしては筋が良くなくて、国際政治学者の細谷雄一さんや池内恵さんや篠田英朗さんといった私が贔屓にする教授たちから批判が相次いだ。さらに祝辞の引用を続けると、「人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」・・・う~ん、本丸は分かるが、その主張の裏にチラつく本心にはやはり違和感がある。「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性」に触れるのは、某野党幹部と同じである。こんなに平和ボケして骨抜きの国民になってしまったというのに(と、自戒をこめて・・・)。
彼女が、とは言わない。あくまで一般論だが、リベラルな方は論理に溺れるところがあって、現実的な思慮に乏しく、奇を衒うことにも吝かでなく、危なっかしいように思う。
学生時代、私が尊敬する、ロシア政治思想を専門とする教授は、一人のドストエフスキーをも輩出しなかった共産主義の旧・ソ連をボロクソに貶し、価値相対主義(今風に言えば「どっちもどっち」)なるものをこっぴどく批判された。甘ちゃんだった私は大いに戸惑ったものだが、今となってはよく分かる。世の中には、論理で割り切れなくても重要なことがある。
政治学の文脈で、かつて第一次世界大戦以前、ナポレオン戦争後に、クラウゼヴィッツが言ったように、戦争は政治の延長であり、アナーキカルな世界にあっては、国家間の闘争は正義と正義の争いだった。日露戦争などはまさにその渦中にあった。今もなお、オフェンシブ・リアリズムで鳴らすシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授は、かつてのジョージ・ケナン氏同様、ロシア・ウクライナ戦争のそもそもの責任をアメリカに帰しておられる。私はかねて氏の理論には敬意を払って来たが、だからと言ってオフェンシブ・リアリズムだけでこの世界を割り切るとすれば、覇権学としての帝国主義時代の地政学に舞い戻るかのようで、第一次世界大戦以降、価値の体系にも重きを置いて来た国際政治の理想主義的な側面との間でバランスがとれず、居心地がよいものではない。
具体的に言えば、プーチン大統領が主張するNATOの東方拡大やウクライナとの民族的同一性は、彼一人の独善でしかなく、21世紀を生きる私には19世紀的なノスタルジーにしか見えない。その証拠に、まがりなりにも形式的には「中立」を維持して来た(実質的には1994年にNATOの「平和のためのパートナーシップ」に加わっていた)フィンランドとスウェーデンすら、今、NATOに追いやろうとしているではないか。これはロシアの行動が撒いた種(=結果)であって、NATO東方拡大が先にあった(=原因)わけではない。小泉悠氏の著書でも、旧・ソ連圏を「勢力圏」と見做すロシアの地政学について語られていて、なるほど現状が説明できてよく分かるのだが、だからと言って、ソフトパワーの魅力によって東欧圏を引き留めることが出来ず、ハードパワーとしての武力によって現状変更し、「勢力圏」を回復しようとする試みは、21世紀の現代にあっては19世紀的であって独善でしかない(と思うのは、プーチンにしてみれば西欧の独善なのだろうが)。
二度の世界大戦を経て、その戦禍が余りに悲惨だったことから、人類は(侵略)戦争を違法化する新たな段階に踏み込んだ(かつての日本とドイツは、周回遅れの帝国主義で、世界の潮流から外れて悲劇を招いた)。その精神は、その後、国連憲章だけでなく日本国憲法にも埋め込まれている。こうして積み上げられて来た人類の(と言うより正確には西欧の・・・なのだが)歴史の叡智は、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国を迎え入れた「世界」が西欧を超えて地球規模に広がってなお、まがりなりにも受け継がれていると思いたい。その重みを私たちは忘れるべきではないと思う。何よりロシアは、国際連合の常任理事国だったソ連の後継国家なのだから。