monoろぐ

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室生犀星「冬の庭」

2014年12月04日 | 読書日記

室生犀星 冬の庭
 冬の庭木としては別に特別なものはないが、梅擬(うめもどき)の実の朱いのが冬深く風荒んでくるころに、ぼろぼろ零(こぼ)れるのはいいものである。南天の騒々しさにくらべると仲々澄んだ感じである。これは零れ落ちるときが最もよい。下草でも茎の強いもので実や穂になつたものは、そのまま冬も刈らずに置くと却つて風雅なものである。石蕗(つわぶき)の花も枯れたまま置くと侘びた姿で春まで残つてゐる。砥草(とくさ)などは北風にさらされる方の茎の色が茜色に焼け、さかんな水気を吸ひ上げ尖端(さき)を蕭條と枯らしてゐるなど冬の色である。砥草はまとめて植ゑるよりも斑に七八本づつ乱して置く方がいいことを冬に入つてから知つた。
 枸杞(くこ)の実の斑に残つたのは、その朱い実を見つめてゐるだけでも、悲しくなる或る種類の愛情をもつてゐるものである。八ツ手の花は品はないが朝霜の中では清冽な一脈の気焔を上げてゐる。黒ずんでくるころは仲々美しい。
 山茶花は白いほど品がよく淡紅はよくない。蕾のころか零れ散るころかがわたくしの心に叶うてゐる。枇杷や茶の花は枯淡以上のもので、枇杷になると花ではなく、古い陶画の一部を剥ぎ取つたやうに思へる。茶の花の方がいくらか枇杷よりか優しくあでやかだ。珊(さん)たる蕾の姿は霰や餅米のやうに小粒で美しい、どこか庭のすみの方に二三株、目立たぬほどに植ゑて置く心がけを侑(すす)めるくらゐで、ぢみな花である。しかしその実に至つては天来の寂しみをもつて、割れて口を開けその根元に種をこぼす、母のこころをもつてゐる懐しいものである。わたくしはよく椿の実を枝にたづねたものであるが、茶の花は根元の土の上を捜(たず)ねる方が、早く種が見つかりさうである。全く茶の実は枝にはなく土の上にこぼれてゐるからである。
 わたくしはこのごろ松竹梅といふ三点樹を昔の人がさう言ひならしてゐる言葉に感心してゐる。松竹梅といふと古い言草であるが、松といひ竹といひ又梅といふは樹の中の三兄妹であつて、三樹交契のいみじさ美しさは喞々としてわたくしの心に何かを囁いてくるのだ。木の世界の王さまでなければならぬ。実際この三樹交契を以つて庭を作るとしたら最早何ものも要らない。昔から此の木々をもつてめでたいものの標本とした。その故深い意味が意味ばかりでなく、心までさう感じさせて来たのは恥かしながらわたくしに取つては最近のことである。あまりに目に触れすぎたため此の三樹交契が日本人の性分をこまかに織り出してゐたことさへ忘れてゐた程であつた。芭蕉の俳風も眼を閉ぢて思へばこれらの三樹交契の幽韻の内にもあるやうである。もつと進んで考へると此の交契の奥深くに吾らの祖先が一幅を圧して坐つてゐたことも思はれるのである。
 松のその風籟の音に秀でてゐるは言ふまでもないが、一群の清韻は遥に天に向つて何ものかを奏でてゐるやうである。葉も枝もよいがその音を取らねばならぬ。西行、芭蕉の道であらう。竹はすぐな心を表はしてゐるやうで陳腐であるが左う考へる方が、無理がないやうである。かれは寂しいが喜んでゐるやうな木である。絶えず愉快な表情の中に、流れるやうな寂しさをもつてゐる。そして雨とか雪とかになほ一層その奥の手をみがき出してゐるやうである。
 梅に至つては匂ひであらう。(略)
(青空文庫より)