monoろぐ

古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

おもしろ文様

2020年11月08日 | 読書日記

 『絵画としての筒描』(遠谷茂、光村推古書院、平成19年)には、おもしろい文様がいろいろ載っています。

大黒鼠:大根を食う鼠が、丸紋として描かれている。「大根食う」が「大黒」と語呂合わせとなっている。江戸時代に考えられた文様。

五鯉躍(ごりやく):五匹の鯉が滝登りする図。「ご利益」の語呂合わせ。「鯉の滝登り」は、黄河の上流にある滝、竜門を登ることのできた鯉は竜になるという「後漢書」の故事から、立身出世することのたとえなので、「五鯉躍」の文様は、立身出世のご利益がありますように、という願いを込めた模様ということになります。

 扇獅子:開いた扇の要(かなめ)の部分に獅子の鬣(たてがみ)を付けた文様。能「石橋」の小道具として、扇に造花の牡丹と毛を付けたものを獅子に見立てるそうなので、この文様の起源も能なのかも。

熊手と箒:夫婦愛と長寿を寿ぐ能「高砂」の図柄として、老夫婦が松竹梅鶴亀と共に描かれているが、尉(じょう)は「九十九まで」を意味する「熊手」を、姥(うば)は「掃く」から転じて「百」を意味する「箒」を持っている。

菊慈童:擬人化というか、妖(あやかし)的な雰囲気の絵柄。体が菊の葉で顔は菊の花、という二体の菊の精が、片方が柄杓で酒をくむポーズで、もう片方が盃を両手でささげもっているポーズ。

猿に桃:猿が片手にキセルを持ち、大きな桃に寄りかかっている図。西王母の不老長寿の桃を食べてしまったのが孫悟空なので、「西遊記」を元にした柄かも。

踏馬御免:馬掛けに染められた文字。(これは文様ではありませんが。)

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破れ鏡

2020年11月07日 | 着物/和服

 着物の柄でたまに見るのですが、欠けた鏡の柄があります。「破れ鏡」あるいは「割れ鏡」という名が付いているようですが、何を意味するのか分かりませんでした。「なぜ鏡が破損してるんだろう?」と思い、由来を探してみると、中国の故事がありました。別解釈としては、「破(やれ・やぶれ)」という、文様の一部を空白にする手法だと考える解釈。

A「神異経」の故事:離れて暮らさなければならなくなった夫婦が、鏡を割ってそれぞれの一片を持ち、愛情のあかしとしたが、妻が不義を働いたために、その一片がカササギとなって夫の所へ舞いもどり、不義が知れて離縁となった。

B「本事詩」の陳の徐徳言と妻の逸話:徐徳言と妻は内乱のため別れることになったが、鏡を割ってそれぞれの一片を持ち、再会を約束した。女は別の男(越公)と再婚したが、後年、片割れの鏡を持っている人物がいることが分かり、再婚相手の理解を得て、元の夫と復縁した。「破鏡重円」という成語のもととなった故事。

 着物の柄にするのであれば、めでたい意味を持たせるのが通常だと思うので、中国の故事を元にすると考えるならば、Bの話を柄の由来にしているのかな、と思います。
 しかし、実際に「破鏡の柄」の着物を着ようとすると、「私は配偶者と離れて暮らしている」もしくは「バツイチです」という言外のアピールになってしまいそうで、どういう場面(あるいは状況)で着ればよいのか、悩みそうです。
 そういう複雑な背景を柄に持たせるという意図があるとは考えにくいので、「柄の一部を欠けさせた面白さ」を狙っただけという気がしてきました。(でも、自分で着るなら、「破鏡+カササギ」の組み合わせで着てみたい。)

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古典の季節表現 冬 十一月上申日 春日祭

2020年11月03日 | 日本古典文学-冬

(応和三年十一月)十二日庚申。平野春日祭。中納言師氏参春日社。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

(長徳四年十一月)四日、己未。
内府(藤原公季)の許に参った。右藤中将(藤原実成)が春日祭使となった。そこで参り向かうのを訪ね申す為である。(略)歌舞が行なわれていた頃、内裏に還り参った。秉燭の後に、祭使が弓場殿に参った。天皇の御前に召すようにとの仰せ事が有った。この頃、夕膳を供していた。御膳を撤去するのを待って、すぐに御簾を垂れた。蔵人(藤原)泰通が、仰せを承って使を召した。実成朝臣は仙華門(せんかもん)から入って、長橋に伺候した〈円座(わろうだ)を敷いた。〉。舞人と陪従は、仁寿殿の砌(みぎり)の内に立った。歌舞〈求子(もとめご)。〉が奏されていた頃、衝重(ついがさね)を祭使に賜わった〈あらかじめ泰通に命じて準備させたものである。贄殿が肴、酒殿が酒を出した。〉。私が勧盃を行なった。泰通が酌を取った。舞が終わった頃、大蔵卿(藤原正光)が御衣(おんぞ)を祭使に下給した。祭使はこれを賜わり、拝舞して退出した。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長保五年十一月)八日、甲午。 春日祭使料を送る
(藤原)陳孝を遣わして、春宮大夫殿(藤原道綱)に被物(かずけもの)三重(かさね)を送り奉った。(藤原)兼綱少将の春日祭使料である。
九日、乙未。 春日祭使の出立所を訪ねる/春日奉幣
左府の許に参った。大夫殿(道綱)の許に参った。春日祭使の出立所である。
春日奉幣を、勘解由判官(藤原)如信に託した〈私の分、女房(藤原行成室)の分、薬助(やくじょ)及び犬(藤原実経)の分、また小女たちの分である。〉。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(寛弘四年十一月)八日、辛未。
春日祭に際しての奉幣は、常と同じであった。申剋に、春日祭使(藤原教通)が出立した。内大臣(藤原公季)が、出立の儀に来られた。これは希有な事である。土御門第の西対から出立した。対の西廂に、内大臣の坐る座を設けた。教通が立って拝舞した後、渡殿の南廂に内大臣のために錦端(にしきべり)の畳一枚と土敷(つちしき)の茵(しとね)を敷いた。他は菅(すげ)の円座(わろうだ)を敷いた。二、三献の宴飲の後、近衛番長雀部是国(ささきべのこれくに)を召して、左大将(藤原公季)の盃を下賜した。後に宰相中将(源経房)を介して、是国を府生(ふしょう)に任じるという奏を賜うことを命じた。是国は再拝し、立って拝舞した。この間、盃酌(はいしゃく)が数巡した。私は悦びが身に余り、泥酔して不覚となった。内大臣への引出物は、馬三疋であった。一疋は栗毛の馬であった。内(一条天皇)から賜った馬である。一品宮(脩子内親王)の御着裳(ちゃくも)の日に賜ったものである。一疋は枯尾(かすお)の馬であった。これは我が家の馬の第一のものである。一疋は(藤原)輔公が貢上(こうじょう)した第一の鹿毛の馬であった。蒔絵の野刀(のだち)を右衛門督(藤原斉信)に取らせて、内大臣に贈った。内大臣が土御門第を出られた際、頭中将(藤原実成)が、内大臣の御沓を持って来た。私は、着していた刀を解いて、頭中将に預けた。私は中門の下まで内大臣の御供をして出た。穏座(おんのざ)があった。手長(てなが)は春宮権大夫(藤原頼通)、高坏を取り次ぐ役は、(藤原)頼親と(藤原)公信といった中将が勤めた。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和元年十一月)二日、乙未。
内裏から退出した。春日祭に神馬使を出立させた。丹後守(藤原)惟任であった。昨日、近衛府使(藤原)公信朝臣が、代官を申請してきた。右兵衛佐(藤原)通範に命じた。馬寮使(藤原)相尹も、障りであることを申してきた。これは免じられなかった。祭使発遣の上卿の修理大夫(藤原通任)も、障りを申してきた。祭使の出立所に、舞人の下重を送った。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(寛仁二年十一月)一日、己未。 春日祭奉幣
春日祭使左近少将(源)実基に、舞人の下重(したがさね)、および疋絹(ひっけん)少々を送った。鴨川に出て、奉幣を行なった。例幣(れいへい)、および金銀の幣(ぬさ)であった。私が出立させた奉幣使は、出雲守(藤原)成親であった。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(安貞元年十一月)九日。天晴れ、霜無し。巳後、大風、沍寒。春日祭の使少将伊成、除目右に任ず。忽ち左に渡されて勤仕すと云々。是れ又他の将勤めざるか。弁蔵人弁(光俊と云々)。申の時許りに前殿仰す。神事に依り西の亭に有り。来たるかと。即ち参入す。節会の習礼、其の志有り。寒風に依り、思ひ止まり了んぬ。夜に入りて退出す。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

よにしつみて侍けるころ、かすかの冬のまつりにへいたて侍けるに、*おもひける事を(*おほへけるイ)、みてくらにかきつけ侍ける 左京大夫顕輔 
かれはつる藤の末はのかなしきはたゝ春の日をたのむはかりそ 
(詞花和歌集~国文学研究資料館HPより)

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