花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

「金の道ウォーク・最終区」歩きと郷土愛

2018年06月18日 | 街道歩き
昨日今日と二日続けて、TVの緊急地震速報が流れました
昨日の群馬県は震度5弱で大きな被害はなかったようですが、今日の大阪北部震度6弱は衝撃的ですね。

現地の皆様にお見舞い申し上げますとともに、これ以上大きな被害がないことを祈ります。

三日前は千葉が揺れたようですが、日本列島の断層が活発に動き出したようで怖い



6月12日(火)にワンゲルの会の「小田原散策②」に参加してきました。

1月に歩いた「小田原散策①」の時は旧東海道沿いの古い町並み歩きでしたが、今回は小田原城の箱根側の外堀巡りで・・・
緑豊かな中での歩きは空気も美味しくて気持ちが良かったです

この日はストレッチの体操の日でしたが、梅雨時の貴重な晴れ間は「ワンゲル優先」ですね。

3日前の土曜日に都心を24000歩歩いた疲れがまだ残っていましたが、身体の痛みはなかったので
今の私は”元気な内は歩け歩けです。

仲間たちと一緒に歩くと「心地よい疲れと心の満足感」が得られて・・・
雨の日家に一人で居ても孤独を感じずに「リア充」で居られるのです



小田原に向かう朝、新潟の友人から「新潟日報」の記事がFAXで送られてきました。

3日前の「佐渡を世界遺産に」のイベント「金の道ウォーク」に参加した際、
新潟日報の記者も二人歩いたと聞いていましたから、新潟の中学時代からの親友に頼んでいたのです。

「金の道ウォーク最終区」・板橋宿から日本橋へ(6月9日)
前回ご紹介した中山道「蕨宿~板橋宿」の続き編です。

集合は都営地下鉄三田線の「板橋区役所前」駅10時半、その後板橋区役所前で「出発式」が行われました。



前回と同じように代官様と荷役人の衣装を着た方々が並びます。
梅雨入りはしたものの、この日は朝からカンカン照りの暑い日でした

前回都営地下鉄「三田線」で日吉に出て東横線で帰ったら二時間半以上かかったので
板橋に住む古い友人のマルさんに電話して最短の行き方を聞いたら・・・



「区役所は我が家から10分で行けるから」と、当日会いに来てくれました。
地元の名家に嫁いだセレブ奥様の彼女は輝いていて、日焼けしたザック姿の面々の中では異彩を放っていましたわ

「新選組・近藤勇の墓」
前回の倍の90人近い参加者全員で軽いストレッチをしてから11時過ぎに出発です。
まずは巣鴨に向かう途中にある「近藤勇の墓」近くの公園で最初の休憩でした。



新選組局長・近藤勇は旧幕府軍を率いて戌辰戦争に参戦し、1868年4月25日、新政府軍との戦いに敗れ
板橋刑場で斬首、お墓はここ北区滝野川(JR板橋駅東口徒歩1分)にあります。

35歳の若さだった彼の首は京都の三条河原でさらし首にされましたが、その後行方不明との事でした。

更に歩いて、途中「大正大学」で冷たいお水をふるまわれました。
この大学の総長・副総長・事務局長が揃って佐渡出身だそうです。

この件に関して金の道ウォークの主催者側の方からコメントを頂き
『今回大正大学広場で話された事務方が「学長、副学長、事務局長とも佐渡出身」と話されましたが、
私が確認しましたら、学長は佐渡出身ですが、副学長、事務局長は佐渡にゆかりのある方』と訂正されていました。

ランチタイムは巣鴨のトゲぬき地蔵「高岩寺」で
12時半近くに「おばぁ~ちゃんたちの原宿」と言われている巣鴨商店街に到着です。



とげぬき地蔵で有名な「高岩寺」でいったん解散、ランチタイムです。
自作の🍙持参の私はワンゲル仲間の女性5人とお寺の境内で食べました。
今回はワンゲルの仲間も前回の倍の12人が参加です。

このとげぬき地蔵には今年の4月3日のワンゲル「小石川後楽園~小石川植物園~巣鴨」歩きの時に来ましたね。
巣鴨の記事はまだUPしていませんのでいずれ詳しく記したいと思います。



1時半にお寺の門前に集合です。
今では珍しい「チンドン屋さん」が見られました。「流石の巣鴨銀座」という感じです。

本郷の「東京大学」
日本の最高学府だけあって、東大校内には銅像なども多くあるようです。
渋谷駅前にある忠犬「ハチ公」の銅像が有名ですが、この東大の中にもあることをご存知ですか?



飼い主の上野博士は東大農学部の教授だったのですね。
この左側の門から入るとすぐの所に上野教授とじゃれ合うハチ公の銅像があります。



            右側の画像が「赤門」です
もともと加賀藩前田家の江戸藩邸上屋敷の御守殿門として建てられたものでした。
天災や戦時の空襲からも逃れ、現存唯一の御守殿門なのです。

神田明神
正式名は「神田神社」、神田・日本橋(日本橋川以北)・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など
108ヵ町会の総氏神様です。



この日もお詣りの行列ができていて驚かされました。
すぐそばの「湯島天神」には何度か来ていますが、私は初めて訪ねた神社でした。

午後3時半、日本橋を目指して更に都心を歩きます。



神田を過ぎてビル群の中、いよいよフィニッシュが近づきますが・・・
都心の信号の数は半パなく、90人近くの団体を維持するためには歩いては止まりの繰り返し

この日の都心の気温は32度を超えたらしい、ど~~んと疲れました。
でも・・・
歩きながら荷役人姿のおじさまと佐渡のお話をたくさんしましたわ。

「おねえさん()、6月30日に金山のある相川から真野一泊で小木港まで歩く催しがあるから是非参加して」
と勧められました。

やがて江戸時代の「越後屋呉服店」、今の「三越デパート本店」が見えてきました。



信号を渡って三越裏の「日銀本店」に行きます。

佐渡から運ばれた「金&銀」はこちらに収められ、小判になったそうです。
日銀本店の横で皆でウェーイと、雄たけびを上げました。



日本経済の要の日銀本店は威厳がありますね。

重要文化財に指定されている本館の外観、昭和初期に竣工した本店旧館内部の一部、
館(1階営業場)等は見学することができるそうです。

      日本銀行本店から歩いて5分の「日本橋」には、日本の道路元標があり
日本道路網の始点となっています。



最後まで歩きとおした代官役、金荷を背負う人夫役の皆々さん、暑い中お疲れさまでした。



佐渡市の副市長に金荷の引き渡しを無事遂行と伝える儀式を終え、午後4時過ぎ解散です。
更に参加者約50名は、東京駅八重洲口の居酒屋での懇親会へ向かいました。



途中お祭りの山車が出て賑やかでした。
聞いたら国会議事堂そばの赤坂「日枝神社」のお祭りだそうな・・・

日本橋南側から京橋・銀座・八重洲・九段と、東京の中心部が「日枝神社」の氏子になるとか
東京を歩くとどこでも「江戸の文化」に触れられて、それも勉強になって嬉しい事ですね。



50名も参加した「懇親会」、我がワンゲルの方々も女性を含むほとんどの方が参加です。
男性4000円、女性3000円の飲み放題でした
佐渡市のお偉方の姿も見えました。

私の父親は東京の新橋育ちでしたが、転勤族のサラリーマンでしたので私も日本の各地を転々としました。

結婚後は三鷹の団地&夫の転勤先の札幌のマンションと過ごし、32年前に横浜の郊外に家を建て
「古里は何処?」と聞かれても答えられない

佐渡の皆様の郷土愛「世界遺産登録を願う気持ち」に心打たれました。
結果が出るのは7月末と聞きました。念願がかなうと良いですね。


              

小田原を歩いた翌日はご近所仲間のクミさんとノンちゃんと3人でコーラスサークルに参加
疲れが残っていてお腹に力が入らず、高音が出ませんでした

雨が降ったら夫の書斎とクロゼットを整理し、雨が止んだら畑や庭に出て作業・・・
夜はYチューブで課題曲を練習したり好きな曲を聴いたりし、TVを観ながらコックリして疲れを癒しています。



元スッチーのご近所仲間のFさんが「今年はたくさん採れたわ」と梅の実を持ってきました。
昨日の日曜日は午前中畑作業をして、午後から梅酒と梅ジュース作りです。



「お宅の前に梅の実がたくさん落ちているわよ」とFさんに言われふと見上げると
お隣と我が家との境に植えてある梅の木にたくさんの実がなっている

夫が元気だった頃お庭を任されていたが、お隣の梅の木にこんなにたくさんの実を見たのは初めてです。
奥様が亡くなって、ご主人はケァー施設に入居で空き家になった東側の隣家・・・

我が夫婦とさほど年代が変わらない元気だった頃の奥様やご主人の顔を思い出し、
「都会の新興地での人と人のつながりとは」をしみじみ考えました。


コメント (26)
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入梅と、「金の道ウオーク」のイベントに参加

2018年06月10日 | 街道歩き
関東地方は6月6日に梅雨入りしましたね、例年より2日早かったそうです。
我が家の庭のアジサイがいっそう濃く色付いてきました。



6日に一日だけ雨が降り、その後三日間日中は青空が続いて
今年の梅雨は「陽性型」のような気がします。



鬱陶しい季節には「ビタミンカラー」が恋しくなるので、明るいお花を買ってきて玄関前に植えました

梅雨入り前に、茂りに茂った庭や畑の整備と寝具や衣類など冬物の整理と夏物の準備など
やらなくてはならない事が多々あって・・・

趣味の会のない月末から今月初めの一週間は、連日家と畑の周りでバタバタしていました。
その間お天気に恵まれて仕事もはかどりましたわ

庭木の伐採と小太郎君(6月3日)
6月初めの日曜日「今千葉から帰ってきた所。これから電気ノコギリ持ってそっちに行くから」と
朝息子から電話があり、9時前に我が家にやって来た。

ハクモクレンの木が西側の隣家の屋根近くまで伸びて、風の強い日は
「枝が揺れて隣家の屋根やトイを傷つけるのでは」と、血圧が上昇する思いだった私。

この日息子はお昼過ぎまで脚立に乗って、フェンスから飛び出しそうな木々の枝を電ノコで伐採し
私は夫の剪定ばさみで枝を細かく切り、2人で90Lの大型ゴミ袋7個分をまとめました。

11時過ぎに孫の奈菜ちゃんが、愛犬小太郎を連れてやってきた。

2週間前に来た時は小太郎の足の爪が怖くて抱っこできなかったけど
今ではちゃんと抱けるようになった、両方とも成長したね



一般ごみの日、普通のゴミ袋の倍の大きさの重い袋の4個分をノンちゃんのご主人が集積場に運んでくれた。
有難いです

梅雨前にトマト・ナス・キューリ・ピーマンの苗を、何とか畑に植え付けたらドッと腰に来た~

毎晩入浴の後にシップ貼り、7日のストレッチ体操に参加したら腰の痛みは消えたので
9日土曜日の板橋宿から日本橋までの中山道12キロを歩く「金の道ウォーク・最終区」の参加を決心しました。
(山小屋さん、申し込みが遅くなりスミマセンでした)

昨日歩いた最終区の詳しい行程は主催者側の方のブログで紹介されていますのでご覧下さい。

真夏の暑さと車の多い幹線道路のコンクリート歩きと、参加者80有余人の大行列の信号待ちの調整で
歩数は24000歩でしたが、街中の歩きに慣れない私は山歩きの1.5倍の疲れを感じました

無事フィニッシュを終えた満足感はありますが、下半身が重くて・・・
台風がらみの雨降る今日の日曜日は何処にも出かけず、PC開いて音楽聴いて家でノンビリしていますわ

中山道「蕨宿から板橋宿」まで歩く(5月12日)
ブログ仲間でワンゲルの会でもお世話になっている佐渡出身の山小屋さんの呼びかけで
先月は「佐渡の金山銀山を世界遺産に」というイベント行事の「金の道ウォーク・その②」に参加しました。

中山道「蕨宿」


埼玉県蕨市の名前は知っていましたが、初めて訪ねた街ですね。
私が住む横浜からは東京を横断して行く埼玉の遠い所と思っていましたが、同じ京浜東北線の沿線でした。

東京上野湘南ラインの「高崎行」を使って赤羽で乗り換えて、荒川を渡ればすぐの街でしたね。



蕨市は江戸時代、中山道沿いの宿場町でした。



蕨市立歴史民俗資料館に午前10時50分に集合し出発式です。

「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」の役員さんたちが江戸時代の頃の衣装をまとい
佐渡市の副市長さんや、新潟県の県会議員さんや蕨市の市議会議員さんたちの挨拶もありました。



この日の参加者は45人だったとか(内、ワンゲルの会からは7名)・・・
出発時は曇り空でしたが、蒸し暑い日でした。

1時間ほど歩くと東京との県境の「荒川」が望めて、北陸新幹線が通り過ぎて行きました



初めて徒歩で渡った戸田橋です。

渡り切った荒川の東京側の河原で30分の昼食タイムでした



隅田川を渡る金荷を背負う人夫姿は道行く人々の注目を浴びますね。
「佐渡から歩いてきたのですか?」と、後ろを歩いていると問いかけられました。

山小屋さんに「私の母方のルーツは佐渡、真野町にお墓もあるので佐渡まで歩きたい」と言ったら
「二週間かかるよ。群馬県に入ってからが単調で長い」と言われましたわ。

中山道「板橋宿」
国道17号線(中山道)をひたすら歩き、途中薬師の泉が残る総泉寺跡の緑豊かな公園で一休み
更に日本橋方面に50分程歩き、新道脇の旧道に入りました。



いたばし観光ボランティア“もてなしたい”の方6名の出向えを受け、3班に分かれて
「板橋宿」の史跡の説明を受けました。



「縁切り榎」とは
男女の悪縁を切りたい時や断酒をしたい時は、この木の樹皮を削って飲めば悪縁は切れるとの事でした。



鎌倉には縁切り寺(東慶寺)もあるくらいですから・・・
昔から「縁結び」も大事だけど、「縁切り」も大変だったのですね。



石神井川を渡ります。春は桜が綺麗な所だそうです。



この橋が「板橋」、日本橋から10キロちょっとの距離になるようです。

私はこの近所に古い友人のマルさんが住んでいるので、板橋区の雰囲気は知っていましたが
彼女の家のすぐそばが旧宿場町だったとは知りませんでした。



日本橋を出発して、中山道の最初の宿場町だったのですね。



ボランティアさんたちの案内は4時までなので、最後の出発の私たち3班は時間がなくて
サササ~と、はしょっての案内でした。



旧道を通り抜けて、再び国道17号線出でた所で丁度午後4時、解散でした。

この横のファミレスで懇親会があり、28名が参加しました
この日の歩きは23000歩弱・・・

私の座ったテーブルの向かい席にいたのが佐渡市役所から派遣された爽やかな若い男性でした。
この日はこれから新潟市まで帰るとの事、「土曜日なのにお役目ご苦労様」

オバ様達は「ピザもポテトフライも新幹線の中で食べてね」と包んで渡し、すぐに応援団となりました。

我が家近くの鎌倉市で世界遺産の登録認定に向けての話が進んだ時、市役所や観光業界は熱心だったようですが
市民は「これ以上観光客で混雑すると生活が脅かされる」と、反対する人が多かったと聞いています。

東京に近い鎌倉は世界遺産に関係なく、以前から観光客があふれていましたものね。
結局日本初の「武士による幕府政治」を司った場所の遺跡が残っておらず、ユネスコには認められませんでしたが・・・

離島の佐渡は地域活性化のために、佐渡市も島民も首都圏移住組も燃えているのですね。
「佐渡の金山&銀山の世界遺産登録認定実現に向かって、是非とも頑張って~

コメント (12)
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推定平安鎌倉古道・三島大吊橋(3)

2016年06月05日 | 街道歩き
6月5日(日曜日)、雨の朝を迎え、関東地方も「梅雨入り」したようです。


我が家の庭の「ムラサキツユクサ」も雨に濡れていました。

とかく気分が落ち込みがちになるこの季節、私はどのように過ごそうかと思案しています。
の日は「山登り&カメラ撮影」、の日は「庭と畑作業」
そしての日は「家の中の断捨離」と思っていますが・・・

中々思いどおりにはいきそうもありません

箱根「山中城跡」
5月20日、ワンゲルの会のお仲間と箱根峠から「平安鎌倉古道」を途中まで歩き、
箱根の里でお昼を食べ、1号線に向かって山道を歩き、やってきた城跡・・・


本丸跡には藤棚があるだけでした。

(その2)でも記しましたが、山中城は戦国時代末期に、小田原に本城をおいた北条氏が築城。

豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築・・・
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、7万の豊臣軍の総攻撃を受けました。
北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。


本丸跡から眼下の三島の街の向こうに、伊豆半島の「天城連山」が雲の上に見えていました。


今まさにNHKの大河ドラマ「真田丸」で、秀吉が北条に攻撃をかける所までをやっていて
山中城跡を見てきた私にはとても面白い

いやいや小田原城は去年の8月に寄ったしこちらです。
秀吉の知恵で造った石垣山の一夜城も、3年前にこのワンゲルのお仲間と行きましたこちらです。

歴史って結果が分かっているから・・・
高嶋政伸さん演じる北条氏政さんに「そんなに突っ張っていると滅ぼされてしまうわよ」と
突っ込みを入れたくなりますわ


自然と調和した美しい障子堀・・・

640年前の遺構がそのまま復元されている、石を使わない土だけの山城は
全国的にも非常に珍しいものだそうです。詳しいことはこちらをご覧ください。


一番奥の西の丸てっぺんの見晴らし台まで行くと「富士山」が見えていました
思った以上に広くて歩きがいのある「山中城址公園」です。



馬の飲料水に利用されていた「田尻の池」にはスイレンが咲いていました。


私はこれからも大河ドラマ「真田丸」を楽しみに見ることになりそう・・・

夫が生きていたら、多分彼も毎日曜日の夜の8時を楽しみにしていたと思います。
夫の本棚には池波正太郎の「真田太平記」全12巻がズラリと並んでいますし
4~5年前には二人で長野県の「上田城」も訪ねていますからね。

大吊橋「三島スカイウォーク」

35分かけて「山中城」をさぁ~っと見た後は、新名所「三島大吊橋」に向かいます。


車の往来の激しいコンクリート道路を40分歩いて下ってくると富士山と吊り橋が見えてきました。

2015年12月にオープンした新名所日本最長400mの大吊橋です


片道でも往復でも大人の通行料は1000円です。


富士山は少し離れた左側に見えますが、3時半を過ぎて雲も湧き逆光気味でちょっと残念!


橋の前で記念撮影です。

スタッフさんに「橋の上は風が強いから帽子を飛ばされないように」との注意を受けてから
皆で一緒に渡りました。


対岸に渡り展望台に登ると、沼津アルプスや天城連山が見えました。


橋は幅1.6メートル、すれ違いも大丈夫・・・
この日は夕方近くなり、団体様の姿はあまり見られませんでしたが

大きな駐車場には大型バスもたくさん並んで居ましたから
箱根からの帰りのトイレ休憩や、お土産購入には丁度良い場所なのかもしれません。
(無料で利用できるトイレはとても綺麗でした)

行きに乗ったバスの乗客も、我々以外の殆どの人がここで降りましたから人気なのでしょうが・・・
「吊り橋は話のタネに、一度渡ればそれで良し」という感想です。

4時45分頃のバスに乗り三島駅に向かいましたが
時間がなくて「三島大社」に寄れなかったのがとても残念

でも・・・
この日の歩きも三万歩を超え、風も爽やかで気持ちの良い一日でした





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推定平安鎌倉古道・三島大吊橋(2)

2016年06月01日 | 街道歩き
6月がスタートし、アジサイも色付きだして・・・
何となく梅雨間近を感じさせるお天気が続きます。

先週から今週にかけては連日お出かけが続き、ちょっと疲れ気味の私
ブログのアップも滞り、お仲間の皆様への所も読み逃げにて失礼をし申し訳ございません

「箱根の里」(5月20日)
前回ご紹介した箱根峠から平安鎌倉古道を下り、扇平で整備された山並み林道を歩いてくると・・・


「箱根の里」という大きな看板が現れました。


緑の中に建つ「箱根少年自然の家」と書かれた立派な建物に向かいます。

私たちはここで綺麗なトイレを借りて一休み・・・
(施設の詳しいことはこちらでどうぞ

周辺に箱根サンショウバラがこちらはウツギの仲間でしょうか


そして芝生広場のベンチでお弁当を食べることにしました

木々の間から富士山が見えています13人全員でテーブルを囲みます


気持ちの良い風が吹き渡る所でした


1時過ぎに出発、「箱根旧街道」近くの山中城址に向かいます。


リーダーさんが「ピンクの点線部分を歩いて行きます」と説明してくれました。


午前中はうす曇りでしたが、午後から太陽が照りだし緑がいっそう輝いて見えます。
前日は30度を越えた真夏日でしたが、この日は涼しくて吹く風の気持ち良い日でした。

「千社大明神」
歩いて行くと、こんもりとした杉林の中に風情ある鳥居が現れました。


「何神社かしら?」「ナントカ山と書いてあるけど・・・」
「行ってみよう」と、皆で階段を登ります。

階段横には「都忘れ」の紫の花が群生していました。


「千社大明神」と書かれた小さな鳥居の奥に、小さな祠が建っていました。
日本の山奥には、こうした素朴な神社があちこちにありますね。

静かな自然の中に、神聖な神様の領域があるというのは日本独特の自然崇拝でしょうか?
以前夫婦で行った「バリ島」のバリヒンズ―教も、神は山にいるという宗教だったことを思い出しました。


自然の山道が終わり「法生寺」入り口に出ました。
立派なこちらのお寺は寄らずに、一路「山中城址」を目指します。

「山中城跡」へ
(お仲間のK氏の画像をお借りしました)
一号線に出るとようやく「山中城址公園」の入り口です。
午後二時半になっていました。


公園内にある「駒形諏訪神社」に向かいます。

県指定天然記念物高さ25m、幹周6.2m!樹齢約600年のオオカシは、歴史を感じさせます


日本百名城に選定されている山中城跡公園は、戦国時代、後北条氏によって築城された山城です。


ここは、戦国末期、小田原を本拠とする北条氏が永禄年間(1558~70)に築いた国史「跡山中城跡」

信長亡きあと豊臣秀吉が勢力を強めると、秀吉との戦いが避けられないと考えた北条氏政は、
城をより堅固にするための改修にとりかかったが、完成前の天正8年(1590)3月、
豊臣方7万の大軍に攻められ、わずか半日で落城してしまったという。

(今、NHK大河ドラマ「真田丸」で北条氏政役は高嶋政伸さんが演じていますね)


本丸に向かう途中から箱根方面の山々が良く見えました。
夫と伊豆に行く時に良く通った「伊豆スカイライン」があの稜線を通ります。

一番右手の頂上に建物が見えているのが「十国峠」でしょうか・・・
山仲間と3人で「岩戸山」を歩いた時に、あの建物の中でアイスクリームを食べた思い出がありますね。


              

「カフェ・naoママ」

この時期は、夫が受けていた我家近辺のお庭の手入れに、後を引き継いだ後輩さん達がやってくる日が多いので
私も久しぶりに「キッチンnaoママ」ならぬ「カフェnaoママ」をオープン詳しいことはこちらで紹介です

手前に座る後姿が、夫でないのがちょっと切なくて
夫の思い出話も語ったりで、前向きになった私の気持ちが少々逆戻り

「お任せしていた庭の手入れも去年連絡がなくてどうしたのかと?」との
古い顧客様からも電話があり、気持ちが揺れ動く日々でした。

そんな時こそ無心になれるワンゲルの会での歩き、自然は大きなホスピタルですね
たくさん歩いて癒されました。



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推定平安鎌倉古道・三島大吊橋(1)

2016年05月27日 | 街道歩き
箱根サンショウバラの咲く時期に、ワンゲルの会で箱根の西側を歩いてきました。


この何とも可憐な箱根サンショウバラは、5年前の6月初めに湯河原の幕山の頂上で
山仲間と満喫しましたがこちらで紹介

今回思いがけず出会えて嬉しい限りでした

箱根峠から平安鎌倉古道を歩く(5月20日)
ワンゲルの会5月の企画の中の
「箱根峠から平安鎌倉古道の桜の名所扇平を通り、山中城址から昨年12月にオープンした
全長400mの長さの、歩行者専用大吊橋スカイウォークを渡り三島大社に至る
下りだけのコースを歩きます」
と紹介されたこのコース

夫と伊豆方面に向かう時に何度か車で通り気になっていたコースです。
観光も楽しめるとあって参加しました。


JR三島駅に9時集合で、芦ノ湖方面行きのバスで40分(840円)「芦ノ湖カントリー入り口」で下車

リーダーさんの説明では「平安鎌倉古道」を扇平まで下り、林道を箱根旧街道に向かい
途中の「箱根青少年自然の家で昼食、それから山中城址を目指します」と・・・


脇の石碑には「これより江戸まで25里」と刻まれていました。

江戸時代に造られた箱根旧街道は知っている方が多いと思いますが
それに並行するように、もっと古い「平安鎌倉古道」があるなんて知りませんでしたわ


”旧東海道の最大の難所は小田原宿と三島宿を結ぶ標高845mの箱根峠を越える箱根八里(32㎞)”
「この区間を箱根旧街道と呼ばれている・・・」


旧箱根街道の説明板を左に見て、そのまま芦ノ湖カントリー方面に進みます。
この日の参加者は、男性5名女性8名の計13名でした。


標識もちゃんとあります。


この日の午前中は曇っていましたが、富士山はご覧のとおりずっと見えていました。


緑豊かな箱根西麓の高級別荘地(芦ノ湖高原別荘地)の中を歩いていきます。


サラサドウダンでしょうか? 見事な大きさです。

別荘地の西端に入り口の案内板があり「推定平安鎌倉古道」と書かれた石碑も建っている


ここから尾根上を南西に下って行き、三島大社の東側まで直線的に続く、
12キロほどの古道が「平安鎌倉古道」」だそうです。


リーダーが「多分誰にも会わない貸し切りの道だよ」と・・・
まだあまり知られていないマイナーな古道なのでしょうか?

立派な案内板が立っていますが・・・滑りやすい道が続きます。


スニーカーにしようかと迷いましたが、登山靴に杖を持って来て正解でした。

この日のコースは日帰りバスツァーも巡る観光地も行きますが・・・
何せ「ワンゲルの会」ですから、敢えて困難な道を進むのです。

登山道を歩きだして約1時間で林道に出て、簡易トイレのある扇平に着きました。


「平安鎌倉古道」についての大きな説明板が建っていました。

平安時代の箱根越えは足柄峠を通る足柄道だったが、802年の正月に富士山大噴火があり
足柄道がふさがれ、三島大社から元中山を通り芦ノ湖南岸に出て箱根町に抜ける
この「平安鎌倉古道」が開かれたようです。

伊豆に流されていた源頼朝もこの道を通ったのでしょうか?
いにしえ人のロマンが感じられました。


このまま山道を進むと元山中です足元にはアザミが咲きだしていました


すでに12時を過ぎていて・・・
リーダーから「林道を左に進んで、箱根青少年自然の家で昼食にします」と説明がありました。


少し濃くなった緑の眩しい中を30~40分歩きます。
道端には初夏のお花が見られました。

シラユキケシという花らしい・・・鮮やかなオレンジ色の「山ツツジ」


この日は植物に詳しい山小屋さんは韓国の山に行っていて不参加でした。
ハテナ?と女同士、名前が分からないお花に苦労しましたよ


渓流の周りにはピンクと白のお花が混じる「錦ウツギ?」が
たくさん咲いていました


       

勝手に「ウィンドウズ10」にバージョンアップ

この2週間、何が何だか分からないままにバージョンアップされてしまった
マイパソコンに振り回されていました

「10にバージョンアップしたらパソコンが動かなくなった」という声をたくさん聞いていたので
この三ヶ月間、画面にしつこく出ていたバーションアップの案内は
いつも×印をクリックしていたのに、何故だ~

写真仲間6人が集まった時にその話が出て、二人はバージョンアップ途中で拒否
私ともう一人はそのまま流れに任せて10にしてしまった
後の二人は特に変化なしと言う状況でした。

セブンからバージョンアップした仲間はしょっちゅう固まるとこぼしていて、
元に戻すことを検討中とか。

8.1からアップした私は、画像の入力に時間がかかるようになっただけで
さして不都合はなく、後は慣れと思っていましたが・・・

先日、外付けのハードディスクに画像を移動しようとしたらつながらない
買った店に持って行こうとコンセントを抜き、試しにもう一度試みたらつながった
そんなてんやわんやがあって疲れ果てました。

「何故余計なお世話みたいなことをしてくれるのかしら?」とお嫁ちゃんに愚痴ったら
「巷の噂では今度11を出すので、無料で10にバージョンアップさせ不都合の情報収集目的らしい」と・・・
そんな馬鹿な~~

防犯パトロールのお仲間同士でもその話が出て、思いがけず
「セブンからアップしたらとても調子が良い」と言う方が2人いましたわ。

何が何だか理解できないお話でした



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鎌倉古道歩き・稲村ヶ崎へ

2012年09月09日 | 街道歩き

9月とは思えない暑さの中、ブログ仲間の「山小屋」さんに誘われて鎌倉を歩いてきました。

新田義貞の足跡をたどりながら、高崎からスタートした「鎌倉古道歩き」も、
6月に鶴岡八幡宮到着で終了したようですが
「稲村ヶ崎は外せない」という声が出て、今回はオマケ編だそうです。

稲村ヶ崎から眺めた「江ノ島」方面
この日の午後にはカミナリを伴う大雨の予報が出されていて、流石に富士山は見えませんでしたが
雨どころか、午後も真夏の太陽が照り付けていました

我が家近くの「鎌倉古道」に興味があり、4月5日町田から瀬谷までのコースに、
友人と参加させて戴きましたが、私はその後骨折し、以後の2回は残念ながら不参加

せめてフィナーレだけでも見届けたいと、行ってきました。


「鶴岡八幡宮」

鎌倉駅で集合し、まずは「鶴岡八幡宮」に向います。
山小屋さんはじめ、4月にご一緒した顔なじみの方も何人かいました。

本堂に向う階段の手前にある「舞澱」の前で、参加者20数名が並び記念写真を撮りました。

鶴岡八幡宮は、源頼義が奥州の戦乱「前9年の役」で勝利した礼として
京都の岩清水八幡宮を現在の材木座元八幡(由比若宮)に勧請したのが始まりです。

その後、本拠地を鎌倉に定めた源頼朝が現在地に移し、鶴岡八幡としました。

鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、豊臣氏、徳川氏に崇敬されたこの神社、
我が家からも近いので、息子、2人の孫の七五三はいつもここでした。

「源頼朝公の墓」(法華堂跡)
建久9年(1199)12月、源頼朝は相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰りに落馬
それが原因で、翌年数えの53歳で亡くなりました。

大倉法華堂(現在の鶴岡八幡宮横の白旗神社)に葬むられ
現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあります。

53歳で亡くなった頼朝と同じ数の階段を登ると
うっそうと木々の茂った中にお墓があります。


墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に、子孫である島津重豪(しまずしげひで)により
大御堂から移されたものといわれ、国の史跡に指定されています。


20人もの団体で行った私たちに、ボランティアのガイドさんが説明をしてくれました。


カンカン照りの中、歩いて南下し「宝戒寺」の先を左に折れて「東勝寺跡」を目指します。

住宅街でありながら「祇園山ハイキングコース」に通じる道は緑が深く、
ヒンヤリとした風が流れるとホッとします。

「北条高時・腹切りやぐら」
東勝寺は13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院です。

新田義貞らの鎌倉攻めの時、新田軍が若宮大路まで迫ってきた事を知った北条高時は、
一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げました。

鎌倉幕府終焉の地は金網に囲まれて、今は何もありません。



この裏山に自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。

瀟洒な家が並ぶ住宅地のすぐ裏の、ハイキングコースの入り口に、
鎌倉幕府終焉の地があること自体、いかにも鎌倉らしい風景ですね。

「本覚寺」

車の往来の激しい道を更に南下し、日蓮に縁のある「本覚寺」で一休みです。

正午近くなって、太陽の光は更に強まった感じ・・・
熱中症が怖いので水分を補給しました。


鐘楼には応永17年(1410年)銘の梵鐘がありました。

境内の大きなアメリカ芙蓉と、サルスベリが晩夏の風情を漂わせています。
積乱雲がモクモクと大きくなっていますが、午後から雨は降るのでしょうか

日傘をやめて雨傘を持ってきた私
これ以上の日焼けが怖いので、カンカン照りの中雨傘をさして歩きましたよ

「長谷寺」
鎌倉の古いお店が並ぶ道をひたすら歩いて、紫陽花で有名な「長谷寺」にようやく着きました。


ここで昼食タイムです。

拝観料300円を払って中に入りました。6月末に来た時は500円でしたね。
今は端境期でお花は殆んど咲いていません。


上境内の湘南の海が望める展望台横の、日影のベンチで持参したオニギリを食べました。
涼しさを呼ぶ頭上のミストも、この太陽光線であっと言う間に気体になっている


食後は一本のクスノキから彫られたという本尊の「木造十一面観音像」にお参りをしました。
高さ9,18mの日本最大級の木造の観音様です。

その後は涼しい日影を求めて散策し、1時半に山門前に集合
再び歩き始めました。

江ノ電と紫陽花の撮影スポット御霊神社をお参りし
極楽寺坂の切り通しを行きます。


日本の駅100選に選ばれている、江ノ電の可愛い駅舎「極楽寺駅」を右手に見ながら
線路に沿って進み、踏切を渡ると「石碑」が建っていました。


元弘3年(1333)5月8日、かねてから幕府に不満を持っていた上野国(群馬県太田)の御家人・新田義貞は
後醍醐天皇の幕府追討の令旨により、上野国の氏神明神社前で挙兵し
鎌倉幕府のある鎌倉目指して関東平野を南下しました。

鎌倉は三方を山で囲まれた天然の要害で、攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通のみ・・・

新田義貞は、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏という武将に命じました。
幕府は、極楽寺切通に大仏貞直を配置し防備に当たり、激戦の末、宗氏は極楽寺切通を突破しましたが、
北条軍に反撃され、宗氏以下11人が討死。

この11人が葬られたとされるのがこの塚で、十一面観音が安置され霊を弔ったといわれています。

ここから更に歩いて7~8分で「稲村ヶ崎」です。


新田義貞が「稲村ヶ崎」から鎌倉に攻め入ったのは、元弘3年5月22日(西暦1333年)

♪七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜし 古戦場♪
と唱歌でも歌われていますね。


新田義貞が鎌倉攻めの際海中に宝剣を投げ入れ、潮が引いたところを一気に攻め入った…
という伝説が残っています。


フィナーレはそれにあやかって、この日のリーダーが自作の剣を海に投げ入れます。
(海に落ちないでね~)

新聞紙で折った兜をかぶり、真剣に挑む気持ちが素敵ですね。
こうして遊びを楽しむ姿勢が若さの秘訣なのでしょう・・・

最後に明治天皇が新田義貞を詠った碑の前で全員揃って記念写真を撮り解散となりました。


この日はフラダンスのイベントも開催されていて
現代の稲村ヶ崎は「古戦場」に思いを馳せるにはあまりにも明る過ぎました。

ここは夕景の富士山の撮影場所としても有名で、3~4日前にはダイヤモンド富士が見えたのでしょうか?

「今日の歩きは僅か10kmで少ないよ。15000歩程度だね」と、
お仲間がおっしゃっていました。

でも炎天下の鎌倉歩きは決して一人ではできません。
私も丁度良い足馴らしができました。

山小屋さん、お誘いいただき有難うございます。
汗びっしょりになった後の、皆さまとご一緒に飲んだが何とも美味しかったです。


コメント (22)
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鎌倉古道歩き・町田~瀬谷

2012年04月18日 | 街道歩き
我が住宅地は横浜南部の丘陵地帯にあり、すぐそばを「鎌倉街道」が通じていて
この路を南に車で20~30分も走れば、源頼朝を祀った鎌倉の「鶴岡八幡宮」です。

去年、ブログ仲間の山小屋さんから「鎌倉古道を歩きませんか?」と誘われました。
お仲間同士で群馬県の高崎からスタートするらしい・・・

各地から「イザ、鎌倉へ」と馳せ参じた「鎌倉古道」は至る所にあると聞いていますが
高崎からとは驚きました

私は我が家近くの「鎌倉古道」に興味があったので
「神奈川県に近くなったら参加させていただきます」と返答・・・

4月5日に、いよいよ町田から大和辺りまで歩くというお話しを伺い
相鉄線沿線に住む山仲間のYさんを誘って参加しました。

「久住山・宏善寺」

最初に桜が綺麗なお寺に立ち寄りました。
暦応元年(1338)創立の、日蓮宗のお寺「宏善寺」です。


見事に手入れをされたお庭が素晴らしい・・・

桜の開花宣言は出されていたものの、寒い日が続いていましたが
この日は快晴に恵まれ気温もグングン上昇
桜もあっと言う間に咲きだしました。

歩き始めは町田からバスに乗って降りたこちらからバス停の横に石塔が並んでいました


前回は府中から歩き、この「今井谷戸」からバスに乗って帰ったので、今回はここからスタートとのこと
今までのコースの模様は山小屋さんの所をご覧下さい。


多くの車が走る「鎌倉街道」と並行している、住宅地の中の「なかよし散歩道」を行きます。
午前10時過ぎ、赤い丸印の所から歩き始めました。
小川のせせらぎの音が気持ち良いですね。


今回の参加者は18名くらい?
殿方は私と同年輩の山小屋さんが一番若いとか・・・
いやはや皆さまお元気ですわ

「菅原神社」


「宏善寺」の次ぎに訪れたのは、学問の神様でお馴染みの菅原道真公を祀った「菅原神社」

この辺り一帯は東京都指定の旧跡井出の沢古戦場です。
1335年、鎌倉街道の所要地であった町田村(現在の町田市本町田周辺)で、鎌倉を目指す北条時行軍と、
それを食い止めようとする足利直義軍との間で激しく合戦が繰り広げられたと伝えられています。

梅は終って桜が咲き始めていましたあちこちでレンギョウが花盛り・・・


でも一帯は都市化が進み、昔の古戦場跡の面影はまるで見つかりません。

車の数が多い現代の鎌倉街道をひたすら歩き町田街道と交差する大きな交差点を渡ります。


この町田街道を進むと小田急町田駅脇の踏み切りに出ます。
写真を撮りそこないましたが、これを渡ったところに「絹の道」と書かれた碑がありました。

原町田は八王子と横浜のほぼ中間地点にあり、八王子をはじめ各地と横浜を結ぶ
「絹の道」の役目を果たしてきました。
JR[町田駅」も、以前は「原町田」と呼ばれていたような・・・?

天正年間(1573~92年)には三斎市(さんさいいち)が、
江戸時代になると六斎市(ろくさいいち)が行われるようになり賑わいました。

横浜が開港されると生糸をはじめ諸物資の集散地となり、
六斎市が盛んに行われ商業地域を形成し、現在の原町田に発展したのです(ウキペディアより)

「町田天満宮」

駅周辺で各自昼食を済ませ、午後0時45分に再び歩き始めます。

午後2時半から自宅でお琴を教えているYさんは「まだ歩き足りないわ」と言いながら
一緒にお昼を食べた後、町田駅から帰って行きました。

賑やかな商店街を通り抜け、住宅街に入ると「町田天満宮」の鳥居が見えてきました。


町田にはお勉強の神様が多いのですね。
私は孫のハー君のために、お賽銭を入れて祈願しましたよ。


街道の面影を残す「石塔」の数々が並べられていました。

横浜線を天満宮の前で越え、杉山神社の東を抜けて通り、南を目指します。

新幹線を潜り、国道246号の陸橋を渡ると八王子街道との交差点が見えてきました。


いよいよ横浜市に入りました高架の脇に五貫目の道祖神が移転されています。


八王子街道を渡り、国道246号からも離れて曲がりくねった道を進むと・・・

瀬谷銀行跡

旧道らしい面影を残す中屋敷地区に、
瀬谷銀行跡と書かれた案内板が樹木に覆われた屋敷前に立っていました。

かつてこの周辺は養蚕と製糸が盛んで、横浜がシルクの貿易で潤っていた時期には、
この辺りにもシルクマネーが流入していたのでしょう。
この銀行跡の内部に入ることはできませんが、今も広大な敷地が放置されているようでした。


瀬谷銀行の設立は明治40年(1907年)、江戸中期から中瀬谷村の村役を務めていた小島家が頭取となり
地域の養蚕業、製糸工場に融資を行ったようです。

八王子から港町ヨコハマに通じる「シルクロード」に思いを馳せましたが
そろそろ疲れが出てきて足が重くなってきた

街道沿いには古い民家が残っています保存されている脱穀農具(唐箕)


この近くの農家の庭先で、女性群は野菜を購入
私は家庭菜園に植える「里芋」を買いました。

「日枝社」

この辺一帯の鎮守様の「日枝社」
本殿横に、かながわの名木100選に指定されている樹齢300年・高さ40mの大ケヤキが見えています。


鳥居横には天保・安政と刻まれた庚申塚が5基、並んでいました。

ここから更に歩いて午後4時半頃、ようやく相鉄線の「瀬谷駅」に到着、解散となりました。

後半は仲間のYさんがいませんでしたが、山小屋さんをはじめ
皆さん良い方ばかりで楽しい1日でした。
大変お世話になり、有難うございました

ただ私、休憩時間を除いた正味5時間のコンクリート歩きは初めての経験・・・
夜になって膝が痛みだし、シップ薬を貼る始末
足への負担は山歩きよりも大きいと感じています。

無事に鎌倉までたどり着けるのかと心配になってきました

コメント (34)
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