花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

TV「日本の名峰50選」

2006年07月30日 | 日常の日記
東海、関東甲信から西の各地ではやっと「梅雨明け」宣言がありましたね
関東では平年の10日遅れだそうです。
数日前の昨日今日の週末の予報は雨・・・でもカラリとはいかないまでもの日曜日となりました。

何の予定も入れていなかった私、日中めったに見ないTVを見て過ごしました。
BS2でやっていた視聴者が選んだ「日本の名峰50選」です。

「梅雨明け」=「夏山登山」というイメージが出来上がっている私、画面に映し出される名峰の山々を眺めてタメイキついていました


上の写真は2003年に主人と行った南アルプス「赤石岳」です。
4泊かけてノンビリユッタリと遊びながら「赤石~荒川三山~千枚岳」と縦走しました。
お花畑が豊富な楽園のような稜線漫歩を楽しみました。

赤石岳の頂上からは隣の聖岳はもちろん、南アルプスの北部の山々が良く見えていました。
そして頂上直下には紫の「イワギキョウ」があちこちに
荒川三山のお花畑は南アルプス一と聞いていて、規模も大きくて・・・満喫しましたが、千枚岳近くの岩場に咲いていた、南アルプスでしか見られない「タカネビランジ」を見た時は大感激しました。

今日のTVの名峰50選では、「赤石岳」は24位でしたね。

ちなみにベストテンは
1、富士山               6、剣岳
2、槍ヶ岳               7、鳥海山
3、大仙                8、八ヶ岳
4、石鎚山               9、白馬岳
5、穂高岳              10、大峰山

ちょっと意外な結果です
以前雑誌「山と渓谷」でやっていたベスト100では、上位は北アルプスや南アルプスの名だたる山々が占めていましたが・・・


こちらは2004年に、山仲間のYさんと2人で行った花の名山「加賀白山」頂上から望んだ「御嶽山」です。
もう一人の仲間のKさんは、仕事が忙しい上に、お姑様の新盆やら、実家のご両親のお見舞いなどで九州行きが続いて「山」どころではないようでした


流石に花の名山らしく、高山植物の種類も多く、観光新道は写真を撮りながらの下りでした。
宿坊のある室堂周辺はコバイケイソウが絵のような姿で咲いていました。
春のお花のナデシコから夏の終わりのマツムシソウまで一緒に咲いていて本当に楽しめる山でした。


今日のTVで「加賀白山」は第13位でしたね

そして去年の2005年の夏もKさんは、今度はお嬢さんの第二子の出産で山どころではありませんでした。


私も父の肺炎による入院などがありヘロヘロ状態で、選んだ山は楽チン登山で行ける3000メートル級の「乗鞍岳」
夜行日帰りで行きましたが、穂高連峰が見えたので良しとしましょう。


ハイキング程度の軽い山登りでしたが、一面に咲き乱れる白い白山イチゲの群落は素晴らしくて、良い足慣らしとなりました
このあと8月下旬に浅間山が目の前の「黒斑山」に、やはりYさんと2人で行きましたが、どちらも名峰50選には選ばれていませんでしたね。



今年こそ、以前のように3人で「山」に行けると思って楽しみにしていましたが・・・
今度はYさんのお兄様が今月急死して、86歳のお母様が悲嘆のあまりに弱り果てて、目が離せない状態となってしまったようで

我々世代って、上の世代と下の世代の板ばさみで、何かと頼りにされて動き回り、気がついたら自分達の体力がすっかり落ちていて、自信がなくなってしまうシンドイ歳まわりなんですね

今年の夏山は久しぶりにKさんと2人で、今度の週末に楽チンアルプスに出かける予定ですが、2人とも筋肉が落ちてしまって果たして登れるのでしょうか??

そしてそして、私のデジカメの調子が悪いので直しに出したら
「お盆が入るので、仕上がりは一ヶ月後です」だって、アチャ~~~

※今回の写真は以前にフイルムカメラで撮った作品です。





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若冲と江戸絵画展

2006年07月28日 | 美術館&史跡巡り
「中欧旅行」から帰ってきてからの一ヶ月間は、息子の手術後の体を心配し心休まる暇がありませんでした。
でもやっと時間的にも、気持ち的にもゆとりが持てるようになりました。

そろそろ梅雨明けが見えてきた昨日、ご近所仲間のぷりんさんとnonちゃんと3人で、上野の国立博物館「平成館」で開催されているプライスコレクション「若冲と江戸絵画展」に行ってきました。

それと旅行の思い出話にも浸りたいとのことで、食事会も兼ねてランチをパ~~っと楽しみました。
場所は上野不忍池近くのビルの一角。日本料理「池之端、亀屋一睡亭」。セット料理(光悦3000円)もまぁ~まぁ~で、中欧旅行の話も弾みました。詳しい事はこちらです
体力的にも気力的にもそろそろ限界が見えてきた私たち
皆それぞれに旅行中、思案も色々あったでしょう。
何しろ私以外の3人は揃って血液型がAB型、ロケットのように飛び出して行く好奇心は半端でなく、それが3人3様で方向が違うので、面白いと言えば面白いのですが
皆が同じだけの体力気力があるうちは問題ないのでしょうが、差が出た時にどうするか・・・私的にはそんな事を考えさせられた旅行でした。
2時間ほど食事とお喋りを楽しんでから、国立博物館に向かいました。



7月4日~8月27日まで、江戸絵画のコレクションとして有名なアメリカ人ジョー・D・プライス氏と国立博物館が共同で選んだ101作品が展示されています。
プライス氏は、忘れられていた江戸時代の画家伊藤若冲(1716年~1800年)の魅力をいち早く発見した人として知られています。

今回の展示はその若冲を中心に、長沢芦雪、森狙仙を中心とした上方の画家や、酒井抱一、鈴木基一など江戸琳派の画家達の作品、あるいは肉筆浮世絵など、優れて個性的で楽しい作品が数多く展示されていました。

何万ものタイル状のマスの上に描かれた若冲の「鳥獣花木図屏風」
作品の構成も前代未聞ですが、色も江戸時代の画家が描いたとは思えない斬新さです。
プライス氏は自宅のお風呂場のタイルでこの絵を再現したそうです。
象の鼻の部分にシャワーを取り付けたと、説明文に書いてありました

若冲は京都の青物問屋の長男でした。
弟に家督を譲り、本人は生涯結婚もせずに好きな絵を描いていたそうです。
粋で洒落が詰まっている若冲の絵は、生活苦とは無縁の豊かさの中で描かれた影響かしら?と勝手に想像いたしました。

こちらの「葡萄図」がプライス氏が若冲と出合った最初の作品です。
大学の卒業記念で買う予定だったスポーツカーの代わりに、名も知らない一枚の水墨画を手にしたのです。
この時からプライスコレクションが始まりました。
私も娘時代は某美術館に4年ほど勤務していましたが、正直「若冲」の絵はあまり知りません
尾形光琳や円山応挙などの絵はしょっちゅう目にしていましたが・・・
若冲の個性的な作品には驚かされました。
簡略な筆跡でユーモラスな水墨画作品にも心惹かれました



こちらが若冲の代表的な作品「紫陽花双鶏図」
水墨画も良いけど、こちらも力強い作品ですね。
今回の展示の特徴は、プライス氏の希望により光の演出が施されている事です。
朝夕の光、昼間の太陽の力強い光・・・我々の身の回りの光は多様に変化しています。
特に電気のなかった江戸時代では、それが顕著に感じられた事でしょう。
光の変化によって、作品は驚くほどいろいろな表情が楽しめました
一番最後に展示されていた円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」はまさに、朝霧の中に山の中の滝と動物達と、そして流れ行く川の風景が、光があたる事によって次第に霧が晴れていくような動きのある絵に見えました・・・

そんな事まで気づかせてくれたジョー・D・プライス氏に感謝です。
久しぶりに日本画を堪能できました。

先日、NHKTVの日曜美術館でも紹介されたせいか、平日なのに館内は中高年で賑わっています。
でも切符もスイスイ買えましたし、並ぶことなくすんなりと会場にも入れました。
8月28日(日)までやっています。
夏休みの一日、心静かに日本画を鑑賞するのも良いものですよ。


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夏の中欧紀行⑦・プラハの夜の大冒険!

2006年07月26日 | 中欧三カ国旅行記
梅雨はいつまで続くのでしょうか?
例年なら、梅雨明け10日のピカピカお天気が続いて、海へ山へと遊びに出かける頃なのに・・・
反対にヨーロッパでは熱波の夏だそうで、お年寄りに多数の死者が出ているそうです。
私たちが旅した時も、連日お天気に恵まれて暑い日々でした。

食後、近くの展望台からプラハの街を眺めました。
もう夜の八時過ぎですが、まだこの明るさです。
モルダウ川も見えていますね
本来なら「ライトアップ」を楽しむはずの食後のこの企画、この日はナント夏至でしたから仕方がありませんね

この後、バスに乗ってホテルに戻りますが、私たち3人だけは通り道の王宮で降ろしてもらいました。
「気をつけて下さいね~」心配顔の添乗員さん始め皆様に見送られて、いざ出発
北側の入り口だったようで、すぐに「王宮庭園」があり中に入りました。
噴水がありバラが綺麗に咲いていました。


英語OKと答えていた地元の学生さんの案内どうりに歩いていったら、午前中に中を見学した「聖ヴィート大聖堂」に出た、チャーチの名前が違っていた?
日中とはうって変わった静けさの中、ライトアップが始まっていました。
神秘的な美しさです
しばし眺めてから又地図を調べましたが、市内の地図ではプラハ城の中のことまで詳しく出ていないのです
迷路のような王宮・・・

ガイドブックのプラハ城の地図を見ながら来た道を戻りました。
丁度太陽が西の空に沈む所でした
人通りの少ない道で暗くなったら不安だわ。「タクシーに乗る?」
そのタクシーも「用心する事」とガイドブックには書かれているのです

若い女の子が2人歩いてきたので、もう一度K子さんが道を聞きました。
「トラム(路面電車)に乗った方が良い、私も乗るから私が降りる次の駅で降りなさい」とのことでしたが・・・

私たちは切符を持っていないのです
日本と違って、車内で切符は買えないはず・・・
それを言うと彼女は肩をすくめ「どうにかしてみる」と言ってくれましたが、ハテ?ハテ?
やっと私たちは「ミクラージュ教会」のある停留所で降りました。
取りあえずはホッとしましたが・・・
心臓がドキドキしていたので咽がカラカラです。
水を買って飲みました。
時間がないので教会には行かず、そのままカレル橋に出ました。
如何にも私たちらしい、いつものパターンです



「カレル橋」から望んだ「プラハ城」です。
これも見たかったのですが、ライトアップされたカレル橋そのものを見るのが希望でした。





カレル橋は相変わらず観光客で賑やかで、大道芸人たちが音楽を奏でていました







川の右岸に出て、スメタナ通りのベンチから見る「カレル橋」が素晴らしいと聞いていたのですが、遅くなるので諦めました。
これから地下鉄に乗って、しかも乗換えして帰るという大仕事があるのですものね



幸いプラハの地下鉄は、ロシアと違ってとても明るくて(真っ赤でした)、案内板も分かりやすくて丁寧で
丁度11時にホテルにたどり着きました。
部屋の鍵を開けているとのベルが・・・案の定添乗員さんからでした。
ご心配かけてすみません。色々迷ったりしましたがとにかく無事に帰ってきましたよ。


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夏の中欧紀行⑥・プラハ自由時間その2

2006年07月23日 | 中欧三カ国旅行記
息子一家が自宅のある川越に帰っていきました。
お医者様の許可が出て、術後26日目の月曜日から職場に復帰するそうです。

腰が痛くて全然動けないと言うが入ったのが6月18日・・・
丁度お嫁ちゃんの実家にアメリカ人の女の子がホームスティーで来ていて、お嫁ちゃんは通訳のために実家に帰っていた時の事でした。

息子を入院させ、私はすぐに中欧旅行に出かけて、そして帰国した28日に息子は椎間板ヘルニアの手術を受けました。
退院後は我が家で療養・・・
私にとっては目が廻るような日々が続きました

すっかりなついた孫のハー君と別れるのは淋しいものがありましたが、流石に私も疲れてダウン寸前です。ホッとする気持ちの方が大きいですね。

今日は早速「英会話教室」に出て、帰りにデパートで夏物バーゲンを見て廻りました。
まだ梅雨が終わらないのに、街はもう真夏の風情・・・
ショーウインドウの中は秋物に替わる所でした。

私もすっかりやつれて疲れ果てた顔ですが、何故か?全然痩せていない
食卓は毎日息子の好物のてんこ盛り、それに一緒に付き合ったからでしょうか

息子殿、これからは自分の腰の弱点を充分に認識して注意を怠らず、仕事と自分自身の生活に折り合いを付けて過ごしてください。

                    ☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆

ヴァーツラフ広場





古いドッシリとした建物が銀行だったり、デパートだったり・・・
わずか38年前に戦車が侵攻した場所は、平和な中にありました。
プラハを語るとき、必ず出てくる言葉が「ビロード革命」と「プラハの春」
今日のガイドさんの口からも出ていましたね。


ここでプラハの歴史を簡単にお勉強しましょう
前にも記しましたが、プラハがボヘミアの中心地となったのは9世紀の終わりごろです。
その後14世紀、ボヘミア王カレル一世はドイツ諸侯に選ばれ、神聖ローマ帝国の王カール4世となり、建築や芸術、教育に力を入れました。
プラハは帝都として栄え、現代のプラハ市の基礎が整ったのがこの頃です。

17世紀以降はハプスブルグ家の支配を受けますが、第一次世界大戦後ハプスブルグ家は崩壊。プラハはつかの間の自由と重工業で潤いますが、その後ヒットラーに攻められ陥落、第2次大戦後はヤルタ会談によって旧ソ連の固い共産圏ブロックに組み込まれます。

その後自由を求めるデモが広がり、1968年には進歩派のドブチェク氏が首相兼第一書記に選出され自由化が決定的となります。これを称して「プラハの春」と呼ばれていますが、1968年8月、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍約20万はチェコスロバキア国境を突破し、プラハの街を制圧しました。

1989年、旧ソ連崩壊後は一挙に15の民主主義国家が誕生しました。
宗教や民族の対立により内戦が起きた国々が多かったのですが、チェコスロバキアは「ビロード革命」と呼ばれる無血革命により、チェコとスロバキアに分離独立を果たしました。
2004年にはEUに加盟しユーローの導入を目指していますが、早くても2010年以降になる模様です。

硬~いお話が続きましたので、今度は柔らかいお話です。
6時15分の集合まで、旧市街広場に近い「ツェレトナー・クリスタル」というお店でお買い物をしました。
ボヘミアンガラスと宝石の専門店で、日本人スタッフもいるお店です。
私の誕生石のガーネットがチェコの特産物としてたくさん並んでいます。
指輪やネックレスはすでに持っているので、今回はブローチを記念に買いました。
25年間働いてきて、この春退職した自分への退職祝いです。
金の細工が良いに決まっていますが高すぎます。迷いましたが息子の入院で散財も予想されるので銀製にしておきました。ぷりんさんにも言われたけど、ちょっと地味だったわね

ぷりんさんとnonちゃんは金の台のプチネックレス、K子さんはボヘミアンガラスのショットグラスを買ったようです。
ここでは全員カードで購入しましたが、nonちゃんだけが暗証番号を問われて??
何故なんだ~~と後々気になったようです。

再び旧市庁舎前に・・・

一番上の二つの四角い窓で、12使徒がぐるぐるまわって顔を見せていましたが・・・
アップを撮ろうと思っているうちにあっけなく終わってしまいました
これならそごうデパート横浜店のお人形が出てくる時計の方が見ごたえあるかも、なんて不謹慎なことを考えてしまいましたわ。
サッカーは結局1対0でチェコが負けたようですが、広場は昼間以上に人があふれていました。
6時15分、ツアーの仲間18人が全員そろい、夕食場所に向かいます。

バスの中で「もう2万歩以上歩いた」と、ぷりんさんから報告がありましたが・・・
汗で首の周りにアセモができていました





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夏の中欧紀行⑤・プラハ自由時間その1

2006年07月20日 | 中欧三カ国旅行記

「ヤン・フス」像
食後みんなで広場に戻っていよいよ自由時間です。
出発前に行きたい所はいろいろ出し合いましたが、どれだけ歩けるでしょうか・・・
まず広場の中央にある「ヤン・フス」像を見学しました。

フスは時の腐敗しきった教会権力に立ち向かい、宗教改革を唱え、最後は火あぶりの刑に処せられますが、後のルターなどの宗教革命に影響を及ぼした先駆者です。今でもチェコの英雄的な存在として慕われているそうです。




テレビクルーもたくさんいて中継しているようです。
チェコに一番思い入れが強かった仲間のぷりんさんが出発前から「悪い予感がする」と言っていたけど、中世が色濃く残るプラハの街はサッカーで熱く盛り上がり、お祭り騒ぎのにぎやかさでした



人であふれている旧市街広場を後にして「市民会館」に向かいました。
アールヌーボー様式の優雅な建物です。
ここの大ホール「スメタナ・ホール」で毎年プラハの春の音楽祭が開かれているそうです。
必ず最初に演奏される曲がスメタナの「我が祖国」
内部の見学はガイドツアーのみなので、入ることは出来ませんでした。

代わりに隣に建っている「火薬塔」に登ってみることにしました。
展望台から眺める景色は「塔の街・プラハ」を充分に堪能できる素晴らしいものでした。

★火薬塔からの眺め★プラハの街が一望・・・
「ティーン教会」

一番左(ティーン教会方面)の写真の左下に見えている道を歩いてきました。
この日は半日かけて、奥に見えているプラハ城から見学しながらずっと歩いて来た事になりますね。

この火薬塔は15世紀に建てられたゴジック様式の塔で、当時は防衛の為の建物だったようですが、17世紀に火薬貯蔵庫として利用されるようになったそうです。
現在は市民の絵や写真が展示されています。
少し登ったところに「料金所」があり幾等かばかりの見学料を払って、暗い中古いラセン階段を登っていきました。
三角屋根の下の四角い部分の一番上が外に出られる展望台となっていて、グルリと一周できました。
吹く風が気持ちがよかったこと





入り口の看板には「パウダー・タワー」と書かれています。これが英語の火薬塔のこと
あとはチェコ語とドイツ語かしら?
昔のままのラセン階段は、暗くて段差のきつい所にはクサリまでかけられていました。
マウスオンしてみてね
歳をとったらちょっと登るのは無理かもしれません
旧市庁舎の展望台はエレベーターで行けるとの説明がありました。
足の弱い方はそちらをお勧めいたします。


高いところから街を見渡し、それからプラハ一番の繁華街を歩いて「ヴァーツラフ広場」を目指しました。



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自然界!

2006年07月17日 | 日常の日記

パチンと睡蓮が咲きました。
一番花は私がヨーロッパ旅行に行っている間に咲いたようですが、昨日玄関先の水盤を見たら一輪ほころび始めていて、日中にはパッと開いていました
息子が椎間板ヘルニアの手術をし、退院して我が家で療養を始めて一週間が過ぎました。
私は孫のハー君と、毎朝水盤の中のメダカに餌をあげるのが日課になっています。


ホテイ草とスイレンと藻を入れた陶器の水盤を三鉢、玄関先に置いています。
真ん中の水盤には生まれたばかりのわずか5mmの赤ちゃんメダカが、ウヨウヨと泳いでいます。
こちらには餌はあげません。
両脇の親メダカの方に、ハー君と一緒に餌やりをしていますが・・・
思わぬ天敵に苦慮しています





マウスオンしてみてね
この丸々と太ったメダカを狙って、ヒヨドリの親子がやってくるのです。
水盤に網を張ればいいのですが、それでは癒しの風情が台無しです。
周りに植木を置いて隠しましたが、さして効果もありません。
主人はこれも「自然界のお勉強」と言いますが、私はやはりハー君にショックを与えたくありません、朝起きて水盤を見たらカラッポだなんて・・・私でも胸が痛くなります。

ヒヨドリの親子も食べるのに必死かもしれませんが、横にたくさん実がなっているイチゴやブルーベリーはいくら採っても良いから、メダカさんだけは捕らないでねと呟いてしまいます。

                ☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆


天敵は畑にもいました。
今我が菜園ではトマトとナスと最後のキュウリが収穫できますが、赤いトマトを狙ってカラスとの戦いが繰り広げられているのです

今年は苗が良かったのか?大きなトマトが毎日のように採れています
「まだちょっと青いところがあるから明日採ることにしよう」と残しておいたトマトが連日やられているのです
ニックキカラスめ
山には可愛い七つの子が待っているのかも知れませんが、ここまで育てた作物を捕られるのは痛手です。
マウスオンしてみてね
ゴーヤも大きくなりましたが、こっちの方は知らん顔・・・
苦い味と、良くご存知で

こちらも網をかければいいのでしょうが、戦いはまだまだ続きそうです。

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夏の中欧紀行④・プラハ「カレル橋」

2006年07月14日 | 中欧三カ国旅行記
橋塔をくぐるといよいよ「カレル橋」・・・
塔の向こう側には日本大使館などがある街並みが続きます。
この橋を有名にしているのは、両側の欄干に建つ30もの聖人たちの像です。
キリスト教の聖人たちの伝説が様々に表されていて、中には触れると幸運が訪れるとも言われている聖人像もありました。
路上ミュージシャンや、個人のお土産屋がたくさん並ぶ歩行者専用の橋でした。

サムネイルのマウスオンで橋の上からの風景をお楽しみ下さい。

橋から見たプラハ城

橋から望む「プラハ城」は頑強な砦にも見えました。

旧市街地側の橋塔は、橋と同じP・バルレーシュの建築で、この上からの眺めはプラハを代表する風景と聞いていますが、ここにも登る時間はありませんでした。
残念
ガイドのテレサさんの案内で、この橋塔をくぐり旧市街地に出ます。
道路は観光客でいっぱい、プラハはヨーロッパ中の観光客が集まる人気の街のようです。
人ごみを避けて修道院の中を行き、旧市街広場にやってきました。
仲間のK子さんが腰に巻いていた上着がなくなっていると慌てています。
「落としたみたい」彼女は駆け足で戻りました。添乗員さんが付いて行ったから大丈夫、英語も話せることだし・・・
暑くなってきたので私も薄物の上着を脱いで同じように巻いていたけど、落とさないように注意しなくてはね。
彼女が戻るまで、広場でテレサさんの説明を聞きました。

旧市街は中世の趣が残る味わい深い一帯ですが、その中心の旧市街広場は歴史的な建物で囲まれています。
正面に見えている典型的なゴジック様式の教会はフス派の拠点だった「ディーン教会」です。
手前のピンク色の外壁とレンガ色の屋根の建物は「キンスキー宮殿」
後期バロック建築の傑作のひとつだそうで、今は建物の2~3階がプラハ国立美術館になっています。

観光客で人があふれている上に、この日はサッカーワールドカップの「チェコ対イタリア」戦が行われる日でした。
広場には大型スクリーンや舞台が設置され、若者達が早くも集まってきています。

暑いプラハの街は、更に暑くヒートアップしていました。


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退院しました!

2006年07月12日 | 日常の日記

このお店は我が家近くの、鎌倉街道に面したモダン和風のお食事処「陽介」です。
息子の病院にお見舞いに行った帰りに時々寄りました。
ご近所仲間とプールのエクササイズの後、ランチを食べに寄る事もありますが、夜は落ち着いた雰囲気が心を和ませてくれました。

和風のおつまみに冷たい生ビールがとても美味しい・・・
粋なカウンターもありますが、こちらでは小料理屋気分で冷酒をたしなむのが似合いそうです。
病院に行くと何故か疲れてしまって、家で二人で食事をするのもおっくうで、回転寿司に寄ったりもしましたが、このお店では何故か癒されました。
30~40歳代の若すぎない程度の若い人(?)が多いからかも知れません。
病院で吸い取られた「気のパワー」がここで若い人からもらって帰れるような感じがしました。


メニューは和風だけではありません。
典型的なイタリアンピザもありますが、キノコとひじきと長ネギの和風ピザもあるんです。たくさんのゴマが香ばしい・・・
我々中高年の夫婦がサラダとピザでビールを飲む日もありました。
マウスオンしてみてね





そしてそして昨日、息子がようやく退院しました
6月19日に入院、28日に手術・・・丁度三週間の病院生活でした。
以前なら「椎間板ヘルニア」の手術は一ヶ月半くらいの入院が必要だったらしいのですが、内視鏡の手術が進んで術後わずか11日で退院です。
まだぎごちない歩き方ですが、とにかくあの騒ぎが一段落しました。

退院後は2週間ほど我が家で療養生活を送るそうで、ハー君もやって来ました。
病院から戻ったその足で、息子の希望により皆で「陽介」で昼食です。
昼間っからビールで退院祝いの乾杯!
久しぶりにオトータンに抱かれて、ハー君も嬉しそうでした。
「陽介」のもう一つの魅力は、お値段がリーズナブルなところです。
大体一皿千円以内で食べられます。
味かちょっと濃いめなので、熟年よりは若い人に人気なのかも知れません。

私はマグロ丼とキシ麺のランチセットをいただきました。
マウスオンしてみてね
主人は焼き魚セット(タイの西京漬け)
ハー君はバ~バのキシ麺と、オトータンのパスタ、オカータンのハンバーグをもらって食べましたが、一番好きなのが「枝豆」でした。
ファミリーは少ないお店ですが、メニューを見れば、十分家族連れでも楽しめますね
でも雰囲気を壊すかな?


ともあれオトータン、もう三度目の騒動はゴメンです。
私も中欧旅行と重なって、心労でどっと疲れました

先生のお話では日常生活が「リハビリ」だそうです。
腰に負担がかからないように(飛び跳ねたり、重いものを持ったり、長距離の運転はなるべく避ける事)、腹筋背筋を鍛えて(泳ぐのが良いらしい)、できるだけ歩くようにしてください。
もう一家の柱なんだから、これ以上お嫁ちゃんに心配かけてはいけません。
頼みましたよ。

ブログ仲間の皆様にも、たくさんの励ましをいただきありがとうございました。
御礼申し上げます。
 
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夏の中欧紀行③・プラハ城からカレル橋へ

2006年07月09日 | 中欧三カ国旅行記

プラハ城の周りには大きな木が茂り、クリーム色の丸いお花がたくさん咲いていました
ガイドさんの説明では、チェコの国花「リーベ」・・・どうやら「菩提樹」の事のようです

私たちは「聖ヴィート大聖堂」の内部を見てから、今度は外観を堪能し、そして「黄金の小路」へと向かいました。

途中、ボヘミアで最も美しいロマネスク様式の教会といわれる「聖イジー教会」の前を通ります。
外壁の赤と黄色の配色とシンメトリーな外観が特徴。城内最古の建築物です。
右脇はボヘミア地方最初の女子修道院「聖イジー修道院」
鮮やかな赤い上着が目立つ現地ガイドのテレサさんの説明を、耳に付けたイヤホーンで聞きながら先に進みました(このような秘密兵器ができて、観光も便利になりましたね)

「黄金小路」
16世紀に城を警固する門番や警備兵のための住居として建てられた小さな長屋が並ぶ小道を、いつしかこう呼ぶようになったとか・・・
錬金術師が住みだして、人工黄金の研究にいそしんだという伝説からきているらしい。
ユダヤ人作家として有名な「フランツ・カフカ」が22番の部屋を仕事場として借りていたそうです。

「黄金小路4」
「黄金小路」

サムネイル(小さな写真)をマウスオンしてね
現在は可愛らしいおみやげ物屋が連なる「黄金小路」
一番目は「カフェ・カフカ」,二番目のブルーの家が、カフカの家です。
フォトジェニックな風景ですね~~

チェコでは伝統的に「マリオネット」が盛んだそうです。
中世期以後、他民族の支配が続く中で、チェコ語を使った素朴な人形劇が、チェコ人の結束を高めたとか。


お土産用のマリオネット人形がたくさん並んでいました。
私は孫のハー君用に「犬のマリオネット」を購入
そして昔錬金術師がいたこの場所で、金属製のしおりを5個ほど買い求めました。
本とメガネとか、木馬と小熊、馬上の騎士など・・・可愛い可愛いシオリです

「黄金小路」での約20分の自由時間の後は再び集合。ガイドのテレサさんの案内でプラハ城を後にしました。
出てすぐの所にプラハの街が一望できる展望台があります。
真夏の太陽が眩しいくらいに輝いて、オレンジ色の屋根がいっそう印象的に見えました。
気温が上がって暑くなってきました



展望台でたくさんの日本人のグループが「絵」を描いていました。写生会
見るとほとんどの人が中高年
こういうツァーがあるのかしら?
眼下に広がるプラハの街を絵にするなんて、ナント贅沢な旅なんでしょう。
一瞬で収める写真と違って、隅から隅まで眺めて、目に焼き付けて描く「プラハの街」・・・

ゆっくりと時間をかけられる事が羨ましくもありました。

私はプラハ城のすぐ前にカレル橋があると想像していましたが、とんでもない
はるか彼方・・・下の方に見えています。
細かい石畳の急な坂道を下ってから水路に出て、見上げるとその上が観光客であふれている「カレル橋」でした。

※黄金小路の写真の3と4はぷりんさん、5はK子さんの写真を使わせていただきました。


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夏の中欧紀行②・プラハ「旧王宮と聖ヴィート大聖堂」

2006年07月06日 | 中欧三カ国旅行記

最初の見学は「プラハ城」ですが、私たちが抱くイメージのお城とは違っていて、生臭い政争の場でもあった旧王宮と
聖人に因む教会や修道院からなる複合建築体をプラハ城と呼びます。

中でも圧倒的存在感があるのがの写真の「聖ヴィート大聖堂」。
ゴジック様式の堂々たる姿で、塔の高さは96.6m・・・
この上に登る時間が無かった事が悔やまれます。

6月22日(木)
プラハで最初に迎えた朝は良いお天気でした
今回私たちは旅に出る前から、プラハ城が真近に望めるカレル橋の、早朝の風景とライトアップが見たいと計画していました。
ホテルの場所が旧市街地から離れていたので、朝の見学は諦めましたが、ライトアップは「是非に」と希望しました。


添乗員さんに相談したらビックリされましたが(今までそういう希望を出した人はいなかったそうです)・・・
「危ないからやめて下さい」とは言われませんでした。
私たち4人は4年前、ロシアのSTペテルブルグで地図も持たずに地下鉄に乗って「迷子」になった前科があります
今回は事前に地図と地下鉄の路線図をシッカリと準備し、頭に叩き込んで、そして更に朝食前に、地下鉄の駅を下見に行きましたよ。

ホテルから歩いて5分の所にある駅は大きな道路に面していました。
そして駅の周りにはお店はなくて、緑豊かな風景が広がっていました。



駅からすぐにホテルのお庭という感じだし、車の往来も多いようだし、夜遅く女4人で帰ってきても大丈夫ね
相変わらず好奇心も行動力も旺盛な私たち、ロシアの反省はあるんですがね~



こちらがプラハの宿「コリンシア パノラマ ホテル」
アメリカンタイプのビュッフェスタイルの朝食も、盛りたくさんの内容でした。
特にチーズとパンが美味しいですね
「出発は9時半よね」と誰かが言ったので、ノンビリと2階のレストランから20階の部屋に戻りました.
「ハテナ?ムムム?私は9時出発だと思っていたけどなぁ~?」・・・メモを確認すると「やっぱり9時出発だよぉ~
慌てて仲間のいる隣の部屋に知らせに飛び出したら、自分の部屋のドアーがロックされちゃった。アチャー
同室のK子さんはまだ下から戻ってこないし、しょっぱなから遅刻したらツアーの皆様に申し訳ないし
近くにお掃除の女性がいたので、事情を話してドアーを開けてもらいました。私の英語が通じたよ

第一日目の朝からドタバタしましたが、どうにか間に合いました。
全員でバスに乗って「プラハ城」に向かいました


「王宮」

市内を一望できるフラッチャニの丘の上に建つプラハ城は、いくつかの宗教施設とボエミア王家の居城との複合施設の総称です。

ここは九世紀以来、歴代のチェコの支配者が居城として定めた所で、時代ごとに増築を重ねてきたので様々な建築様式がみられます。城壁内はさながら一つの街と言ってもいいでしょう。

衛兵が身動き一つせずに立っている門から中に入りました。
いきなり見上げるばかりの「聖ヴィート大聖堂」の正面扉が現れます。
そしてその奥が広場になっていて、旧王宮が広がっていました。




12世紀に建てられ、当初はロマネスク様式でしたが、その後幾たびも修改築され、ゴジック、ルネッサンス様式が加わったそうです。
オタカル2世が欧州制覇を狙い結局敗れて戦死した後は、ハプスブルグ家の所有となりました。
そのハプスブルグ家から独立を勝ち取り、初代大統領になったのが、カレル大学の哲学教授だったマサリク氏。








第一次大戦後、亡命していたマサリクが国に戻ってきて大統領として演説した言葉は「正義は勝つ」・・・
この旗にはそれが書かれていると、行く前に見たビデオで語られていたような?
ぷりんさん、間違いなかったかしら?
※「真実は勝つ!」が正解でした。
マサリクの死後、チェコは今度はヒットラーに占領されます
そして第二次大戦後はソ連ですね。

苦難の歴史を見続けてきた王宮でもあります。




「聖ヴィート大聖堂」
王宮の中庭で写真を撮ってから、いよいよ「聖ヴィート大聖堂」の中に入ります。
外観はトップ写真としてUPしました。
中での写真はフラッシュをたかなければOK、但しお金を払ってシールを貼っている人のみです。
ぷりんさんとシールを求めましたが、私のところで最後、シールは品切れとなりました
商売っ気の無い話ですね~
シールを胸に張り、私が4人の代表で内部の写真を撮りましましたが・・・
上手く写せたでしょうか

サムネイル(小さな写真)をマウスオンしてみてください

「聖ヴィート大聖堂」

正面のステンドグラス(一番右の写真)は26000個以上のガラス片が使われ、太陽の角度により微妙な陰影を出しています。
第三礼拝堂の4万枚のガラス片でできたステンドグラス、特に右から三つ目はチェコを代表するアールヌーボーの画家「ミュシャ」作です。
私もUPで撮りましたが(画面真ん中の写真)分かりますか?

930年に建てられた時はロマネスク様式の円形教会だったそうですが、カレル4世がフランスから招聘した建築家アラスのマティアーシュにより、1344年、現在の建築が始まったとか。
完成したのはナント1929年

ここでは歴代の国王の戴冠式が行われ、現在では大統領の任命式が行われるそうです。

ご主人が日本人だという現地ガイドさんの説明を、無線のイヤホンで聞きながら写真を撮り続けました。



コメント (31)
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