花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

エジプト紀行18・ルクソール「王家の谷」

2011年03月05日 | エジプト紀行
3月4日・冬に逆戻り・・・

「雛祭り寒波」がやって来たそうで、今週は冬に逆戻りしたような日々が続きました。
4日にようやく青空が広がりましたが、三月とは思えない寒さ

この日は我が家の2Fから富士山がクッキリと見えていたので、
朝の家事の後、歩いて5分の裏の高台に登ってみました。

ここからは富士山が若干中学校の校舎に邪魔されますが、右手に丹沢が良く見えるのです。


左端の「大山」の右奥に、雪に輝く丹沢主脈のトレイルが連なっていました。
三脚を立てて、300mmのレンズを取り付けました

ここで写し終えてから、我住宅地の南端にある富士山の絶景ポイントの公園に移動しましたが
10時を過ぎて雲が沸きだしてしまい、残念ながら写した画像は没となりました。

公園でゲートボールをしてたオジさんに
「今朝の富士山は素晴らしかったよ。もう1時間早く来なくては・・・」
と言われてしまいました。

3月5日・何となく春の気配が・・・

そして今日、掃除は後回しにして朝8時半過ぎに我が家を飛び出し
車で「南公園」に行って見ましたが・・・
富士山が何となくボンヤリと霞んでいます


雪がスッキリと白くないのです。
風は相変らず冷たいものの、空の色も春めいています。
この微妙な違いが分りますかしら?

黄砂現象? スギ花粉?
クシャミが連続して出て、目がピリピリと痒い・・・
(この歳で目の周りがかぶれると、ダメージが大きいのですがね~

私、最近まで「花粉症」はありませんでしたが、
3年前の3月、パースから帰ってきた時、生まれて初めてアレルギー性鼻炎に罹りました


ご近所のお宅の「ミモザ」が花盛り

このお花はオーストラリアの国花「ワトル(アカシア)」にソックリです。
それもそのはず、同属のお花のようですね。

パースの春はこのお花とともにやって来ます

9月になると、野原にはワイルドフラワーが咲き乱れ、道路は黄色いアカシアのトンネルができます。

私もワイルドフラワーに憧れて、春の9月に一度パースに行った事がありますが・・・
再び行くとしたら、是非春のお花が咲き乱れる季節に訪れたいですね。

パースでもし花粉症が出るとすれば、この「ワトル(アカシア)が原因」と聞きました。

それぞれの国に、それぞれの「春を感じる風景」がありますが・・・
「砂の国」エジプトの春はどんな状況なのでしょうか?


       

前置きが長くなり申し訳ございません
これからが本題のエジプト紀行です。


私達一行は「ハトシェプスト女王葬祭殿」を見学してから、
この岩山の反対側にある「王家の谷」に向いました。


近辺には盗掘村として有名な村があります。

現在はアラバスターを加工して土産物を売る生活をしている人が多いのですが、
紀元前の昔から、住民の殆どが王墓からの盗品を売って生計を立てていたそうです。

盗掘も一つの職業で、家業として代々受け継がれたそうな
私たちは「王家の谷」に行く前に、この村のお土産屋さんに寄りました。


この村の家々の外壁には多くのが描かれています。

モモちゃんの説明では、旅行で行った先の風景や乗った乗り物などの絵が多いそうですが
奥さんや子供たちの絵もあり、その人数が一目瞭然・・・
この家は、3人の奥さんに5人の子供


アスワンの村は第一夫人と第二婦人は一階と二階に分かれていましたが
ここでは皆一緒に暮らしていて、奥さん同士は平等に扱われるのだそうです。

助け合いの精神が第一のイスラームの世界ですが
やはりこの家族関係は理解できない部分が多いですわ

アラバスターの石の説明を受けます。店内の商品はそれなりにお高いです!

アラバスターは柔らかな石で、光を透過する独特の質感を持っています。
磨くと非常に美しいため、古くから採掘され、様々な装飾品や美術品が作られ、人々に愛されてきました。

「王家の谷」
この地区はすべてカメラ撮影は禁止でした 
カメラは必ずバスの中に置いて行くよう指示されました。守らなければ罰金2万円だそうです
以下の画像はガイドブックよりお借りしました。


紀元前1500年頃にトトメス1世が、このピラミッド型山裾の谷に初めて岩窟墓を建設。
現在62基の王募が確認されていますが、盗掘を免れたのはツタンカーメン墓だけのようです。


私たちは「ツタンカーメン王」「トトメス3世」「ラムセス6世」の三つのお墓を見学したと記憶しています。


下降通路から前室、そして棺のある玄室という構造が一般的で
壁面には再生復活を果たすための宗教文書と絵が施されています。

3500年以上も前の絵とは思えない・・・鮮やか色彩に驚かされます

それに引き換え、ツタンカーメンの墓の内部はかなり貧弱で狭くて装飾もわずかです。

少年王ツタンカーメンはたいした業績もなく、後世のファラオにより彼の記録は徐々に消されていきました。
王家の谷のどこに埋葬されたかという記録も残りませんでした。

埋葬記録のないツタンカーメンの墓の上に別のファラオが墓を作りました。
ラムセス6世です。

死後の復活を信じていたラムセス6世の大きな墓は荒らされ、副葬品は永遠に失われましたが、
その下にひっそりと眠る少年王の墓は3000年以上も人前にさらされることはありませんでした。

黄金のマスクや装飾品の数々はカイロの「エジプト考古学博物館」に納められていますが
そのミイラは現在も自分の墓で眠り続けています。

玄室には石の棺があり、その中には人型棺、その中にツタンカーメンのミイラが眠っており
この様子は薄暗い中、ガラス越しに見ることが出来ました。

尚、ツタンカーメン王の埋蔵品の中には王妃が愛情の印しとしてたむけたであろう
野の花の花束があったそうです。

テーベ(ルクソール)には季節を感じる可憐なお花が、昔から咲いていたのですね。


「王家の谷」の見学を終わり、バスでナイル川の船着き場に向う途中に「早稲田ハウス」がありました。
エジプト政府から貸与されているそうですが、立派な建物ですね~

吉村作治先生が在宅の時には屋根の上に旗が揚がっているそうです。
この日は不在のようでした。

ナイル川

西岸観光のあとはモーターボートでルクソール東岸に渡ります。


お昼を過ぎて、ますます直射日光も強烈になってきましたが、ナイルを渡る風は爽やかでした。

東岸の船着き場横のレストランで昼食タイムです。

前日の夜と殆んど同じ「ケバブ料理」・・・デザートのアイスクリームも甘すぎるぅ-

欧米の団体ツァーはビュッフェ料理を食べていましたが、我々はいつもの炒めご飯にお肉・・・
流石に毎度同じようなお料理に食傷気味です。


食事の後は一度ホテルに戻ります。

ナイル川の向う側に、見てきた王家の谷のある山々がボンヤリと見えていました。

王家の谷の近くに「王妃の谷」もあって、
ラムセス二世の寵愛を受けたネフェルタリの墓もあるらしい・・・

壁面を飾る絵画が素晴らしいと聞いています。
今回、これを見なかったことが唯一悔やまれました。

エジプトの3~4月は砂嵐が多いそうです。
この地の春は「砂」と共にやってくるようですね




コメント (32)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行17・「ハトシェプスト葬祭殿」

2011年02月21日 | エジプト紀行
チュニジアから始まった民主化要求デモは拡大を続け、
中近東の国々では、政権側の弾圧による死者数も増え続けているようですね。

昨夜、NHKスペシャル「独裁政権VS若者達・中東ネット革命の真実」を見ました。

デモという従来からあった行動の裏では、インターネットを遮断したエジプト政府と若者達、
そして世界中のハッカー達との凄まじい攻防が・・・
今までの革命とは全然違うネット戦争が繰り広げられていたようです。

死亡した365人の追悼式が行われたタハリール広場では、それぞれが権利を主張するデモが行われ
収拾が付かなくなりつつあるようです
エジプトの民主主義はこれからが正念場ですね。

この一連の動きは、ひょっとして中国にも飛び火するかも知れません。
歴史は今怒涛の如く動いていますね。

エジプトと言えば忘れられないのが、1997年にルクソールの「ハトシェプスト女王葬祭殿」で起きた、
イスラム原理主義の過激派集団による「外国人観光客襲撃テロ事件」です。

私たちの「エジプト旅行」6日目の見学は、その舞台となったルクソール西岸へ向いました。

1月28日

古都「ルクソール」での2日目の朝を迎えました。
私たちが泊まったホテルは「シェラトン・ルクソールリゾート」
ナイル河畔の東側にあるリゾートホテルです。

西側の山々が朝日に赤く染まっていました。
あの山の向こうに「王家の谷」があるのでしょうか・・・?

ホテルの部屋はちょっと狭かったけど・・・朝食のビュッフェはパンが豊富でした。

さて「生者の都」と言われる東岸に対して、
夕日が沈む西岸は 「再生・復活」を意味する「死者の都」ネクロポリステーベと呼ばれ
墓所として利用されてきました。


サトウキビ畑の続く牧歌的な風景の中に突然現れる「メムノンの巨像」

新王国時代絶頂期の「アメンへテブ3世」の像で、坐像の後には葬祭殿があったのが
後の国王が自らの葬祭殿設立の石材調達のために破壊してしまったそうです

「ハトシェプスト女王葬祭殿」

そしていよいよ「ハトシェプスト女王葬祭殿」に到着です。
厳重なるセキュリティーチェックを受けてからトラムに乗って行きました。

岩を背にしたモダンな三階建ての建物が眩しい

この葬祭殿は、紀元前1500年頃エジプトで最初の女王となったハトシェプストのために
造られた葬祭殿で、ルクソール西岸・王家の谷の東側にある断崖を背に建てられています。

私たちは最初に向かって右側にある“アヌビス神の礼拝所”に行きました。

アヌビス神とは黒い犬の頭を持った神様で、お墓の守り神だったようです。


この壁画は、ホルス神にワインを捧げるトトメス3世の姿が描かれています。

3500年以上も前に描かれた色彩が、色鮮やかに残っていることが奇跡ですね。

トトメス3世は幼少期に王権を奪われたことでハトシェプスト女王を憎み、
壁画を抹消したり、ファラオにとって大事な王名表からも女王の名前を削除させたそうです。

女王の姿が削られていますアメン神への捧げ物

天井一面に描かれた星が見事!犬の頭を持ったアヌビス神

モモちゃんの熱心な説明を受けてから自由時間となり、私たちは葬祭殿の上のテラスに行きました。


14年前、ここで死者60名を出したテロリストグループによる外国人観光客襲撃事件が起きたのです。
日本人も10人が犠牲になりました。

まさに逃げ場のない舞台のような場所ですね。


すっかり御馴染みになった「ホルス」がお出迎えです。


当時、エジプトでは女性は王になれませんでしたが、王の嫡出の長女には王位継承権があり、
その夫が王になるという制度になっていました。

ハトシェプストはトトメス1世の嫡出の長女として王位継承権を持っており、
トトメス1世の側室の息子が彼女の夫でトトメス2世となりました。


付け髭をつけた「ハトシェプスト女王」の像が並んでいます。
本物は破壊されましたので、これらはレプリカですが・・・

女王には息子がいなかったのか、トトメス2世の側室の息子が後継者に指名されました。
しかし、トトメス2世の死後、ハトシェプストは夫の側室の息子であるトトメス3世が幼少であることを理由に、
自らが王になりました。
トトメス3世は彼女の娘と結婚します。
う~~ん、このドロドロの人間関係は現代では考えられませんね

エジプトの女王と言えば美人で有名なクレオパトラが浮びますが、
ドラマチックな点ではハトシェプスト女王も負けていませんね。俄然興味を持ちました。

現代はここで「写真を撮ってあげる」と言ってパクシーシ(チップ)を要求する警備の警官の姿が目立ちます

どうやら我ツァー仲間が餌食になったようですこちらは岩窟聖至所

この聖至所は女王の墓に続いているとも言われているそうですが、
未だに女王の墓は確認されていません。


ハトシェプスト女王は、この葬祭殿を建築した(愛人であったとも言われている)センムトを後に追放し、
センムトの像を全て破壊させました。

しかし、女王もトトメス3世が成長し力をつけてからは結局失脚します。
テロの舞台となったこの「葬祭殿」には愛憎渦巻く物語がありました。

       

この日のルクソールはカンカン照りで、帽子を忘れた仲間のぷりんさんとK子さんは
この「ハトシェプト女王葬祭殿」のお土産屋さんで帽子を買いました。

エジプトのカイロが北緯30度ですから、この1月の時期は冬です。
でも・・・
太陽の陽射しは強烈で帽子とサングラスは欠かせません。
最低気温「8度」、最高気温「30度」の世界です。

太陽の照りつける茶色の世界のあとに、早春の日本の風景を最後に加えます。


こちらは先日雪の後に尋ねた鎌倉「東慶寺」の鐘楼の周りに咲いた梅です。 


そしてこちらが春まんず咲くと言われる「マンサクの花」

こちらは「東慶寺」で写した画像ですが、今日見たら我が家の庭の「マンサク」も満開になっていました。
何となく嬉しいですね
青空が広がったら撮影したいと思います。

日本人の「春を待つ心」・・・
四季のある風景の中で培われた気持ちを大事にしたいですね。


コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エジプト紀行」16・ルクソール「カルナック神殿」

2011年02月13日 | エジプト紀行
雪の中の「椿」

三連休初日の11日、滅多に雪の降らない太平洋側も雪の一日となりましたね
横浜郊外にある我が家近辺も最初はミゾレ混じりでしたが、
午後からは水分の多いボタン雪が降り出しました。

そんな中、ちょっと早いのですが(当日は仕事で不在と言うことで)主人の誕生日を祝うために
駅前の繁華街に繰り出しました。

主人の大好きな活き魚料理をたらふく食べ、熱燗のヒレ酒を付き合い、
最後は「カラオケ」を楽しみました。
雪のせいか?、休日だと言うのにどこもお客さんの姿はほとんどなくてガラガラ・・・

私は滅多にカラオケは行きませんので歌える歌はごく僅かですが
ド演歌の多い主人に合わせて「雪椿」を覚えました

優しさと甲斐性のなさが、裏と表に付いてくる~~
そんな男に惚れたのだから~、私がその分頑張りますと・・・
花は越後の~、花は越後の雪椿~


私の歌などコブシが回らないママさんコーラス的な歌い方なので、こちらで原曲をお聴きください。

今どき滅多にいない、母たち世代の耐える女の歌ですが・・・
そんな雪椿に良く似た風情の椿が、
翌朝近くの公園で見られたので写真を撮りました


横浜南部の高台にある我住宅地は、うっすらと雪化粧の朝を迎えました(12日、朝8時撮影)

札幌で4年暮らした経験のある我等夫婦から見れば、淡い春の雪に見えますが・・・
雪道を歩きなれていない人々が、我が家の前の坂で転んでは大変と
主人が凍った雪をかきました。

僅か15分の作業でしたが、3m以上も降り積もっている雪国の人々の大変さを思うと
申し訳ないような気持ちになりますね。

        

さて、エジプトの「ムバラク大統領」がついに辞任したと発表されました。
「軍」が全権を掌握したようですが、
これからの「エジプト」がどのように変わっていくのか暫くは目が離せませんね。

私の1年に及ぶ「エジプト紀行」もようやく古都「ルクソール」に入りました。

今までの旅行記は左上のカテゴリー「エジプト紀行」で、
カイロ特別編を入れて18編UPしておりますので参考になさって下さい。

ルクソール「カルナック神殿」

画像は「雪の横浜」から一転、エジプトのルクソール「カルナック神殿」に飛びます。

カイロから南へ約670km、その昔テーベと呼ばれたルクソール
中王国時代から新王国時代にかけて(紀元前2000年~紀元前700年頃まで)エジプトの中心地でした。

その栄華を反映するように、現在のルクソール各地には、当時の王たちの権力を象徴するような
神殿・葬祭殿・墳墓が遺跡となって残されています。

その中でもエジプト最大の大きさを誇るのが「カルナック神殿」です。

第一塔門

カルナック神殿の最初の塔門まで導くのが左右に40体並ぶ羊の頭を持つスフィンクスです。
 

幅113m、高さ43mの第一塔門はエジプト最大を誇ります。

王が神となったていた古王国時代、テーベの街が発展するとともに第12王朝の時、
アメン神は太陽神「ラー」と結合して国家最高の「アメン・ラー神」となりました。

その庇護の下、2000年の長きに渡って歴代の王が次々と「カルナック」に神殿を造営したので、
エジプトで1番大きな神殿となったのです。

第一中庭

第一塔門をくぐると、幅103m、奥行き84mの第一中庭があります。
第22王朝のシェションク1世による造営です。

第二塔門と大列柱室

ラムセス二世が完成させた第二塔門を抜けると、巨大な柱の森「大列柱室」へと入ります。

写真にも写っていますが、エジプトの遺跡にはこの様なワンコがあちこちに寝そべっています。
いわゆる「野良犬」なのですが、モモちゃんの話では「神の使いの山犬」として
エジプト人たちは特に追い払わないのだそうです。

巨大な柱の合計は134本!ラムセス二世が装飾部分を完成させました

やっぱりありましたね。ラムセス二世のマークその先には2本のオベリスクが・・・

第三塔門と第五塔門の「二本のオベリスク」
トトメス1世が造営したオベリスクは19.5mハトシェプスト女王のオベリスクは29.5m


2本のオベリスクはアスワン産の赤色花崗岩で製作されています。

制作費を惜しまなかったハトシェプト女王のオベリスクは元来対で2本あったそうです。
その内の1本は地震で倒れてしまったとか・・・

<>

お陰で目の前でオベリスクのてっぺんを見ることができます。
マウスオン でテッペンンのハトシェプスト女王の図をアップでご覧下さい



エジプト最大の神殿の中心部となるアメン大神殿の面積はなんと約30haもあります。

神官たちが身を清めた聖なる池巨大なスカラベの周りを廻ると願いが叶う?

私たちもモモちゃんに言われたとおり7回、ぐるぐると回りました。

スカラベとは昆虫のふんころがしのこと。
ふんころがしは朝早く起きてせっせと働きますから、エジプトでは太陽のイメージの聖虫なのです。



流石に見応えのある神殿ですが・・・
この日はアスワンを発って「コム・オンボ神殿」「ホルス神殿」と見てきたので
頭の中はゴチャゴチャになっています


午後3時、世界中の観光客がゾクゾクと集まってきています。

今回のエジプトの騒乱で、この様な遺跡に観光客の姿は見られるのでしょうか?
行きたい人がいつでも行ける、平和なエジプトであって欲しいと思います。

旅の5日目のこの日は「カルナック神殿」を見学してから早めにホテルに入り一休み・・・
ルクソールでは2泊するので、私とK子さんはザブザブと手でお洗濯をしました。

<
そしてこちらの画像はこの日のディナーのビュッフェ料理です。
メーンディッシュはシシカバブーでしょうか?

マウスオン・クリックで前菜とスープ、
そしてアラビアのロレンスのようなステキな民族衣装で現れたモモちゃん
仲良く一緒の画像をご覧下さい

彼も今が一番の稼ぎ時なのに、仕事のない毎日を送っているのではないかと心配していますが・・・
無事民衆による「革命」が成し遂げられて、今頃は歓声をあげているかもしれませんね。

何しろ、私の仕事先の公共施設を時々利用しにくるエジプト人のW氏のお話では、
「日本のジャイカなど海外からの援助金の99%はムバラク一族の企業に入る」との事

世界中のあちこちに家を持つ彼のような富裕層でも、打倒ムバラクでした。

30年にも及ぶ独裁長期政権は、公金横領・コネ・ワイロ・秘密警察が横行し、
腐りきっていたようですね。




コメント (24)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エジプト考古学博物館」

2011年02月03日 | エジプト紀行
カイロ空港で足止めされていた旅行者の方々も
皆さんどうにか帰国されたようで何はともあれ一段落しましたね。


パース繫がりの私の若いブログ仲間さんのお母様もその中のお一人で
カイロ空港の冷たい床の上で2日間を過ごしたそうです。

毛布もなく、差し入れはパンと水のみ・・・
トイレも酷い事になっていて、辛い2日間だったに違いありません。
無事、成田直行の一番機で帰国できて何よりでした。

旅行中災難にあった場合、添乗員さんの判断(旅行会社の判断)が重要ですね。

私たちは現地にシッカリとしたサポート会社や支店があること
そしてプロの添乗員さんが揃っている旅行会社を、
自分達で見極めて選ぶしかありませんね。

以前、ご近所仲間と安いスポット的なツァーに飛びついて酷い目にあったことがあります。
それがロシアと言うちょっと独特な国だったので、散々怖い目に会いましたよ。
(自業自得なのですが、添乗員さんの存在感がまるでなかった)

そういう旅ほどインパクトが強烈で忘れられませんね

さて、エジプトのムバラク大統領は「次回の9月選挙には不出馬」との声明を出ましたしたが
返ってそれが火に油を注いだようになり、
カイロ中心街にある「タハリール広場」を埋め尽くしたデモ隊は「今すぐの退陣」を求めてヒートアップ

昨日のニュースでは、親ムバラク派との衝突があったと聞きました。
死者五人に大勢のけが人が出て・・・
同胞同士の流血騒ぎは悲しいですね

「エジプト考古学博物館」

今、騒乱が起きている「タハリール広場」に面して「エジプト考古学博物館」があります。

収蔵点数は20万点にものぼると言われる人類の宝物が所狭しと並んでいます。
私たちのツァーは最終日の午前中、この博物館を訪れました。


館内には、ツタンカーメン王の王墓から発掘された黄金のマスク、黄金の玉座をはじめ、
カフラー王座像、ラムセス2世のミイラなど、古代エジプトの至宝が展示されています。

少年王のかぶっていた黄金のマスクは純金製で重さ約11kg
青い部分はラピスラズリと色ガラス、目の部分は黒曜石が使われ実に鮮やかです

ここに暴徒と化した人々が侵入し「ミイラ2体」を傷つけたとニュースで知り、胸を痛めていました。


ヒョウの上に立つツタンカーメン王の像や王族のミイラ2体など多数の収蔵品が損傷を受けたが、
盗難はなんとか免れたようです。


貴重な自国の遺産を奪略するなんて、と信じられませんでしたが
エジプトに滞在している吉村作治先生のお話では、デモ騒ぎにつけ込んだ窃盗団の仕業だそうで・・・
略奪者は29日、警察当局とカイロ市民によって捕らえられたようです。

市民たちは略奪者の侵入を防ぐため、手と手をつないで博物館を取り囲んだ
と言われています。

エジプト全土に略奪のニュースが広まる中、
地域の史跡を守るために団結するエジプト国民も増えているそうですね。

ギザのピラミッドも、この「考古学博物館」も今のところ軍が管理していて閉鎖されているようですが
どうか史跡を守ることを第一に、その銃口が市民に向けられないことを祈りたいですね。


私たちが行った時は世界中からの観光客で賑わっていました。
館内は撮影禁止なので、売店で買ったガイドブックや絵葉書から、画像をお借りしています。

1965年にこのツタンカーメンの黄金のマスクが上野の国立博物館で展示されたことがあります。
(モモちゃんの説明では、アスワンハイダム建設への多額の援助の返礼だったそうです)

当時短大生だった私は誰と行ったかは忘れましたが、
大行列の中で見たツタンカーメンの財宝の数々の精巧さと美しさに感動したのを覚えています。

ツタンカーメン王の王座背もたれにはくつろいだ姿のロイヤルカップルが

その時に感激した黄金のマスクや金のベッド、椅子など、40数年ぶりに対面しました。

今回その感動を思い出しながら、少年王の短かった一生に思いを馳せ
ジックリと鑑賞しました。

初日にギザのパピルスのお店で買った「額」は、まさにこの椅子の背もたれに描かれている
ロイヤルカップルの姿がデザインです


前にも紹介しましたが、今我が家のリビングのカップボードの上に飾ってあります。

ヒヒの胸飾りハヤブサの翼とスカラベの胸飾り

ツタンカーメン王のお墓から出てきたたくさんの宝飾品も展示されていました。
強盗や窃盗団が狙うはずですね。

2Fにはミイラの特別展示室があり別料金のようですが、
私たちはそのまま進み、ガイドのモモちゃんの説明を聞きました。

「アブシンベル神殿」などを建てた偉大なる王「ラムセス二世」のミイラも展示されていますが
ツタンカーメン王のミイラはここにはありません。

彼はルクソールの王家の谷にある自分のお墓の中で静かに眠っています。
次回からは私の「エジプト紀行」も元に戻って、ルクソール編から再開したいと思います。


午前中3時間かけて「エジプト考古学博物館」を鑑賞し、外に出てみると
日差しはますます強くなり、観光客もどんどん増えていました。




今日は節分、明日は立春です。
太陽の光が力強くなり、富士山がぼぉ~っと霞んで見えました。
季節は確実に春に向っていますね。


去年は「エジプト旅行」から帰国してすぐだったので、「節分」の行事は何もやりませんでした。
そのせいか、辛いことが次々と起こり、滅入ってしまった私・・・

今年はシッカリやりますよ~
南南東に向って「恵方巻き」を一気に食べ、豆をまきながら大声を張り上げましたわ。

「福は~内!、鬼は~外!」

コメント (28)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプトの首都「カイロ」

2011年01月30日 | エジプト紀行
やってくれましたね 「ザックジャパン」

カタールのドーハで開催されたサッカー「アジア杯」は、
延長戦に入ってからの日本・李選手の見事なボレーシュートが決まり優勝しました

私はオーストラリアの凄まじい猛攻に観ていられなくなって、途中で自室に引き上げ本を読んでいましたが、
主人の歓声で再びTV観戦・・・
表彰式の後、金色の紙ふぶき舞うスタジアムの上空をドカンドカンと打ちあがる花火まで見ましたよ。
結局昨夜寝たのは3時半

ドーハと言えば93年10月28日、W杯アジア最終予選でイラクに引き分け、
初の「ワールドカップ世界大会」の出場が断たれた「ドーハの悲劇」を思い出します。

カタールと言う国が一体どこにあるかご存知ですか


中東の「サウジアラビア」の東側にチョコンと突き出た(アの字の上)おへそのような半島が「カタール」
人口は約165万人、国土の広さは「秋田県」と同じくらいなのだそうです。

所で話は変わりますが「エジプト」の首都カイロが大変なことになっているようですね。

地中海に面した「チュニジア」に政変が起こり、その影響で「エジプト」も反政府デモや騒乱が拡大中・・・

30年にも及ぶムバラク大統領の強権支配にエジプト国民の怒りが爆発したのでしょう。


こちらの画像は「カイロ」市内の高台にあるアズハル公園から望んだ「カイロ」の街。
砂漠渡りの砂で、街はボンヤリと霞んでいます。

丁度1年前の1月29日・30日・31日とツァー旅行で「カイロ」にいました。

私の「エジプト紀行」は未だに南部のアスワンから古都「ルクソール」の手前でストップしたままです。

順序が逆になりますが、ルクソールから空路「カイロ」に戻った時の
カイロ市内の様子を先にUP致します。


ナイル川河畔の交通の要衝として中世に建設され、
現在にいたるまでイスラム世界における学術、文化、経済の中心都市でありつづけたエジプトの首都カイロ。
近郊を含む都市圏人口は1100万人で世界第17位、アフリカでは第1位だそうです(ウィキペディアより)


丁度私たちがカイロに着いたこの日はイスラームの休日である「金曜日」
街中から湧き上がるような「コーラン」を唱える声に圧倒されました。

紀元639年、イスラーム軍のエジプト侵攻によりエジプトのファラオが治める古代時代が終わり
イスラーム国家としての新しい時代が始まりました。

現在では国民の9割がムスリム(イスラム教徒)で、
カイロの街は美しいイスラーム建築が建ち並ぶアラブ文化圏の中心の一つです。


近年地方からの出稼ぎ労働者が増え続け、カイロ中心街の人口密度は高くなる一方で、
古い建物とビルが目立ち、治安も良くなく街並みも綺麗とは言いがたいものがあります。


この公園の展望台から「カイロ」の街を撮影していると、日本で言えば中高生くらいの少女が2人
「私たちと写真を撮りませんか?」みたいな感じで話しかけてきました。

好奇心旺盛な我々4人のおば様たちは自分のカメラで、彼女達との写真を撮り合いましたが・・・
最後に彼女達から出た言葉は「1ダラー」

以前にも記しましたが、エジプトには義務教育はありません。
アスワンやルクソールでは、父親の仕事を手伝ういたいけな子供達をたくさん見ました。

「パクシーシ」というチップを要求するような行為も、イスラムの精神からすると
金持ちが貧しい人たちに施しをするのは当たり前の事なだそうです。

でもでも・・・
私たちは可憐な少女達にいきなりお金を要求されたことがショックで
(彼女達の名誉のために画像を加工します)
孫をたしなめるようにボールペンを渡し「これでお勉強してね」みたいに諭しましたわ。

この前年に行った「インドネシア」の女学生達が、英語の勉強のために熱心に話しかけてきたのと大違いで・・・

エジプトの人々は、観光客相手に大人も子供も
実に大らかでしたたかに生活している感じが致しますわ

「ハン・ハリーリ市場」

カイロ観光の人気のスポット「ハン・ハリーリ」
ハンとは隊商宿のことで、かってこの一帯にたくさんあったそうです。

ここはツァーバスが停車する「エル・フセイン広場」
カフェやレストランが並びます。


この右手の横丁がメイン通りの「エル・バデスタン通り」
東京で言えば「秋葉原」&「アメ横」でしょうか?


メイン通りとは思えない狭い横丁を、最初はツァーの皆で一緒に歩きます。

珍しいものがいっぱい並びます700年前に建った「バデスタン門」

私たちはエジプト現代ポップス音楽のCDを購入奥へ奥へと進むと道は細くなり迷路のように
アンティークショップには掘り出し物が?摩訶不思議な品々が並びます



更に奥へと進むと、もう観光客の姿も殆んど見えません。
いかにもイスラムの世界に相応しい風景が広がっていました。

ただし、この市場は以前爆弾テロ事件があり、フランス人の観光客が亡くなりました。
あちこちに警官の姿も見られて・・・
私たちもこの辺で引き返しました。


イスラム地区の「ハン・ハリーリ」を後にして、カイロの街の中をバスで走ります。
高層マンションがたくさん並んでいました。

これで日本円にしたら4000~5000万円はするそうです。
ガイドのモモちゃんの話しでは、カイロでの一ヵ月の生活費は最低20万円はかかるとか・・・

それって一所帯での話し?
モモちゃんには三人の奥さんがいるということですが、果たして本当かしら?

南部のアスワンでは可能だった一夫多妻も、マンション暮らしの上に物価高のカイロでは難しそうでした。


婦人服を扱っているお店のド派手な品々にビックリ

「夫以外の異性に肌を見せてはいけない」というオキテを守る敬虔なムスリムの女性でも
ブルカの中は御洒落に装っているようですね。
エジプトのそんなこんなの落差には常に驚かされました

28日現在、日本の各旅行社のエジプトツァーは中止ではなく「カイロ」を外して催行と新聞に記されていました。

「カイロ」のすぐそばにあるエジプト観光の目玉、ギザのピラミッドは見られるのでしょうか・・・
今出かけている方々の安否も気になりますね。

エジプトの騒乱がこれからどのように発展していくか、注意深く見守っていこうと思っています。

       

この一週間、母の病院転院のことで、ケースワーカーさんとの話し合いが続き
更に紹介された転院先の候補病院を何軒か訪ねて面談・・・

仕事もあったので、疲れ果ててヘトヘトになった一週間でした。

来週は受け入れ先のベッドの空きと、母親の体調次第で転院です。
相変らずバタバタしそう・・・

更新がままならず、お訪ねいただいた皆様にご迷惑をおかけしてスミマセン
落着くまで、もう少しの辛抱だと思っています。




コメント (31)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行15・ルクソールへ(その2)

2010年12月15日 | エジプト紀行

昨日一昨日と冷たい雨が降りましたが、今日15日は穏かな日和となりましたね。

午前中に、借りている菜園の「里芋」を掘り起こしました。
今年の4月にご近所仲間と岐阜の根尾谷の「薄墨サクラ」を見に行った時に買った「里芋」を
畑に10個ほど植えましたが、それが5~6倍に増えました

4月下旬に堆肥を混ぜて植えただけ、特に追肥もしないでほったらかしでしたが・・・
お正月料理にたくさん使えそうです
「子孫繁栄」の縁起物ですものね。


この所の暖かさで、早生の冬野菜は育ち過ぎのようです。
大根は時々ドキッとするような形のものが出現しますね。

「これはハー君のフグリのようなのが付いているから彼にやれ」と夫が笑います
おっと、品の良さを心がけているわがブログには相応しくない言葉

ところで昨日は父の91歳の誕生日でした。

去年は施設の応接間を借りて賑やかに「卒寿」のお祝いをしたものです。

昨日、父のいる施設の応接間の前を通ったとき、1年前の元気だった母の姿を思い出し、
ちょっと心が揺れました。

先週、厳しい状況から脱したといわれ、気分的にはホッとしていましたが
母はまたまた高熱が出て肺炎を疑われています。

ケースワーカーさんが転院先の「療養型病院」を探してくれていますが、
今はそれどころではないようで、年内はこのまま今の病院で点滴治療となりました。


         

前回から再開したエジプト紀行、ご興味のある方は引き続きご覧下さい。


「コム・オンボ神殿」の見学を終え、
次は80km北にある「エドフ」の町を目指します。

ナイル川に沿って北に走るバスの右窓の向うに鉄道が見えました


エジプトの鉄道は、カイロを中心に北のアレキサンドリア、そして南のルクソール経由
アスワンまでの1本が南北に貫いて走っています(赤い線)

外国人観光客は、カイロからの夜行寝台列車「ナイルエキスプレス号」
南部にやって来る人々も多いようですが・・・
外国人が利用できる列車はこのナイルエキスプレスと一部の特定列車のみだそうです。

カイロからルクソールまでが9時間、更にアスワンまでは3時間半を要するとか・・・
(青く囲った都市が、今回私たちのツァーが泊まって滞在した街です)


本線から支線が分かれて、貨物列車がたくさん走っていました。

一帯はサトウキビ畑が広がっています収穫したサトウキビをロバが運んでいる
トラックも列車もサトウキビが満載!エドフの近くに製糖工場があるようです

モモちゃんの話だと、エジプト人の砂糖の消費量は一人/一年間に20kg~30kg・・・
エジプトは、中東最大の砂糖消費国であり、消費量の約3分の1を海外より輸入しているそうです。

「エジプトの料理やデザートは油と砂糖が多いので太ります。糖尿病も増えています。」

「僕は1991年にカイロ大學文学部日本語学科を出て、日本の明治大學に2年、留学しました」
「TVでおしんを観て憧れ、日本には4年いました」
とモモちゃんが自分の事を語り出しました。

「東京について新宿から宿舎のある多摩センターまでタクシーに乗ったら、あまりの値段の高さに驚いた」
「地下鉄に乗りたくて改札を入ったら、皆電車に向って走って行くので逃げるドロボーかと思った」

「日本は寒くて雨が多く、地震もあるし、皆いつも忙しそう・・・」
「お料理もサッパリしていて量も少ないので痩せます」

「エジプトに戻ったらいつも晴れていて、
今でなくても良いというユックリな気持ちの毎日」

「太り出したら、時々日本に行って痩せてきます」

「それからビックリしたのが友人と諏訪湖のホテルに泊まった時・・・」
「突然大砲の音が鳴り響き、戦争が始まったのかと思ってベッドの下に隠れました。花火の音だった」

漫談のようなモモちゃんのお話でした。

この日は、菊丸さんはじめ、バス内のトイレを使う人が増え始めました。
皆さん、お腹の調子は大丈夫ですか~

「エドフ」の町

ルクソールとアスワンの中間に位置する「エドフ」は、かって上エジプトの州都として栄えました。

大勢の若者が動く車にしがみついている光景にはビックリ
この日は若い人々の姿が多く(それも男ばかり!)、とても賑わっていました。


町には観光馬車が列を成していて、ナイル川クルーズの西洋人観光客が大勢利用していました。
このエドフの町の中に「ホルス神殿」があります。

「ホルス神殿」

ハヤブサの姿をしたホルス神に捧げた神殿で、エジプト国内でも最も保存状態がよい遺跡の一つと言われています。

現在残るこの神殿は紀元前237年に着工され2世紀かけて完成した壮大なものです。


巨大な「塔門」はルクソールの「カナルック神殿」に次ぐ規模です。

幅79m、高さ36mの塔門には王がホルス神と妻のハトホル女神に
捕虜のいけにえを捧げている様子が彫られています。


門の入り口の両脇には一対の「ホルス神像」が立っています。


塔門を入ると32本の列柱に囲まれた広い中庭に出ます。
そして正面が第一列柱室、奥には至聖所があります。


この入り口にも「ホルス神像」が・・・
太陽と天空の神「ホルス」はエジプト航空のマークでもお馴染みですね。

柱頭にはパピルスをモチーフにした装飾がそれぞれ少しづつ違っていて面白い♪

モモちゃんの即興劇を混じえての講義が始まりますホルスはハヤブサの姿をした神
プトレマイオス朝の歴史とホルスのあだ討ちの物語が刻まれています

外国の神話の世界は中々覚えられませんが・・・
ホルスはオシリスとイシスの子で、父はその弟セトに殺されます。

物語はホルスの復讐物語へと進みます。

母イシスとホルスの母子の愛情物語は、アスワンの島に浮ぶ「イシス神殿」で見ることが出来ました。
その時お勉強した「神話」をもう一度復習しましょう・・・

ホルスの妻のハトホルは、古代エジプト神話の愛と幸運の女神ですね。


塔門の外側にある列柱

<
エドフの町の郊外でランチタイムです。
マウスオン・クリックで三枚の画像をご覧下さい

この日のお料理は「ファッタ」という家庭料理だそうですが・・・
何やら昔食べたケチャップライスに良く似ていますね。
横に添えられた硬いお肉は一体何のお肉でしょうか?

バスの中でお腹が痛い!と言ってトイレに駆け込んでいた、親しくなったツァー仲間の女性に
「大丈夫?」と話しかけると
「仲間からアジアを旅行する時に必ず持参する下痢止めの薬をもらって飲んだら、大分良くなったわ」
「どうも、ホテルの朝食でイチゴを食べたのが原因みたい」と・・・

ちなみにこの薬の名前をお仲間の方から聞きました。
中外薬品(株)の「下痢止め」というお薬だそうです。
早速、メモさせて戴きました



コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行14・ルクソールへ(その1)

2010年12月10日 | エジプト紀行

人口104万人が住むエジプト南部最大の都市・ダムで有名な「アスワン」のホテルから眺めた朝焼けです。

私たちが泊まった「モーベンビック・アスワンリーゾートホテル」はナイル川に浮ぶエレファンティネ島に位置し
ナイルの景観が素晴らしい・・・

<>

ナイル川の対岸には、アガサ・クリスティーが滞在し「ナイル殺人事件」を執筆した部屋があるという
「オールド・カタラクト」ホテルの古い建物も見えています。

反対側の西岸に目をやると砂漠が迫っています。
夕日が美しいらしい・・・
マウスオンでご覧下さい

エジプトで泊まったホテルの中では1~2を争う素晴らしいホテルでした。

お部屋も広く明るくて・・・近代的なリゾートホテルでした♪
ホテル前の船着き場から船に乗り対岸へバスに乗り換えて、ナイル川沿いを北上♪

この日のスケジュールは、バスで途中二つの神殿を見学しながら
アスワンから「ルクソール」へ向います。

ガイドのモモちゃんが改めて「サバヘー(おはよう)」と挨拶をし、私たちも同じ言葉で返しました。
旅も5日目、ツァーの仲間30人もだいぶ打ち解けてきました。


ノンビリとバスの車窓からアスワン郊外の朝の風景を眺めていると、モモちゃんが
「屋根の上に柱や鉄骨が出ている未完成の家が多いのが分りますか?」
と問いかけてきました。
画像右手の2階が茶色の家がそうですね

「モスリム(イスラム教徒)は4人の奥さんを持つことができます。」

「ですから奥さん一人だと一階、二人目は2階、3人居ると三階建てとどんどん上に伸ばしていきます」
「そのための準備の柱や鉄骨が上に出ているのです。」
「2階建てのあの家は奥さん二人の家ですね」

「へぇ~、イスラムの国に生まれなくて良かったわ」と私たち女は思いますが・・・

昔から多くの男が戦死したので、その未亡人を救済するための意味もあるそうです。
でも・・・
戦争のない時代に甲斐性のある男が4人の妻を持ったら、一人の妻も持てない男がたくさん出るでしょうね~

ちなみにモモちゃんは3人の奥さんと6人の子供が居るそうです。
「奥さん同士は仲悪いよ」と苦笑いをしていました。^

アスワン郊外の朝の風景・・・車窓から見た一日の始まりです。
1時間でコムオンボの町に到着日本の昭和時代を感じます


「コム・オンボ神殿」

普通の神殿は建物の中央に通路が1本あるだけなのに、この神殿には通路が2本あります。
塔門の入り口や至聖所も二つに分かれている二重構造です。

モモちゃんの「暦の読み方」の講義が始まります世界最古の10進法の数字が使われた暦!
古代遺跡の廻廊を歩きます今尚残る柱には見事な彫刻が!

「コム・オンボ神殿」はホルス神とワニの神であるソベク神のために建てられた神殿です。

うっすらと色彩が残る「中庭の列柱」です

< < < < <

他にも医療器具のレリーフなどが目を惹きますね。
この頃から今と変わらない「外科手術」が行われていた様子なども刻まれていました。
マウスオンのスライドショーでご覧下さい

non_nonさんのソースも2月には使えなくなりそうです。
今の内にたくさん使わせていただきますね。いつもありがとうございます


ナイルにつき出たオリンポスの丘の上にに建つ「コム・オンボ神殿」は
プトレマイオス時代に建てられ、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に完成しました。

一見したところ、ギリシャのアクロポリスのような印象がありますね。


神殿が建つ丘を下っていくと、右手にナイル川が広がっていました。

アスワンからルクソールまで、バスで4時間のコースを、ノンビリ観光しながら
「豪華客船」で二泊三日で巡るナイルクルーズがたくさん出ています。
手前に接岸されているのがプールの付いたホテルのように大きな船でした。


         

乾燥したエジプトの画像のあとは、日本のお菓子「空也のもなか」をどうぞ・・・
渋い日本茶が合いそうですね。


OL時代の仲間からお土産に戴いた銀座のお菓子です。

父のところに持っていくと、ペロリと二つたいらげました。
母は全く食べられません

それでも抗生物質の点滴と、鼻からの高カロリー栄養の注入が効いたのか?
それとも母の底力か?

肺炎が良くなり、極度の貧血や栄養状態も改善され、母は危機的状況から脱しました。
問いかけると反応があります。

医師とは「延命治療はしない」と最初に申し合わせましたが、
気がついたら鼻からチューブが挿入されていました。(これって延命措置ではないのかしら?)

「鼻からだと病院でしか注入できないけど、胃ロウにすれば受け入れ施設も広がる」
と医師は言います。

このまま見殺しにするのも忍びなく、さりとて寝たきりで生き延びるのも酷なようなと
迷いますが・・・
父の待つ施設は「鼻からも胃からも、直接食物を注入しなければならない患者」は受け入れてくれませんので、
いずれにしろ次の受け入れ先を早急に探さなくてはなりません

お正月を前に、叉別の悩みに頭を抱えていますよ。

これからの老人は「自分の最後はどうあるべきか」を、
頭がハッキリしている内に、子供や兄弟に示しておく必要がありますね。




コメント (34)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行その13・アスワンの街

2010年08月17日 | エジプト紀行

旧盆も過ぎて、八月もはや後半ですね。
そろそろ朝晩の風に秋の気配が感じられる頃ですが、今年の夏の異常な暑さはまだほんの折り返し・・・
「日本は亜熱帯地方になったのか?」と思えるような猛暑が続いていますが
皆様、元気にこの夏を乗り越えましょうね。

青い空、青い海、爽やかな風を受けて疾走する白いヨット

上の画像は加山雄三の歌声が聞こえてきそうな(古い!)、眩しい真夏の「海」の風景ですが、
我家から近い「湘南の海」ではありません。

エジプト・アスワンの街

ナイルに浮ぶ帆掛け舟「ファルーカ」

1月末にご近所仲間と出かけた「エジプト旅行」
悠久の歴史に触れて驚嘆し、イスラームという異文化に触れて興味の尽きない旅となりました。

帰国してからすぐの父の発病、母の入院とバタバタしていて
ユックリ「エジプト」を振り返る暇もありませんでしたが・・・
海も山も行けない今年の夏は「花と緑を追いかけること」もできませんので
途切れたままになっている「エジプト紀行」を続けたいと思います。

※今まで綴った「ピラミッド」や「アブシンベル宮殿」の記事は、
このブログ画面左の「カテゴリー」の中の「エジプト紀行」をご覧下さい。



アブシンベルに一泊し、水没を免れた「ラムセス二世の大神殿」の昼、夜、早朝の日の出と堪能した私たちは
再び「砂漠街道」をひた走り、「アスワン」の街に戻ってきました。

アスワンから南のスーダンの国境のあたりをヌビア地方といい、そこに住む人々はヌビア人と呼ばれ、
彼らは肌の色が濃く、プライドを持って独特の文化を育んできており、人柄も穏やかな人が多いと言われています

「アスワン」の街は古代からエジプトの南の玄関口であり、
ヌビアの金や、さらに南の国から運ばれてきた香油、黒檀、象牙などが集まる街として栄えてきました。

マウスオン・クリックで3枚の画像をご覧下さい

<>
帆掛け舟を操作するのはヌビア人の彼でした。
風を読んで帆を操作した後、タンバリンを打ちながら歌い踊り出しました
我々も一緒に手拍子を合わせます。

ミュージシャン魂に火がついたのか、同じツァーに参加していた泉アキさんも楽しそうでした。
エジプトの旅も4日目、皆顔馴染みになってきて、貸切のファルーカの中は楽しい雰囲気であふれていました


エジプトの4日目の宿は、エレファント島に浮ぶホテル「モーベンビック・アスワン」です。
街を見学した後、ナイルを渡るファルーカに乗って向いました。

アスワンのスーク(市場)
旅の楽しみの一つに「お買い物」があります。
イタリアやフランスなら「ブランド品」のお店めぐりでしょうが、エジプトではスーク(市場)が楽しい
アスワンに到着して昼食を済ませた後はお買い物タイムでした。


アスワンのスークは細長い通りに店がぎっしり並んでいて、
生活雑貨を求める地元の人々に混じって多くの観光客も訪れます。

「スークでのお買い物にカードは使わないで下さい。エジプトポンドか米ドルのみです」
と添乗員さんの注意を受けてから、ガイドのモモちゃんに、値段の交渉の仕方を教えてもらいました。

「高い!高い!という言葉はガーリ!ガーリー!です」
「お店の人の言い値の半分から交渉してください」

香辛料を売るお店が目立ちます私たちはハイビスカス茶を買いました
色とりどりの胡椒にターメリックなど・・・民芸品も並びます

私たちは「ガーリ!ガーリ!」を連発しましたが、
観光客慣れした店側も手ごわくて、とても半額にはなりません

マグネットを選んでいると「2ダラー」という・・・
「1ダラー、プリーズ」と言っても「ノン」と言うのでお店を立ち去ると追いかけてくる・・・
そんな事の繰り返し、まさに心理戦のゲームですね

私たちは、ホテルのウェルカムドリンクでよく出る「ハイビスカスティー」を買いました。
乾燥した赤いハイビスカスの花びらのカルカデです。
エジプトでは、これを煮出して飲むポピュラーな飲み物で、どこでも買えるのですが
特にアスワンのものが有名のようです。

他にも「黒胡椒」「シナモン」など、この市場では10ドルくらい使いました。

サフランはそれなりに高価で100g1000円以上します。
「これは本物です。安物はトウモロコシのヒゲに色をつけたものだからね」と言って
まけてくれませんでした

「香水&香水瓶」のお店
1年中お花が咲き乱れる「アスワン」はアロマオイルの産地でもあります。
アスワンではスークの他に「香水店」にも立ち寄りました。

<>

マウスオンでご覧下さい

こちらはダイアナ元英皇太子妃の恋人、エジプト人のドディ・アルファイド氏の父親、
ロンドンの「ハローズ」の経営者で有名だったモハメド・アルファイド氏のお店だそうです。

今でこそ、エジプトの主要産業は「観光」ですが、その昔は香水と綿花が主要産業でした。
特に香水の原料となる花の産地として有名です。

まず最初に香水ビンの作り方の実演がありました。

香水瓶つくりの実演が始まりますあっと言う間に出来上がり!

エジプトの香水はアルコールの入らないエッセンス(油)のみの原液。
フランスの有名香水店の香水もこのアスワン産が使われているそうです。

数種類の香りが披露されました。
私は「オーデコロン」は時々使いますが、香水はほとんど使いません。

その代わり、可愛い「香水瓶」を買いました。
自分用に買った香水瓶、実物大です♪息子宅にはラクダの形の香水瓶♪

ラクダの瓶には「アスワンの砂漠の砂」を入れてお土産としました。
両方とも20ドル弱のお値段でしたが・・・
お店の若い女の子の凄まじい売込みにはタジタジとなりました

このお店では無料で「トイレ」の利用ができましたが、
近くにいた女性の店員さん数人から「ジャパニーズ・ティッシュ」をねだられました。

私は郵便局で年賀状を買った時にもらったポケットティッシュを配りましたよ。
「日本製のティッシュペーパー」は世界一滑らかでビロードのような肌触り・・・
彼女たちもよ~くご存知でした。



母は退院3日目で再び血圧が下がり意識不明の状態で、病院の救急外来に運び込まれましたが
幸い点滴で意識が戻り、入院せずに済みました。
今のところ辛うじて食事も口からとれている様で、落着いています。

ところが今度は父が「変形性手関節症」とかで発熱し、手首の関節が腫れあがりました

週に何度も突然の呼び出しで、両親の病院に付き添い、流石に私も暑い中ヘロヘロですが・・・
倒れることもなく元気でおりますので、ご心配いただいている友人やブログ仲間の皆様もご安心ください。

とは言え、歯に疲れのしわ寄せが来て、またまた歯医者通いですが
いろいろご心配いただきありがとうございました


コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行その12・「砂漠街道」のバス横転事故に思う・・・

2010年07月01日 | エジプト紀行
今日から1年の後半の7月がスタートです。梅雨の晴れ間が広がりました
入院中の母のパジャマとタオル類を洗い、主人の汗と泥にまみれた作業着を洗濯しました。

熱戦を繰り広げていた「サッカー・ワールドカップ」も、日本は惜しくもベスト16で敗退・・・
とても残念でしたが「感動をありがとう」と、感謝の気持ちでいっぱいです。


夜半に決勝トーナメントの「パラグアイ戦」が行われた29日の夕方、
弟夫婦と一緒に入院中の母の主治医から、直接話を聞きました。
病名は「急性腎盂炎」
この歳でのこの病気は「再発」を繰り返し、完治は難しいとの事・・・

今の所、連日の抗生物質の投与で熱も下がり、血液中の細菌もマイナスとなり、
辛うじて食事も(介助が必要ですが)、口から取れています。
あとは尿が綺麗になれば退院して施設へ戻れるようですが・・・、

再発・入院が続けばどんどん弱って、いずれ喉を切開しての栄養投与となるであろうと・・・
その場合は次の病院も考えてくださいと言われました

そんなこんなで心が疲れた時に観て感動した「サッカー・ワールドカップの侍ジャパン」
翌日の各TVのワイドショーで観た、PKを外してうなだれる駒野の肩を抱き
一緒に泣いていた松井の姿にウルウルしていた私です


そして、洗濯物の山を片付けながら横目で観ていたTVの画面に飛び込んできた
韓国の俳優&歌手のパク・ヨンハ君の自殺のニュースにビックリ・・・

主人の父が亡くなり、喪に服して過ごした6年前の年末年始、
暇に任せてBSで連日再放送していたノーカット版吹き替え無しの「冬のソナタ」を見て過ごしました。

人気のヨン様には特に惹かれませんでしたが、
婚約者(チェジュウ)の前に突然記憶喪失となった昔の恋人(ヨン様)が現れ、
不安で切ない気持ちを味わうサンヒョク(ヨンハ)に同情しましたよ。

それ以来、ヨンハ君の爽やかな笑顔と低音の声に魅せられて、CDを1枚買った覚えがあります。

私の観た韓流ドラマはその後1本「パリの恋人」で終わりましたが、
32歳の若い韓国の俳優さんが、末期がんの父親を残しての自殺とは、一体何があったのでしょう

ところで、サッカーの予選で日本がデンマークに快勝しお祭り騒ぎのようになった日に流れたニュース
「JTBエジプトツァー・バス横転事故」の情報がその後さっぱり入らず
今の私は両親の事以外では、このニュースが一番気になってヤキモキしています。

       

日本人を乗せた観光バスが、アスワンからエジプト南部のアブシンベルに向かう「砂漠街道」で、
対向車線をはみ出してきた車に接触して横転したそうです。

”現地ガイドの男性(42)が意識不明の重体となり
ツアーに参加した男性2人が右腕を骨折してカイロ市内の病院に搬送されるなど、
日本人11人を含む計13人が重軽傷を負った”


この事故のニュースはNHKTVや新聞などでも取り上げられましたが詳しいことはこちらをご覧下さい。

重体のエジプト人ガイドの名前も発表されていませんが、その後どうなったのでしょうか?

<>

こちらがこの冬に行った我々のエジプト旅行の時の現地ガイドのモハンメドさん(通称モモちゃん)
JTBのツァーの専門ガイドと聞いています。
ご近所仲間と行った7回目の海外旅行でしたが、今までの旅の中での現地ガイド・ナンバーワンでした。

マウスオンでご覧下さい
映画「アラビアのロレンス」を演じたピーター・オトゥールにも負けない素敵な男性
我々4人の瞳が星のように輝いているのも頷けるかと思います

「アラフォー」で3人の奥様と(イスラームは4人まで持てるそうです)6人の子供がいると聞きました。
事故に巻き込まれた現地ガイドさんがモモちゃんに重なりますね。
どうか元気に回復して欲しいと願っています。

「砂漠街道」

1月26日、私たちはアスワンの街から280km南にある「アブシンベル」に一泊して
世界遺産の「神殿」を早朝夜のライトアップ日中と堪能し、再び「砂漠街道」をひた走り
アスワンの街へと戻ります。


旅行者をテロから守るために、観光バスはパトカー先導の軍団で行きますが、
我々のバスの運転手さんは制限速度を守って走っているせいか?
だんだん間があいてきて、追越をかけられたりしていました

この日の私の座席は一番前でしたので、砂漠の中の一本道が良く見えること


もしフルスピードで走って来る対向車が中央車線をはみ出したら、
運転手さんは慌ててハンドルを切って、車体は脇の砂漠の中に突入しそうです。
そして横転

この画像はアブシンベルからの帰り道ですが、今回の事故は行きに起きたらしい・・・
我々もそうでしたが、行きは殆んどの人が寝ていますから、余計に怪我人が出たかと思います。


運転席のすぐ後の席が添乗員さんとガイドさんの席です。
2人とも怪我の被害が大きかったようですね。


一応「速度表示」の看板は立っていますが、守られているとも思えません。
どの車も凄いスピードで走っていました。

「砂漠の中の蜃気楼」

アブシンベルを出発して1時間半くらいたったころ、モモちゃんが「まもなく蜃気楼が見えてきます」
と言ったとおり、砂漠に浮島が出来ていました。


蜃気楼とは大気中の温度差によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象です。

「どこの風景が映るの?」と思いがちですが、実際にそこに見えている風景が下に変形するだけで、
ある風景がまったく別の方向に投影されるわけではありません。


原理的には真夏のアスファルト道路などに見られる「逃げ水」と同種の現象です。


本当に「水」が流れているように見えますね。
灼熱地獄の砂漠の中で、手持ちの水がなくなったら「きっとだまされるだろう」と実感しました。


およそ3時間・・・
古い方の「アスワンダム」を渡ると「アスワンの街」に到着します。


「ナイル」河畔に広がる、まさに砂漠の中のオアシスの街です。


アスワンの街の中心部は思ってた以上に近代的な雰囲気です。


バスを降りて、最初にナイル河畔の「レストラン」で昼食です
陽射しは強烈ながらも、街には緑が多く吹く風も爽やかでした。

<>

こちらがこの日の「ランチ」です。ひよこ豆とピリ辛のピクルスはもうすっかり御馴染みとなりました。
マウスオンでメーンディッシュもご覧下さい

メニューはムスカ(ギリシャ風ナスの煮込み料理)、カレーのようにご飯にかけていただきます。


レストランのすぐ前は「ナイル川」が流れており、その向うに見える建物がこの日泊まるホテルです。

今回の「バス横転事故」の重傷者は、首都「カイロ」の病院に運ばれたようですが
軽症者はアスワンのホテルで待機と新聞記事で読みました。

このように近代的な大きなホテルがありますから、そんなに不便は感じなかったでしょうが
今の季節のエジプトは、50度近くの猛暑の日々とガイドブックで読みました。
異国での事故は不安がいっぱいだったと思います。

そうそう、4月のアイスランドの火山爆発の影響で飛行機が飛ばなくなり、
ミラノに3日間足止めをくった友人から、自費となった延長分の支払いについての結果報告がありました。

旅行会社からの請求は10500円だったそうです。
「あまりの安さにビックリ、結局飛行機代の自己負担はなかったのよ」
「これならもう2~3日、ノンビリとミラノで遊びたかったわ」と・・・


イタリアのミラノならそう思うかもしれませんが、エジプトの南の砂漠に囲まれた街での足止めは
できたらやはり避けたいですね~





コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジプト紀行その11・朝日に染まる「アブ・シンベル神殿」

2010年05月15日 | エジプト紀行
1月26日(火)
この日の朝は「アブシンベル神殿・日の出観光」が組まれていました(希望者のみ)
モーニングコールは朝の5時25分、集合は5時55分です。

前日の真夜中の2時半出発と比べれば睡眠時間はそれなりに取れましたが、
それでもまだ暗い中の出発となりました。

ぷりんさんのお姉さんが「ユックリしたい」ということで、ぷりんさん姉妹は残りましたが
それ以外の28人が参加しました。



東の空が白んでいましたが、早朝の神殿はまだ夜の名残の空気が漂っています。
前日の昼と夜に見た「ラムセス二世」の巨大な姿が、叉違って見えました。

ライトアップの灯りと群青色の空が混じり合い、夜のとばりから目覚めた美しい空間を醸し出しています。

神殿の中の方が暖かいと言われ、私たちは中に入って日の出を待つことにしましたが・・・
早朝の神殿内部は幽玄の世界が広がっていました。


入り口から大列柱室に入ると、8体のオシリス神の姿をしたラムセス2世像が
4体づつ中央に向かい合って並んでいます。

その一番奥が「至聖所」
右から太陽神「ラー・ホルアクティ」、神格化されたラムセス2世、王の守護神「アメン・ラー」
そして宇宙の創造神「プタハ」の4体の神像が並びます。

年に2回、神殿の奥まで朝日の光が届き、冥界神であるプタハを除いた3体を明るく照らすそうです。
これを一目見ようと多くの観光客がその日に訪れるとか・・・

その2回とはラムセス2世の生まれた日と、王に即位した日(2/22と10/22)でしたが
水没の危機のために場所を移したので、1日ずれてしまったようです。


大列柱室の壁にはラムセス2世が勇敢に戦う姿や凱旋する姿が描かれたレリーフが刻まれています。
最大の敵は現トルコにあった「ヒッタイト王国」

神殿の倉庫などのあらゆる壁面にも王と神々を表す絵で飾られていました。
(神殿の中は撮影禁止なので、上2枚の画像は写真集よりお借りしました)


神殿正面の東の空が明るく輝き出したので外に出ました

<
ラムセス2世も太陽神・ホルアクティも赤く染まります。マウスオン・クリックで三枚の画像をご覧下さい
三枚目の画像はナイル川の氾濫を神格化したハピ神が人の姿で表されています。
上下エジプト統一の儀式が刻まれ、真ん中にはラムセス2世の名前を記したカルトゥーシュが・・・

ギザ郊外のメンフィスで巨大ラムセス像を観た時にお勉強した
「太陽・王様・太陽・波」の古代文字ですね。


朝の6時半過ぎ、いよいよ朝日が顔を出しました。


目いっぱい標準レンズのズームを回します。
この旅に望遠レンズを持ってこなかったことを少し悔やみました


太陽に向かって矢継ぎ早にカメラのシャッターを押し、時々振り返って神殿も写します。
大神殿も朝日に染まって赤く輝いていました。


こちらは大神殿に並ぶように建っている「小神殿」です。


「ナセル湖」の向う側の砂山から昇った朝日
今回も上手く撮れませんでした

もっともっと絞らなくていけないのでしょうか?露出補正もマイナスを大きく?
カメラの技術が伴わずに残念です。


でも赤く染まった「神殿」は前日に見た昼よりも夜よりも更に素晴らしい

「朝日がどのように神殿の中を照らすのか見てくるね」
K子さんが神殿の中に向かいました。


英語が堪能な彼女、3人の門番のおじさんと何やら話しています。
この好奇心は見習わねば

来月の6月にはご主人と南米の「マチュピチュ」に行くとか・・・
体力・気力・財力と三拍子揃っていて羨ましい限りです。

「一番奥の神様が並んでいる所から少し外れて太陽の光が当たっていたわ」
と言いながらK子さんは戻ってきました。


朝日に輝く「アブシンベル神殿」を堪能して、バスでホテルに戻りました。
そのままホテルのレストランで朝食です。

今朝はちゃんと屋内でのビュッフェで美味しくいただきました
寒くはなかったけど時間に余裕がありません

8時までに荷物をお部屋の外に出さなければならないのです。

昨夜は持ってきたポットでお湯を沸かし、2人で紅茶にウイスキーをたらして飲みながらお喋りもして・・・
ざっと荷物もまとめたのですがまだ不十分です。

「今日はバス移動だけで飛行機はないから、神経質になることもないわね」
そういいながら食後バタバタと部屋に戻り、早朝の「日の出観光」に着ていった冬物衣類などを
詰め込んでいると、8時前にポーターさんが荷物ケースを集めにきました。

「ちょっと待ってぇ~
この荷物整理のあわただしさが苦手な方には、是非「ナイル川クルーズ」の船旅をお薦めします

< < < <

荷物を出してから、お隣の部屋のぷりんさん姉妹と一緒にホテル内を散歩しました。
緑豊かな中に赤い「ブーゲンビリア」が印象的でした。

小さな画像にマウスをあてて、スライドショーでご覧下さい

砂漠の中のオアシスのようなホテルの庭で、時間とともに変化するナセル湖(ナイル)を見ながら
2~3日ノンビリ滞在したくなるような所ですが・・・
私たちは慌しく出発します。


8時40分ホテルを出発、
バスは多くの車とともに集合場所で一旦待機して、前日と同じ様にパトカー先導の軍団となり
「アスワン」に戻ります。


       

一昨日、父の付き添いで病院に行ってきました。
先月受けた諸々の検査結果をふまえ、これからの治療法を先生からお聞きするためです。

全身麻酔で行う「細胞の生体検査」は拒否しましたが、それなりに結果はちゃんと出て、
一番恐れていた「ガンの骨への転移」はなかったようで一安心しました

父は今後三ヶ月に一回の注射と血液検査で通院・・・
普段は毎日薬を飲むだけでよいホルモン療法となりました。

何だかホッとしたら気が抜けて、ブログの更新も皆様の所へのご訪問も怠っております。


この一ヶ月、閲覧数(PV)がうなぎ登りに増え、2000を越える日もありました。

いわゆるアクセスカウントの訪問者数(IP)が同じ様に増えているわけではありませんので、
お一人、お一人の方々が、父のことを気にかけて一日に何度も訪ねてくださるのかな?とか
「エジプト紀行」をお待ちの方々が 待ちくたびれて何度も訪ねてくださるのかな?とか
勝手に推察して、ありがたがったり、申し訳なく思ったりしています

両親共々高齢ゆえ、今後突然何が起きるか分りませんが・・・・
取り合えず、父は今まで通り静かに穏やかに、母と一緒に施設で暮らしておりますので、
私も胸をなでおろしている所です。

ブロガー仲間の皆様には、たくさんの暖かい励ましをいただき心から感謝しております。


 
コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする