花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

熊本地震!、5年前を思いだして・・・

2016年04月18日 | 私の呟き
4月14日21:26頃、熊本県熊本地方を震源とする最大震度7(M6.5)の地震が発生
翌々日16日未明の1:25頃に、最大震度6強(M7.3でこちらが本震とか)など、
規模の大きなゆれが続き被害が拡大しています。

亡くなられた方々に哀悼の意を捧げますとともに、
被害にあわれた皆様には心よりお見舞い申し上げます。

東日本大震災から5年が経ちましたが、今度は熊本を中心とした九州中央部の大地震
日本列島の地殻は一体どうなっているのでしょう・・・
TVに流れる惨事を見るだけで、頭がクラクラしてきます。

昨夜18日の21時頃には、又TVで緊急地震速報が流れ、私もオロオロ・・・
阿蘇地方と大分西部に震度5強の揺れがあったようです。

断層の活動がどんどん拡大しているようで恐ろしい
活断層は日本全国2000以上あると聞いています。

我が家近くの三浦半島なども二つの活断層が確認されていて、危険度も高いらしい

日本に住んでいる誰しもが「いつか我身にも降りかかる災難」と危惧し・・・
被災地の皆様の辛さや大変さも他人事とは思えません。

東日本大震災の時に世界中から称賛された
「奪略や暴動も起こらず、秩序正しく並んで食料や水を受け取る姿」に
私は今回も涙が出ました

2011年4月12日・南阿蘇の「一心行の大桜」

今回の熊本地震で大きな被害が出た「南阿蘇」の大桜を
私たち夫婦は5年前に見に行っているのですこちらです。

山の斜面が崩れ落ち、私たちも車で渡ったであろう「阿蘇大橋」も崩落
大学生始めたくさんの尊い命も奪われ、行方不明者もまだまだたくさんいるようです。

あの美しい山里の変貌をTVで見て、心を痛めています


私たち夫婦は東日本大震災の一ヶ月後に、大分空港からレンタカーを借りて
山並みハイウェーを走り「阿蘇くじゅう国立公園~黒川温泉~湯布院」を、四泊五日で巡りました。

オーストラリアのパース通いで貯まったマイレージが、20011年の2月に切れるとの知らせを受け
2ヵ月後の4月の日航便に切り替え予約して、利用することにしたわけです。

そこにあの東日本大震災・・・
行くのをためらいましたが、東電管内の電力不足による「計画停電」を経験し
「東電管内から逃れての電気節約も必要」「原発事故で外人観光客が来なくなった観光地にお金を落とすことも大事」
と解釈して出かけました。

実際一日目に泊まった「くじゅう長者原温泉・九重西鉄ホテル花山酔」では福島の避難所から
妹さんの居る福岡に身を寄せているというおばぁ様とお話しました。
「避難所生活の10日間はお風呂に入れなかった」と・・・

あの時の九州の温泉は、疲れ切った福島の被災者の心身を気持ち良くほぐしてくれたはず
今はどうなっているかと気にかかります。

2011年4月13日に訪れた「阿蘇神社」
今回崩れ落ちたこの神社の画像をTVで見て、ショックを受けました。


私たち夫婦は長者原温泉に一泊した後、百名山の「久住山」登山を楽しみこちらです。
(この時行った「久住山」が夫婦で登った百名山登山の最後でした)

下ってから南阿蘇の一心行の大桜を見学

そして阿蘇の米塚温泉で二日目の宿を取り、翌日の阿蘇観光の折に「阿蘇山」や「阿蘇神社」にも寄りました。
あの立派な神社が崩落とは

阿蘇神社は、この阿蘇地方の一の宮で九州には400社以上ある阿蘇神社の本宮です。
今では九州の「パワースポット」として有名になっているようでした詳しい説明はこちらで記しています。


夫が自分のカメラで撮った阿蘇神社前の私
一昨年の8月に突然逝ってしまった夫のファインダーを覗く視線を感じます。

5年前の東日本大震災後は、東北から遠い横浜でも停電が続き、
スーパーから水やお米が姿を消し、ガソリンスタンドも大行列

余震もしょっちゅうあり、地震酔いも経験しましたが・・・
熊本の余震はその比でないような大きさと回数で、体調を崩す方も多いかと案じております。

日本人の美徳の「助け合いの精神」で何とか無事に乗り切って欲しいと願っていますが
エコノミー症候群で命を落とす方も出てきて、車中泊での生活の怖さも知りました。

そんな私自身、5年前は夫が居たから停電などの不便な生活や物不足も乗り切れましたが
今の一人住まいで「もし首都圏直下型地震が起きたら」と考えると、不安で心臓がドキドキしてきます。

先日の嵐のような日曜日は、TVを見るたびに気分が落ち込み、
息子に「今までやめていた精神安定剤を飲んだ」とメールしたら、すぐに飛んできましたわ。

「もうTVなど観るな」と注意され(そうもいかず見ていますが・・・)
昨日の夫の月命日にお墓参りに行ったら少し気持ちも落ち着きました。

被災地の方々が満足に寝る所もなく食べものや水にも事欠く中で、気丈にしているのに
私がこんな有様では恥ずかしい限りですね、反省です


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さようならtaeさん、どうぞ安らかに・・・

2015年12月08日 | 私の呟き

カトレアの花のように艶やかだった、短大時代の親友のtaeさんが
12月1日の夜に逝ってしまいました(涙)

妹のyunさんのブログで、taeさんが肺炎で2週間高熱をだし意識がなかったけど
奇跡的に回復し、会話もできるようになったとの記事を見てホッとし
taeさん宛にお手紙を出しました

ご主人さまから、手紙のお礼と「これからリハビリです」とのお電話を戴いたのは
つい3週間前だったけど、何故


私はtaeさんが元気な内に会いに行かなかったことをとても後悔しました

10年以上前の、まだ60歳を前にした50代最後の頃にtaeさんから
「お互いの元気な日々を確認し合うためにもブログを始めましょうよ」と
誘われたブログ・・・

taeさんの「南窓によりて」はもう更新されないのだと思うと涙が出ます。


「naoさんに弔辞をお願いしたいと、生前からの本人の希望です。」との
ご主人さまのお電話・・・

親しくしていた首都圏に住む友人たちも誘い、12月5日に山形に行ってきました。

告別式は翌日の6日とのFAXをいただきましたが・・・
その日はお見送りはなく、前日に出棺してしまうとの情報を得て、

私たちはtaeさんのお顔が見たい!最後の姿を見てお見送りがしたい
無理を言って前日に伺わせていただきました。


新幹線が福島から山形に入ったころ、車窓から大きな虹が・・・
まるでtaeさんが渡っているように見えました。

taeさんが厄介な病気に移行した昨年の春
「是非会いたい」と我が家に電話をくれたのですが、私が留守だったので
夫が電話を受けました。

2人で小一時間話したと後で聴きました。その夫ももういません・・・

その後、私たちは親しい仲間4人で裏磐梯で会うことになりましたこちらです。
でもtaeさんは、東京から来る医師と治療方法をめぐる話し合いが行われるとかで
ホテルには来られずに、とても心残りでした

今年は私も墓地探しや納骨を控え、他の二人も諸々の問題を抱え中々実現できず・・・
4人での最後の旅が「taeさんを見送る旅」になるなんてとても哀しいです。


この日、山形県の山間部には雪が舞っていました。

朝7時に横浜の我が家を出発した時は明るく晴れていたのに・・・
taeさんが暮らしていた東北地方の厳しい冬が実感できましたね

冷たい雨が降る駅にはtaeさんの息子さんが、taeさんの赤い愛車で迎えに来てくれました


部屋の正面に、にこやかに微笑むtaeさんの遺影が・・・
厄介な病名と診断された時に、taeさん自ら遺影を撮りに行ったという写真だそうです。

そしてその前に、写真と同じダンスの衣装に身を包みダンスシューズを履いたtaeさんが・・・
「taeさん、綺麗よ 会いに来るのが遅くなってごめんね」

県の公募展に入選したという作品の数々貴女の写真は兎に角素晴らしいです


私たちは午後1時の出棺にも付き添い、彼女の最後も見送りました。

本当は翌日の「告別式」にも出たかったのですが、首都圏組は皆それぞれ事情があって
日帰りで失礼し、私は「taeさんへのお手紙」の形でご主人に託しました。

その内容を一部抜粋して記します。

”taeさんへ”
ご家族の皆様の献身的な看護を受け頑張ってきた貴女が、ついに力尽きてしまったという
連絡を受けた時は、呆然として言葉が出ませんでした。

18歳の春に東京の短大の教室で机を並べて以来親しくなった私たち4人は、この50数年間
taeさんが上京するたびに会い、旅行もあちこち行きましたね。
小さな子供を連れて、貴女のお宅に泊りがけでお邪魔した日のことも昨日のように思い出されます。

taeさんの闘病生活をお聞きし、友人として一番励まさなければならない時に
私は父と夫を失い、貴女を思いやる余裕がありませんでした。
本当にごめんなさいね。

taeさんの事は常に頭の片隅にありながら「頼りになるご主人が付いて居るから大丈夫!」
と思い込んでいました。

実際に貴女はご主人さまを「先生」と呼ぶほどに信頼していましたものね。
私はとても羨ましく思いました。

この2~3日、taeさんの声が常に私の耳に聞こえてきます。
もう一度思い切り語り合いたい!

私たちの胸の中には、色が白くて大柄美人のtaeさん、気持ちもおおらかで明るいtaeさんの姿が
しっかりと刻まれています。
一生忘れません。

どうぞ安らかにお眠り下さい。
合掌



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甘えず! 強く!

2015年07月25日 | 私の呟き
酷暑が続いています。

家の窓も半分だけ雨戸が閉められ、更にビニールでふさがれているのに
外壁工事の方はさっぱり進まず・・・

私の囲われの身は相変わらずで、朝から冷房を入れざるを得ません
流石に閉塞感で気が変になりそうで、「ちょっと出かけてきます」と家を飛び出しました。


行った先は桜木町からMM21へ・・・

7月22日の水曜日は、太陽光線がギラギラでしたが
風が強くて空は真っ青でした

一ヶ月前の、45周年になるはずだった「結婚記念日」にも
このラウンドマークタワーを見上げ涙しましたが
この日も何故が?涙がにじむ


昨年の7月21日の「海の日」には、山仲間3人で
賑やかに楽しくここを訪れましたこちらです。

まさかその2週間後に夫が入院し、そしてさらに2週間後には逝ってしまうなんて・・・
考えてもいませんでした。

そんなことを思い出させる暑い暑い夏がやってきました


去年と同じように「ピカチューフェアー」をやっていました。

先週近所の病院に行った時、80代とおぼしき女性が2人、私の前に座っていました。

一人の方はキリリと姿勢よく、もう一人の娘さんだかヘルパーさんだかとご一緒の方に
「もしかして同じ年頃ではないかしら?」と声をかけていました。

「私は84歳ですよ」と少し弱弱しい声でお返事があり、先生に呼ばれて
付き添いの方に抱えられるようにして診察室に入っていきました。

聞いた方の方は「あら、私は88だから4つも上だわ」とニッコリ

「お若くて信じられない、私の母は2年間寝たきりで88歳で亡くなりました。」と
私は思わず口を挟みました。

「私は15年前に夫を亡くし、子供も居ないのでずっと一人住まいよ」
「長年中学校の教師をやっていたから教え子たちが助けてくれるけど・・・」
「甘えないで、庭も家も私が手入れをしているの」と、きっぱりとおっしゃた

未だにメソメソしている私は思わず「見習わなくてはと思った次第です。


今回出かけた目的はこちらで、山岳保険の継続手続きです。
もう高い山には登らなくなりましたが、丹沢や高尾山でも遭難騒ぎがありますから
安心料と思って入っています。


職人さんが着たり来なかったりで一向に作業が進まずイライラ
息子にやいのやいのと愚痴っていますが、彼は昨日から出張でいない・・・

「naoさん、女一人だと軽く見られるから言うべきことはちゃんと言った方が良いわよ」と
ご近所さんたちにも言われ、

今日来た責任者という人に(下請けに孫請け、そして更に塗料会社と一体何人責任者がいるの~
「予定の4分の1も工事は進んでいないようで」

「窓も開けられずに閉じ込められて、それですぐに作業が進むのなら我慢できますが・・・」
「職人さんが来ないとは何事(もちろんやんわりと言いましたよ)

「申し訳ございません、雨であちこち作業が遅れてご迷惑をかけています」
「身体が大事ですから、クーラー入れて過ごしてくださいね」ですって
電気代は持ってくれるのかいと、喉まで出かかりましたよ


夫がリタイヤ後に庭師になりましたから、
この季節の職人の仕事の大変さは充分に分かっていますが・・・

夫たちは施主様との連絡は常にしていて、朝の8時前には現場に行って
お昼も1時前には戻りましたよ。

(現にこの日、斜め向かいのお宅のお庭の剪定に夫の後輩が7時45分には到着し
作業を始めていたのに、我が家に来るはずだった職人のお兄ちゃんは9時過ぎにやってきて
「午後に塗料を持ってきます」と言って帰ってしまった)

なまじ住宅関連メーカーの息子の会社の系列会社に頼んだから、
下請けに孫請けひ孫請けまであって、人も話の流れもさっぱり見えな~い

社長自ら現場をやるような、小さな所に頼めば良かったかなぁ~と反省です。
(実際に夫はそのような職人さんに惚れ込んで、昨年の入院前に見積もりを頼んでいたのです)


16畳のリビングに私一人で朝からクーラーガンガン入れるのも、電気代を考えると恐ろしくて
家で一番狭い部屋はどこかと考えました。

2階の6畳の夫の書斎です。

まだ去年の夫が入院した時のままで辛いのですが、背に腹は代えられません。
去年のカレンダーなどは整理して、パソコンや暑中見舞いの手紙などは
この部屋ですることにしました。

元息子の部屋だった私の寝室は7畳で、吹き抜けの天井に4畳半のロフト付きで
エアコンの効率が極めて悪いのです


夫が毎日仕事の現場に持って行ったバックをようやく整理しました。
中には「忘備録」と書かれたノート2冊と、ケガ用の救急箱、
そして汚れたタオルが2枚と小銭がバラで1000円ちょっと・・・

今、夫の前に置いてありますが、底が擦り切れているので処分しましょう。

昨日TVを観ていたら、どうやらいつまでもメソメソしている私の症状は
「複雑性悲嘆」というのに当てはまるような気がする

①覚悟もできぬうちに突然相手に逝かれた人
②おしどり夫婦の片方や子供を失った人
③最後の時に後悔がある人
以上の場合がなりやすいとか・・・

②はちょっと違うけど、
夫が嫌がっていた人工呼吸器を、医者の言う通りに勧めたことに後悔の念がある。

今さら言ってもせんないことですが・・・
呼吸は苦しそうでしたが、まだ喋れたし、懸命にノートに思いのたけを記していたのに

この「複雑性悲嘆」から脱出するには
思い出の品をキッパリと整理することだとTVでは言っていました。

今回は画像とは関係のないお話ばかりになり、カテゴリーも「我街横浜」ではなく
「私の呟き」と致します。




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短かった 「今年の春」

2015年05月12日 | 私の呟き
まだ5月中旬だというのにもう台風騒ぎ
関東に近づく前に温帯低気圧になったようですが、
昨夜は強い風雨の音が雨戸を打ち、不安になりました。

明けて今日は台風一過の晴天で、30度近い暑さになったようですね。


夫が増やしてあちこちのお宅に差し上げた「アッツ桜」が満開になりました。


こちらの夫が好きだった「コキンバイ」と、門横に並べて飾っています


4月20日ごろから咲きだした「クレマチス」は昨日の風雨で終わりです。
夫が鉢植えで仕立てましたが、今年は4輪のお花が咲きました。

今春は桜が早かった割にはその後が寒くて、4月中旬まで炬燵に入っていましたが、
前回ご紹介したラッシーママさんの伊豆「春の合宿」以来暑さがやってきて・・・

GWもそのまま初夏の陽気が続き、春のお花はあっという間に終わりました。

ラッシーママさんから戴いたキエビネが4月に咲きピンクのエビネは3本に増えました



同じく戴いたクリン草も3本に増えました。夫が大切していた和スミレも咲きました。


去年の冬に夫が4~5鉢買ってきた「紫色の日本スミレ」
咲き終わってから熱心にタネを採っていたので、それを主人の「偲ぶ会」に出席した方々に配りました。

親戚のどこかの家に咲いてくれれば「ヨシ」と思っていましたが、我が家ではこぼれタネで咲きました。


庭の隅々に芽を出した白いスミレを纏めて鉢に植えたのも夫・・・
こんな楚々としたお花を愛していました。

北側のデッキに30鉢近くもある彼の愛した花々
息子夫婦には「お袋が管理できないのなら、仕事仲間の皆さんに分けたら」と言われましたが・・・

それも淋しいものがあり、そのまま置いて居たら健気に咲きました。

見当たらないのは「カラマツソウ」と「ピンクのスズラン」です。
スズランは2株葉っぱが出ましたが、お花が咲かなかった

3月に咲いた君子蘭は株分けする予定・・・ヒメリュウキンカは大事にしたいですね。


今まで庭の手入れは夫任せでしたが、これからは私がやらなければなりません。
GW中暇を見ては庭と畑の草取りをしていたら、腰がますます痛くなってしまいました

その合間にハイキングに行ったりしているのですから、疲れるはずですね

ハー君の「お節句&誕生祝」(5月6日)
初孫のハー君は5月生まれです。
毎年、GWには息子宅に両家のジジ&ババが招待されてお祝をしてきました。


今年は一番声が大きかった「横浜じぃじ」が居ないのでちょっと寂しいです。
「遺影を持って行こう」と、ハー君が言ってくれて飾りましたが・・・


お嫁ちゃんのお母様もお正月明けに心臓が苦しくなり、検査の日々だったとか
元気に出席できて良かったですが、お薬は手放せなくなったそうです。


オカータンが整えたお料理を囲み、お兄ちゃん孫の11歳の誕生日を祝いました。


プレゼントは「マウンテンバイク」、ナント、シボレー製
お値段も高いので、両家のジジババ&親の皆からのプレゼントです。

午前中に私も一緒に受け取りに行きました。
そして菜奈ちゃんには子供の日のお祝で、片手ショルダーザックを購入

孫たちにとっては嬉しい嬉しい一日でしたが・・・
じぃじが稼いでいた昨年までと違い、年金暮らしのばぁばにとっては脛が細る思いでした。
でも・・・
楽しい一日だったよ

「母の日のプレゼント」(5月10日)
先日の第二日曜日は「母の日」でした。
息子がご馳走してくれると言うので、孫たちと一緒に「焼肉屋さん」に出かけました。


息子夫婦から赤いバラとカーネーションのブリザードフラワーも贈られました

この店には4~5年前の「父の日」にじぃじも一緒に来ましたね。
(今回はカメラを忘れたのでその時の画像を使っています


この母の日にお嫁ちゃんが風邪をひいてダウンでした。

3週間前に菜奈ちゃんが風邪をひき、私が半日息子宅に行き
そして今度はハー君が誕生祝いの4日後に熱をだし、私が朝から看病

何だか私も昨日一昨日とノドが痛くて身体がだるく、主治医に漢方薬を処方してもらいました。
でも美味しいお肉をたらふく食べて、日頃の栄養不足を補ったから、寝込むことなく済みそうです。

春が短くてあっという間に初夏となり、身体が着いていかないのでしょうね。
今週は無理せず大人しくしていることにいたしましょう・・・


「地区センター・OB会」(3月下旬)
55歳から10年間ほど、地区センターの受付の仕事をしていました。
2年契約で辞めても、再び頼まれたりで結局延べ10年続けました。

当時の館長を囲んでOB会が開かれ参加し、懐かしい仲間と久しぶりに再会しました。

夫と良く行った活き魚料理のお店です。一緒に楽しく働いた仲間たち


私も含めて3人が未亡人となりました。
中の一人はまだ60歳だというのに、去年の6月に突然ご主人を失いました。

彼女も元気に出席して良かったです。
独身の娘さんと二人暮らし、まだまだ若くて綺麗だから、哀しみからの立ち直りも早いかも知れません。
私が一番痩せてやつれたかしら?

3時間の飲み放題のコースメニューです。ごぼうと鶏のから揚げをお塩で戴きました。


私の誕生日なども含めて息子一家と時々外食をしますが、孫がいますから
イタリアンかフェミレス、焼肉屋さんが圧倒的に多くなりました。

お魚大好き人間だった夫と行ったお店とは様変わりしましたが・・・
同じシニア仲間とこうして夫が好きだったお店で、賑やかに飲むのも嬉しいですね。


メインは鯛のしゃぶしゃぶ・・・〆は桜エビのおじやでした。


桜が咲いた春の夜に、飲んで食べてお喋りを楽しんだひと時でした。
今年の春は短かったけど、それなりに楽しみました。

もっとも毎日何度か瞬間的に夫を思い出し、涙を流す時間が必ずありますが

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心が凍るような寒い日は「鍋料理」ですね

2014年12月16日 | 私の呟き

一週間前の、親しくしているご近所のお宅のお庭の紅葉です
鎌倉のお寺の紅葉も見事でしたが、今年は我住宅地の各お庭の紅葉も色鮮やかで素晴らしかったです

主人が亡くなった酷暑の夏から、秋が突然やってきて残暑が少なかったからかもしれません。

こちらのお宅のご主人は夫が一番親しくしていた元日航のパイロットさん・・・
大木の桂の木や山モミジがあるこのお庭は、その彼が仕事の合間に作りました。


その奥様が参加している近くのコミニティーハウスで火曜日にやっている
接骨医さんが指導するストレッチ「楽筋体操」に私も通い始めました。

7~8年ほど前からヨガ教室に通っていましたが、孫娘を預かる水曜日と重なり
私は1年ほどお休みすることにしました。

今は孫との時間を大切にしたいと思った次第です。

その代りに始めたストレッチ体操
「あなたには物足りないかもよ」と、元スッチーの彼女は言いますが・・・


今日も雨の中、彼女と一緒に10分歩いて行ってきましたが、
思った以上に効いていて、午後はけだるい中で過ごしました。

この写真を撮らせてもらった日から一週間が経ち
この所の真冬並みの寒さに、お庭の鮮やかだった木々も冬枯れとなりました。


          

爆弾低気圧が接近中とかで、TVでは注意を呼び掛けています。
今日はこちら南関東も冷たい雨の日となりました。

こんな日の一人の午後は人恋しくて心が凍りそうになります。
ぬくもりが欲しくなりリビングにこたつを出して、午後からは各種手続きをしました。

公共料金は割と簡単に引き落とし口座を変えることができますが
フレッツ光やニフティーの名義書き換えは完了するまで2ヶ月以上もかかりました。

挙句の果てに主人と私の分がダブって引き落とされ怒っています

車や火災保険&地震保険、はたまた互助会の名義書き換えなどはどうしてこんなに煩雑なの

そんな中、主人の大学時代の友人から「家を建て替えたので造園を頼みたい」との
一から説明しているうちにウルウルしてしまい・・・

その後は感情が乱れて涙が止まらなくなりました


夕食も作る気になれなくて、お歳暮でもらったこちらで間に合わせます。
野菜をたくさん入れました。

寒い日は炬燵に鍋がほっこりしますね。、


熱燗が欲しいところですが、最近は一カンのビールを主人と分けて良い気持ちになります。
でも・・・
一人鍋も淋しいものがありますね


付け合わせはこれ又戴いた「銀だらの西京漬」
ご飯にもお酒のおつまみにも最高なお味です

先日の土曜日に孫たちの学校で催し物があり、私も参加したのですが
その時に会った息子に

「あれやこれやと決めかねていることが多々あり、相談したいので
日曜日の空いて居る時間に来るよう」に言ったのになしのつぶて・・・

昔は男の子が生まれた時は「でかしました」と言われたものですが
今では娘がいる方々の方が幸せそうです。

男の子は母親の悩みや愚痴を聞く度量もなく、煩雑な手続きを手伝う気もないようで・・・
仕事が忙しいので仕方がないのかもしれませんが、つくづく娘がいたならばと思いました。

弟までが「今更愚痴ったって何にもならない、もっと吹っ切って前向きに生きろ」と
メールが来ましたわ。
嗚呼、話し相手になってくれる女の姉妹も欲しかった

今夜はたくさんの哀しみが襲ってきて、愚痴の羅列になりましたが・・・

明日は孫たちがやってくる水曜日、賑やかな夕食が楽しみです


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秋色のコムラサキ

2014年09月12日 | 私の呟き

我が家の玄関先に置かれた鉢植えの「コムラサキの実」が色付きました。

主人が入院してまだ元気だった2日目に、看護婦さんを通して「ムラサキシキブに水をやってくれ」と
伝言電話があった「コムラサキ」・・・

もう一つ、大きな樽に植えている方はお花が咲いた形跡がないので、
今年は大きな実が見られないのは残念ですが(昨年にUPしています)
取りあえず、両方とも枯らさずに済みました。


主人を見送って25日が過ぎました。

告別式はもちろん公の機関への手続きや、組合や保険関係の申請などは
肩に力を入れ必死でやりましたから、涙が滲むことはありましたが感情的にならずに済みました。

疲れたらもっぱらマサージに通いましたが・・・

それが昨日、公共料金等の引き落とし口座の変更と、カード会社に脱退手続きのTELをかけたら
もうだめ

カードの使用情報の中に主人の行動がリアルに息づいているのです。

入院の前日に車にガソリンを入れ、〇〇電機でケーブルを買っているのが
分かりました。

昨日からホロホロと涙が止まりません


諸々の手続きはまだまだ山積みで、連日のようにお線香をあげに来てくれる方の
お電話も入るのですが・・・

今日はすべてパスして、ご近所仲間のノンちゃんと一ヶ月半ぶりにアクアエクササイズに行き
「今は無理できないので疲れたら休憩する」と先生に言って、ちょこっと身体を動かしてきました。

そして2人でランチ、久しぶりにパスタを美味しくいただき
帰宅後にはこうしてブログに思いのたけを記しています.

自分の中で感情が爆発しました。


主人の入院中から咲きだしていた「デュランタ・宝塚」
主人が忙しい仕事から帰って、しばし癒しに手入れをしていた姿が思い浮かびます。

彼が入院してからあっという間に草だらけ
これらたくさんの鉢植えを今後私は守っていけるのか?

お嫁ちゃんは枯らしてしまうよりも、皆様にお分けしてよそ様のお庭で咲かせてもらったらと
勧めますが、それぞれに思い出があり決心が付きません

       

「一人の夜が淋しい」と私が言うのを聞いて、先週は6回も一緒に海外旅行に行っている
親しいご近所仲間が3人、夜の7時半にワインとつまみを持って我が家に来てくれました。

気が付いたら真夜中の1時過ぎ
どっと疲れたけど、良い気分転換になりました。


のんちゃんが持ってきてくれた鳥の丸焼は、小分けして冷凍し
野菜スープや酢の物に入れたりで、私の便利な食材になっています。
とても助かっていますよ

そして今週は短大時代の友人が2人、「ちゃんと食べなければだめよ」と
遠くから食料持参で来てくれて、午後の1時半から夜の9時まで居てくれました。

途中2組、お線香をあげに来てくれた方々がいたのですが、友人ならほっぽっていても大丈夫・・・

一人身の淋しさは増すばかりで、決して薄れるものではありませんが、
そんなひとときだけは忘れられますね。

友人の皆様、ありがとうございます。

私たちは一緒に買い物に行ったり散歩をしたりする夫婦ではありませんでしたから
同じ年頃のそのようなご夫妻を見てもさほど羨ましいとも思いませんが・・・

やはり友人宅でご夫婦の会話を聞いたりしたら、夫の居ない身が堪えるかも知れません
我が家での女子会は大歓迎ですから、これからも時々遊びに来てくださいね。



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主人のエンディングノート

2014年09月04日 | 私の呟き

気が付けば九月に入り、季節はすっかり秋の気配で・・・

あの猛暑の中を連日病院に通い、何が何だか分からないはてに主人は冷たくなって家に戻り
仮通夜・告別式と済ませた日々が、いまだに現実のこととは思えません。


3月に亡くなった父と違い、主人は寸前まで仕事をこなし、社会活動を行っていましたので
仕事や趣味の仲間の皆様も「本当ですか?」と半信半疑でご焼香に来て下さり

私も連日接待に追われ・・・
合間に区役所や年金事務所に行ったり、保険の煩雑な手続きに追われていますが
何だか常に雲の上を歩いているような気分で、フワフワしています。

知り合いの皆様は異口同音に「一番元気だった彼が何故!」と絶句
ARDSという原因不明の怖い肺炎があることを私も今回初めて知りました。

そんなこんなで今はやらなければならないことが山積で、日中はバタバタしていて大忙し
夜は息子が仕事帰りに我が家に寄り、ほとんど毎日お線香をあげていきますが・・・

一人で眠る夜が淋しくて不安で、「これからの私はどうなるのだろう?」と考えると
眠れなくなります。

あちこち電気をつけラジオも点けっぱなしにし
精神安定剤のお世話になることが多くなりました。。。


「俺は77歳まで現役で働き、喜寿の祝いをしてもらった翌日にポックリ逝くのが夢」と
主人は常々公言していましたので、2年前にエンディングノートを買ったことは聞いていました。

そのノートが出てきましたが、まだこれからゆっくり考慮して書くつもりだったのか?
中身は白紙・・・
「延命治療はしない」というところだけに〇が付いていました。

代わりに、2年前にプレーしたゴルフのメンバー表の裏に走り書きで記したメモがはさまっていて
「夫婦喧嘩はしないこと!、77歳まであと8年9ヵ月の日々を大事に過ごしたい」
まず最初に記されていました。

そして77歳が過ぎたら
・癌になっても手術はしない
・何事にせよ倒れても救急車は不要、そのまま逝かせて欲しい(延命治療は一切不要!)
・自分で食事ができなくなったら、そのまま放っておいて欲しい(遺漏はパス)
・良くなる見込みのない、現状維持のための施術はしない
・死に場所はどこでも良いが(家・病院・戸外)、家族の手と費用がかからないようにして欲しい
・葬儀・墓・特に戒名不要!
と、書かれていました。


そんな主人が今年の4月に亡くなった義兄(姉の夫)の、無宗教の葬儀に参加した時
「こういう葬儀も良いなぁ~」と言ったのを、私も息子も聞いていたので、その形式で主人を見送りました。

お坊さんのお経の代わりに「ハーブの演奏者」に来てもらい音楽葬としました。

主人の好きなカーペンターズの曲中心のバックミュージックに息子と孫が手紙を読み上げ
お嫁ちゃんが二日で作り上げた15分間の、主人の71年の人生のスライドショーを
セレモニーホールのスクリーンに映し出しました。

そして参列してくれた親族とごく親しい皆様の献花を受けました。

「シンミリと温かくて良いお別れ会でしたね」と、ご近所仲間からは好評で、
(息子の仕事関係者の参列は断りましたが)唯一来てくれた2人の上司にも褒められたそうで、
息子は満足しているようですが・・・

地方出身のお嫁ちゃんのご両親は最初から最後まで目が点だったそうです


無我夢中で過ごした悪夢のような八月が終わり、ふと鏡を見ると、
髪の毛は伸びてパサパサ、お肌はボロボロ・・・

先日二ヶ月ぶりに美容院に行きカットとトリートメントをしてもらいました。
時々慰めに来てくれるご近所仲間には「内臓だって同じ状態のはず、くれぐれも気をつけてね」と
言われています。

主人の仕事の後片付けもあり、今私が倒れる訳には行きません。
食欲は全くありませんが、せっせと食べるようにしています。

でも・・・
3kg痩せてやつれてしまいましたわ。

主人が入院したあの日から、一ヶ月が過ぎようとしています。
この一ヶ月間は、まるでジェットコースターに乗っているような日々でした。



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慌てて逝ってしまったあなたへ・・・

2014年08月25日 | 私の呟き
お疲れさま、たくさんの思い出をありがとうございました。

(ブログ仲間さんたちから弔電と共に届いたブリザードフラワー)

主人は入院2週間目でついに力尽き、私と息子一家に見守られ旅立ちました。

最初は「抗生物質の点滴で一週間の入院」と言われ
気楽に「空調の効いた涼しい病院で休息だ~」と申しておりましたが・・・
ついに抗生物質が効かず、あっという間に逝ってしましました(涙)

語りかけるとうなずいたり、首を振ったり微笑んだりと
最後まで私たちの言うことは分かっていましたね。

(主人の机の前に貼ってあった自筆の色紙)

「生涯現役でポックリ逝くのが夢、長患いは絶対したくない」が
口癖だったあなた・・・
有言実行を貫きましたね。

でも常に言っていた目標の77歳まではまだ6年もあるので唖然呆然ですよ。

いつも周りを驚かしてくれていたあなた・・・
ハラハラドキドキの結婚生活44年間でしたが、
今思うと平凡ではないスリル満点の楽しい人生でした。
どうも有難う・・・
                        by nao♪
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父の葬儀とハクモクレン、そして香典泥棒

2014年03月25日 | 私の呟き
父が亡くなって丁度一週間が過ぎました。

あの日に咲き出したハクモクレンの白い花びらが
春風に吹かれて散り始めています


暖かい春の陽射しが注いだ昨日・一昨日が見頃だったのでしょう・・・

丁度その2日間が父の葬儀で忙しくて
ジックリと仰ぎ見る時間がありませんでした


関東地方、明日は雨のようなのでそれで終わりになりそうです

見納めのハクモクレンにカメラを向けましたが
今日は風が強くてなかなかうまくはいきません

この所の暖かさで、25日に東京横浜も桜の開花宣言が出ましたね。
ハクモクレンと入れ替えに、今度は桜を楽しみたいと思います


お彼岸中はお寺の和尚様が大忙しで
父の告別式は亡くなってから6日目の24日と、ずい分遅くなりました。

それもどうにか終えてどっと疲れが出ています

この5ヶ月間、毎日のように病院に通い、買い物や洗濯物を届け
医師との面談(これが一番辛かった!)に出向きました。

張り詰めていた気持ちがプッツンしたようです。


母の時はごく内輪での葬儀にしましたが、父はそうも行かず・・・

70才まで勤めていた会社に「死亡届け」を弟が連絡したら、
あっという間に役員やOBにも伝わり

新聞社の取材電話も数件あり、死亡記事が小さく載ったようで
葬儀の参加予定人数が増えました。

私は父の面倒は見ましたが、葬儀は弟夫婦に任せました。
そういうイベントではとても頼りになる義妹
当日も仕切り屋力を大いに発揮してくれました。


今回は弟の会社からも何人か参列するとかで
「私の田舎(弘前)では、ちゃんとした葬儀の時の喪主夫人は当然着物です」
「私とT子(長女)は二日間とも着物を着ますが、義姉さんどうしますか?」

う~~ん、どうしよう


せっかく持っている喪服、母の告別式の時に1回着たきりではもったいないし
”父の葬儀に着なくていつ着るの”と・・・

結局私も2日間、慣れぬ着物で通しました
ですから余計に疲れたのかも知れませんね。

でも着物を着たことで、皆さまから戴いたお香典が守られました。
一体、どういうこと


こちらがお花で飾られた父の祭壇です。
至ってシンプルですが、この両側に親族と会社関係の生花が並びました。

孫娘の奈菜ちゃんがインフルエンザに罹り、
残念ながら葬儀には出られませんでした

50人近くの親族が集まった先月の主人の兄の葬儀に比べると
親族席がなんとも淋しい限りで、空席が目立ちます。

そんな中、主人の姉妹兄弟3人が2日間とも参列して
親族席に並んでくれて嬉しかったですね。


「お父さん、会社を辞めて20年以上経つのにたくさんの人が来てくれたよ」
「皆お父さんの事を覚えていてくれて良かったね」

「お父さんは良い上司だったって、後輩達が言ってたよ。嬉しいね」
納棺のときに語りかけたら、涙が止まらなくなりました

弟は喪主の挨拶の中で「仕事一筋の父でした」
「家ではいつも机に向かっている父の背中を見てきました」と話していましたが
5歳年上の私はちょっと印象が違います。


ハイキングやお花見など、会社のアウトドァーの行事はいつも父に連れられて
参加していましたね。

学生時代は学校ではなく、父が属していた会社のテニス部で
私も一緒に練習させてもらいました

今回参列してくださった方々の中には、先方から「naoちゃんですか?」と
声をかけてくださる方が何人かいました。

転勤で行った新潟(その時私は小中学生)や、山口(高校時代)での
50年以上前の思い出話もたくさん出ました。


24日の告別式の朝、私と義妹は着物の着付けをするために
早めにメモリアルホールに行きました。

出張の着付け師さんに何気なく「父の葬儀の案内が新聞に載ったせいか?」
「思いがけず大勢の方々が参列してくれて、父も喜んでると思います」
と話したところ

「そういう場合、香典狙いの空き巣が入る危険性大ですよ」
「くれぐれも現金は家に置かないように」と、真剣な顔で注意されました。
義妹は心配になって、まだ家にいた弟にTELして注意を促したようです。

案の定、すべてを終えて夕方5時過ぎに帰宅したら
家の中がメチャメチャになっていて
どうも金庫の鍵を探し回ったようで、あらゆる引き出しが開けられていたとか

金庫の鍵は弟が肌身は離さず持っていたので、今の所被害は無しのようですが
警察の話ではあとから分かる被害も結構あるそうです。

とんだ災難でしたが、葬儀屋さん経由で頼んだ着付け師さんは
流石にそちら方面の情報が豊富で助かりました。



お彼岸中に母のお墓参りに行き「お父さんを宜しく」
バトンタッチしてきました。
「そちらの世界でも仲良くしてね。喧嘩はしちゃ駄目よ」と・・・

今頃父は母以外にも、親兄弟や大勢の友人たちとも再会している事でしょう


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人生の終末・・・

2014年02月23日 | 私の呟き
日に日に太陽の光が眩しく感じられるようになりましたが
まだまだ雪が残り、風が冷たくて寒さが堪えます。


そんな中、出窓に置いた「君子蘭」の葉の間から
オレンジ色の花が顔を覗かせました


末期の肺ガンで急死した義兄の葬儀の日は
最初の予報では雪マークが付いていて、一体どうなることかと心配しましたが

20日のお通夜は底冷えのする寒い日でしたが、
移動のある翌日の告別式は穏やかなお天気に恵まれホッとしました


世田谷の環八沿いにあるメモリアルホールに到着すると
喪主の甥が「叔父さん、楽しくやりましょう」と声を掛けてきました。

主人は5人兄弟で、我が家以外は皆子供が3人ずつ居ますし
その子らが結婚して伴侶や孫を連れてきて・・・

更に主人たちの従兄妹達も大勢やってきましたから
身内だけでも50人近くの葬儀となり、
「少子化の現代では珍しい」と、葬儀社の方に言われました。


雪に埋もれ、40cmもの分厚い白い帽子をかぶっていたベランダの
鉢植えのパンジーも見事に復活していました。

入院後僅か三週間で亡くなった義兄は、まだ頬がふっくらとしていて
亡くなる3日前まで池波正太郎の本を読んでいたと聞きました。

最後まで読み終わっていなかったその本を兄嫁が棺に入れた時に
涙が止まらなくなりました

享年78歳・・・
まだまだやりたい事が多々あっただろうにと思うと無念ですが
苦しそうにしていたのは最後の二日間だけと聞いて
少し気持ちが楽になりました。


私の実家から持ってきた白い椿の花も咲き出しました。
茶花の侘び助でしょうか・・・?

常々「77歳で喜寿のお祝いをしてもらった翌日にポックリと死にたい」
と申している主人が「兄貴は俺の理想とする人生の終わり方をした」
「俺も70歳を過ぎたからもうガン検診はパス」と呟いていました。


すべてが一段落した昨日はしみじみと昔のアルバムを開いて見ました。

上の写真は昭和55年のお正月に写したもの・・・
息子が小学校の2年生でしたから今から34年前の写真です。

毎年お正月は、主人達兄弟が育った世田谷の実家に全員集合でした。
両親に子供5人とその連れ合い、そして孫が13人の合計25人

義兄は一番たくさん「お年玉」をくれる伯父さんだったから
甥や姪たちも大好きだったように思います。


毎年夏には房総の富浦の民宿一軒借り切って
全員で二泊三日の海水浴にも行きました。

我が家は一人息子なので、特に義兄の家の三姉弟とは良く遊び
面倒を見てもらいました。


今でこそ両親も亡くなり、それぞれ子供たちも大人になり結婚したりで
主人の兄弟が会うのは冠婚葬祭時だけとなりましたが

そんな思い出がたくさんありますから、息子一家をはじめ
お通夜には殆どの甥や姪達が家族を伴い駆けつけました。

精進落しの席はさながらハー君や奈菜ちゃんのハトコ達との
顔見世の場にもなりました。


姑が自分の4姉妹とは晩年も仲良く交流していましたし
両親亡き後兄夫婦が、親戚付き合いもやっていたので
主人の従兄妹達も大勢集合しました。

普段中々会えない方々との交流の場を、義兄が作ってくれたように思えます。
たくさん泣いてたくさん笑ったような葬儀となりました




兄の葬儀の日に、父の事でとても重い決断をしなければならなくなりました。

明日の命も危ないと言われていた父が入院した病院は
「ここは治療して治す所です」と医師が言っただけあって
父は日に日に精気を取り戻しました。

お通夜の前日病院に行くと父は私の呼びかけに微笑んで
「オウ・・・」と応えたのです。

「重い脱水症はだいぶ改善されました」
「ただ中々下がらないナトリウム値を下げるには胃に水分を流すのが一番」
と医師から切り出されました。


向かいのお宅の椿はそろそろ終わりでしょうか・・・

「積極的治療を望まないなら当病院ですることはもうありません」
「施設に迎えに来ていただくか、転院を考えてください」とのこと
結論を翌日までに出すように言われてガ~~ン

親の命を左右する決断を子供が下さなくてはならない現実は惨すぎます

人は自分の最後をどのように望むのか?
エンディングノートに記す必要がありますね。

翌日は義兄の葬儀で私は病院に出向けないので
最後の決断は弟に託し、会社を早退し医師と面談してもらうことにしました。


「父上は意識もあるから」と医師に説得され、彼も私も大いに迷いましたが
肉親の情として「積極的治療」をお願いすることになりました。


病院側が転院先も紹介してくれるというので、弟は安心したようですが
私は父の苦しみがますます増すのではないか?と不安です。

義兄のように70代で突然癌に襲われ、命を落としてしまう人もいれば
90代でも、自然のままで命を全うするのが難しい時代でもあります

この一週間、あまりにも重い命の終末について
たくさん考えさせられ、感情が変になりそうでした。

夫婦共々肩こり腰痛に悩まされ、昨日は大船にある日帰り温泉に行き
ゆっくり入浴してから、40分のマサージを受けましたよ。

今日の日曜日はどっと疲れが出て、TVのオリンピック総集編を
ぼぉ~と眺めて過しました




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