先週後半の5月の陽気がウソのように、今週は冷たい北風が吹いて冬と春が行ったり来たり・・・
三寒四温を繰り返しながら、本格的な「春」は三歩進んで二歩下がりながらやって来るようです。

舞岡公園でオレンジ色の「シナマンサク」を見ましたが・・・
あれから2週間後に我が家の東側に植えてある黄色い「マンサク」が8分咲になりました。

日当たりの良い西側のハクモクレンの足元に植えたクリスマスローズも咲き出しました。
ご近所仲間のノンちゃんから貰った貴重な白が一株あったのですが、今年は見当たらない




このお花は下を向いて咲くので撮影が難しい



春の陽気に誘われて、雑草が目立ちだした庭や畑の草取りや寒肥の補充を頑張り、
家の二階の家具を移動し・・・
ライン仲間とのリモート懇親会に参加するため、Wi-Fi環境の良い2階にPCを移したのですが
置き場所に困り、解体したユニット家具の机を組み立て、背当てのない踏み台代わりに使っていた椅子で
その後もPCに向かっていたら、、、、
21日の日曜日の夜から腰が痛くなり、翌日は更に足まで痛みは広がった

天皇誕生日の火曜日にやって来た息子に、革張りのクッションの良い椅子に取り替えてもらったら
痛みはだいぶ良くなりました。
そんな訳で公園の階段での体力アップどころか、今週は冷やさないようにと大人しく家に籠っています



舞岡公園の小谷戸の里(2月5日)
前回紹介した我が家近くの舞岡公園には福寿草やマンサクが咲き出していて
春の訪れが感じられました。

小谷戸の里の古民家南側には「ロウバイ」も見頃でしたが、その後の春の陽気で
このお花の盛りはすでに過ぎたことと思います。

ロウバイの咲いている横の縁側には華やかなお人形が並んでいました

南側の入り口から古民家の中に入ります。

入った所はうす暗い「土間」で、カマドの存在感が凄い

昭和30年代の前半に、佐渡の伯母の家に遊びに行った時に見たタイルのカマドを思い出します。
もっと明るい南向きで、床はコンクリートの広い土間でしたが・・・

土間の向こうが囲炉裏のある板張りの居間、これも佐渡の家と同じで(伯母の家は倍の広さがありましたが)
家族で囲炉裏を囲み、各自個別の食器が箱に入ったお膳で食事した風景を
私は父の転勤で東京から新潟に引っ越した小学5年の夏休みに、初めて佐渡に行き体験しました。

床の間付きの和室にはお雛様が飾られ、コロナ禍の中での陰鬱な気分が華やぎ



「久しぶりに、私も自分の雛人形を飾ろう


尚、この古民家は明治時代後期の典型的な農家屋敷、東戸塚の品濃町から
1994年にここに移築復元された旧金子邸です。

古民家を後にし「小谷戸の里」を出て水車小屋方面に行くと、大きなレンズを取り付けたカメラを
三脚に立てている鳥撮りおじ様たちがいました。
聞くと「アリスイ」という鳥がいるそうです。あそこ!あそこ!と指さされた先の茂みに
頬がオレンジ色の小鳥が・・・
おじ様たちの数人が、写した自慢の作品を見せてくれました。
私が唯一この公園で撮った鳥は「瑠璃色のカワセミ」のみ


左手の中丸の丘の上に「紅梅が咲いている」と二人連れの女性に聞き、行ってみました。

丘の上にはベンチが3個並んでいたので、斜面の梅を眺めながら一休みです。
持ってきた紅茶と洋菓子を食べ、毎日ラインしているSさんにこの風景と福寿草の画像を送りました。
尚この日見た福寿草は、舞岡公園近くに住むブログ友のひろしさん情報では


一休みしてから登ってきた階段を下り「さくらなみ池」を左手に見て
再び階段を上り、春には桜が楽しめる「バラの丸の丘」に出ました。
この日はお花見の季節の準備で、あちこち工事の車が入っていましたね。
桜の季節の「舞岡公園」も何度か紹介しています。
興味のある方は左の欄の「カテゴリー」の舞岡公園をクリックしてご覧ください。
私は「小菅ヶ谷公園」の駐輪場に戻り、電動自転車で坂の途中にある「生協」で買い物してから
家に戻りました。
約3時間の早春散歩、スマホの万歩計は1万歩弱でした。
私のお雛様
舞岡公園の古民家でお雛様が飾られていたのを見て、私自身のお雛様を何年振りかで取り出しました。
私は母方の祖父母にとって「初孫」でしたので、戦後の何もない時代ながらもお雛様を贈ってくれたようです。

祖父母はお内裏様と三人官女、そしてお道具類の3段のお雛様を用意してくれましたが
その後一段づつ両親が揃えてくれて、小学校入学の頃には6段飾りとなっていました。
今では祖父母から贈られた3段だけを残していますが、今回の雛飾りはお内裏様だけです。

母は三姉妹の末娘でしたが、跡継ぎの長女(札幌の伯母)も親の故郷佐渡に嫁いだ次女(佐渡の伯母)も
子供がなく、私は祖父母(特におじいちゃん)にはとても可愛がられました

正確に書くと、佐渡の伯母は小学生の男の子ばかり3人が遺された家に
後妻に入ったので、佐渡には血の繋がらない従兄が3人いましたが・・・
大正8年生まれの父は東京新橋生まれの新橋育ちでしたが、地方の国立大学で「応用化学」を学んだので
戦地には行かず、北海道のど真ん中にあった「石炭から石油を作る」という夢のような研究をしていた
国策会社に就職しました。
そして学生時代の親友の叔父さんが北大の理学部の教授をしていたので、挨拶に出向いた際
その教授の雑用係として働いていた母を紹介され、私の両親は昭和20年に結婚し
翌年私が生まれた次第です。
※この極内輪のお話は我が家のルーツとして、「息子一家」に残したいと思って記しました

(私がボケる前にね)

ブログを遡って見てみると、父や夫を亡くした7年前とその前年にこのお雛様を飾っています。
7年前の2月にも舞岡公園を訪ねていました

(これを読むと、コロナ禍での日本の医療崩壊の原因の一部が解るような気がします)
古びた私のお雛様ですが、たまには飾ってあげないと可哀想ですね。
早速、庭の梅の花とスイセンを活け、桜餅や雛あられを買って来ようと思っています。