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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

2023年師走 熊本小ネタ集

2023-12-14 17:36:09 | 熊本
消えた風車
 京町台から阿蘇中岳を眺めると手前の俵山の斜面に沿って並ぶ風車がお馴染みの風景だった。ところがいつからか風車が消えた。聞けば、熊本地震で損壊した風車が修復不可能となり全面的に建て替えを行なうらしい。現在、全基撤去され、来年度から建設工事が始まるという。1基当りの性能を増強し、5基に減らして3年後から再稼働の予定だという。


現在の阿蘇中岳と俵山の風景


2019年12月の阿蘇中岳と俵山の風景(この年10月に中岳が噴火。俵山には10基の風車が並ぶ)
素屋根に覆われた宇土櫓
 熊本城宇土櫓(国指定重要文化財)は素屋根に完全に覆われてしまった。年明けにはいよいよ解体工事が始まる。約2年をかけて解体し、その後の再建工事を経て、宇土櫓が再び姿を現すのは10年後。それまでは何とか見たいと願っているが。


素屋根に覆われた宇土櫓
桜のひこばえ
 桜の名所でもある熊本城には倒木の恐れがある老木が多く、現在撤去が進められている。来年度も
150本ほどの桜が撤去される予定だという。行幸坂や監物台周辺の桜吹雪もしばらくは見られないかもしれない。熊本市では補植やひこばえ(切り株から新たに生える芽のこと)によって美観を失わないよう努めて行くとしているが、ひこばえとはまた随分と気の長い話だ。


埋門前の山桜の切株とひこばえ

あの日から50年

2023-11-29 22:38:05 | 熊本
 昭和48年11月29日に多数の犠牲者を出した「大洋デパート火災」から今日でちょうど50年。
 先ずは亡くなられた104名の御霊に謹んで哀悼の意を表します。
 あの日、火災の第一報を聞いたのは当時勤務していた玉名から出張で久留米へ向かう車のラジオでした。出張先でもずっと気になっていて仕事を終えて帰りの車の中でも続報を聴きながら帰ったことを憶えています。以来、「大洋デパート火災」のことは喉に刺さったトゲのような思い出となり一生忘れる事はないと思います。
 社会に出て間もなかった頃、仕事の後の時間を過ごすのは大洋デパートの周辺と決まっていました。会社の同僚と飲みに行ったり、友人と食事に行ったり、喫茶店に行ったりとすべてあの周辺で間に合いました。しかし、そんな店々も昭和51年に大洋デパートが倒産・廃業してから間もなく消えて行きました。今、当時利用していた店は一軒も残っていません。遠い日の青春の思い出となってしまいました。


城見町通り。前方左の高いビルが大洋デパート。昭和30年代。(写真提供:森浩氏)


下通商店街入口のアーチ看板に大洋デパートの名が。(写真提供:森浩氏)

危うし 桜の名所!

2023-11-20 21:54:04 | 熊本
 こんな情報が熊本城のホームページに載っていた。

▼熊本城の桜(丸太)を配布します
 熊本城では、倒木の危険がある桜の撤去を行っています。熊本城は桜の名所として多くの方々に親しまれていることから、撤去により発生した桜の丸太について、活用を希望される方に無償で配布を行います。ご希望の方は、事前申し込みの上、下記の配布期間内に引取りをお願いします。

 この情報を見る数日前、監物台樹木園周辺の桜の木がかなり減っていることに気付いた。「倒木危険」の札が貼られた木が多いことは前から気付いていたが、それらの伐採が進んでいるようだ。試しに加藤神社参拝の帰りに、伐採された木の根っこを数えてみた。埋門の辺りまでで10本を超えている。植樹の計画はどうなっているのだろう。熊本城の桜の季節も寂しくなるかもしれない。


監物台樹木園前の桜

まぼろしの銘菓「さおしか」

2023-11-15 19:00:01 | 熊本
 父が幼い頃(大正時代初期)日参した泰勝寺の長岡家でふるまわれたおやつの中に、新坪井六間町にあった菓子舗・福栄堂の銘菓「さおしか」があったらしい。どんなお菓子だったのかは福栄堂も今はないのでわからなかった。
 ところが先日、熊本情報ブログ「肥後ジャーナル」の2年前の記事に、明治28年創業の老舗和菓子店「福栄堂」が味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという記事を発見した。
 この店が件の「福栄堂」なのか確かめたくて今日訪れてみた。「肥後ジャーナル」の記事のとおり、今日は休業日で閉まっていたので、味噌天神に参拝した後、裏の公園から電話インタビューを試みた。女将さんと思しき年配の女性が電話に出られた。かつて六間町に店を構えていたお店(の後身)なのかや、わが父の思い出の菓子だったこと、それを今でもどこかで作っていないか探していたことなど縷々説明した。それに対し、お祖母様の代から今日までの店の経過を実に懇切丁寧に説明され、店の商品への愛顧に対する感謝の言葉を述べられた。そして残念ながら、今は「さおしか」は作っていないが、合志市須屋の和洋菓子工房・大盛堂さんが同じ製法で「さおしか」を作っておられることを紹介していただいた。
 父が他界して23年。やっと父の思い出の菓子にたどり着いた。後日、大盛堂さんを訪れてみたい。

 「さおしか(小牡鹿)」とは若い牡鹿のこと。万葉集にも度々この言葉が出てくる。
 「さおしか」が詠まれた和歌を一首

   我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
   (わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
   (大意)
    私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。


味噌天神社


わが父が「さおしか」をふるまわれた長岡邸(泰勝寺跡)

長岡家の謡のお稽古に幼い父も末席に侍しており、中でも生涯忘れなかった謡曲「田村」

谷汲観音様のはなし。

2023-11-07 20:19:16 | 熊本
 浄国寺(熊本市北区高平2丁目)の寺宝「谷汲観音」様をしばらく拝観していない。近々お伺いするつもりだが、これまで「谷汲観音」様については何度もブログネタにさせてもらった。その中から主なものをピックアップしてこれまでの経緯を整理してみた。

2010年10月21日
 NHK-BS2にチャンネルを回したら、「男前列伝」という番組の再放送をやっていた。俳優の山本耕史が熊本を訪れて、江戸末期から明治初期にかけて活躍した熊本出身の活人形師・松本喜三郎の作品についてリポートしていた。山本耕史が特に心を動かされたという「谷汲観音像(たにくみかんのんぞう)」。たしかにテレビ画面を通じても不思議なオーラを放っている。いったいこの観音像はどこにあるのかと見ていると、なんと僕が週2、3回はその前を通っている浄国寺というお寺だった。現存する彼の作品は数少ないそうだが、中でもこの観音像は特に貴重なものらしい。一般公開もしているらしいので、これは一度拝んでおかなければ。明日にでもさっそく行ってみよう。

2010年10月23日
 買物のついでに浄国寺に立ち寄り、谷汲観音様とついに対面。ご住職の案内で観音様の前におずおずと進み、両手を合わせて見上げると、ちょうど視線が合う角度になっている。その存在感に圧倒的されそうだ。なんだか観音様はすべてお見通しのような気がして、思わず目をそらしそうになる。
 作者の松本喜三郎は文政8年(1825)の生まれというから、勝海舟や坂本龍馬などと同じ時代に生きた人だ。若い頃から造り物に天賦の才を発揮し、郷里の熊本から大阪に出て、活人形(いきにんぎょう)師として成功を収めたそうだが、この谷汲観音像は、明治4年、浅草において行った「西国三十三ヶ所観音霊験記」という活人形興業で大喝采を博した三十三体の観音像のうちの一つだそうである。喜三郎にとってこの谷汲観音は会心の作だったそうで、晩年、郷里の熊本に戻った際、松本家の菩提寺であった、この浄国寺に寄進したものだそうだ。
 いや、とにかく眺めていると離れがたくなるような不思議なひと時だった。

2011年2月23日
 熊本県伝統工芸館の地下和室で「博多織屋次平展」をやっていた。2年ほど前、NHK福岡局の「博多 はたおと」という星野真里が出演したドラマが印象に残っていたので覗いてみた。展示場にいた四代目次平さんはなんと、あの谷汲観音の着物を修復した方だった。さっそくお話を聴いてみた。松本喜三郎が作った淨国寺の谷汲観音と来迎院の聖観世音菩薩の二つの活人形の着物を修復するのに約2年の歳月を要したそうだ。匠の世界の話には引き込まれてしまう。そう言えば昨年、谷汲観音を観に行った時、住職が着物の修復の話をされたのを思い出した。

2014年10月30日
 松本喜三郎作の活人形「谷汲観音像」に会いたくなり、4年ぶりに熊本市北区高平の浄国寺を訪れた。本堂に上ると、奥様が開口一番、「今、BSで放送していますよ」と仰る。何という偶然、浄国寺を訪問した、まさにその時間、NHKプレミアムで、4年前にNHK-BS2で放送した「男前列伝」という番組の再放送をやっていた。俳優の山本耕史が熊本を訪れて、活人形「谷汲観音像」に強く心を動かされるという内容だったが、僕はその番組を見て初めて浄国寺を訪問したのだった。今日また再放送されることは全く知らなかったので、目に見えない力に動かされたような気がしてならない。そして4年ぶりに拝んだ観音様の表情は、今回もまた「すべてお見とおしだ!」と仰っているような気がした。

2016年10月19日
 前回の参拝からちょうど2年ほど経つので、そろそろまた谷汲観音様をお参りに行こうかと思い、高平の浄国寺さんに電話をしてみる。ご住職が電話に出られたので、ひょっとして地震の被害を受けているのではないかとおたずねしてみると、谷汲観音様はご無事だったとのことでホッとする。ただ、本堂がかなり損壊し、修復工事があと1ヶ月ほどはかかりそうだとのことなので、年末くらいに一度お伺いしてみることにした。

2017年11月14日
 先日、姉が高平の浄国寺近くのバス停で、栃木県からやってきたという若い女性と一緒になったそうだ。その女性は浄国寺の、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」を見に来たのだという。わざわざ栃木県あたりからも見に来る方がいるのかとちょっとビックリ。
 そういえば、昨年、地震の影響がなかったかどうか確かめに浄国寺へ行ってからやがて1年。年内にまた拝観しに行くとしよう。
 そもそもこの生人形「谷汲観音」は、熊本市迎町出身の人形師松本喜三郎が、維新後の明治4年(1871)から明治8年(1875)にかけて、浅草の奥山で興行し、大成功をおさめた「西国三十三所観音霊験記」の中の生人形の一つ。喜三郎にとって最も愛着が強い作品だったようだが、上野の西郷隆盛像などの彫刻で知られる高村光雲は、「光雲懐古談」の中で、谷汲観音について次のように述べている。

 三十三番の美濃の谷汲観音、これは最後のキリ舞台で、中で一番大きい舞台、背景は遠山ですべて田道の有様を写し、ここに大倉信満という人(奥州の金商人)が驚いている。その後に厨子があって、厨子の中より観音が抜け出した心持で、ここへ観音がせり出します。この観音が人形の観音でなく、また本尊として礼拝するという観音でもなく、ちょうどその間を行った誠に結構な出来で、頭に塗傘を冠り右の手に塗杖を持ち左の手にある方を指している図で、袈裟と衣は紗の如き薄物へ金の模様を施し、天冠を頂き衣は透きとおって肉体が見え、何とも見事なもので、尤もこれはキリの舞台にて喜三郎も非常に注意の作と思われます。

2022年6月8日
 しばらくご尊顔を拝していない浄国寺の谷汲観音様。12年前に初めて訪れた時、観音様の表情とともにそのポーズに魅入られた。「西国三十三所観音霊験記」第三十三番の美濃谷汲山・華厳寺には概ね次のようなストーリーが書かれている。

 奥州の金商人である大倉信満は大慈大悲を深く信じており、その霊験か、ある時、文殊菩薩の化身である童子が現れ、霊木の松の木で十一面観音像を造って信満に与えた。信満は京都仁和寺でこの像の供養をした後、美濃垂井までやって来たが、背負った観音像を納めた厨子が重くて動けなくなった。すると厨子の中から観音様が出てきて、ここにゆかりの地がある。あと五里ほど行った辺りに鎮座させなさいと宣う。そこが谷汲という地だった。信満は観音様の大悲の御心に従い、そこに伽藍を建立した。観音像の蓮台の下から湧き出る油によって常灯明を灯し、谷汲寺と号した。

 この話から察するに谷汲観音様は、今まさに厨子から出てきたところで、信満に進むべき方向を指し示している場面なのだろう。だから観音様の視線は信満に注がれており、左手が指し示しているのが谷汲の方向なのだろう。具体的には書かれていない観音様を造形し、谷汲観音と名付けた松本喜三郎のセンスは並外れていると言わざるを得ない。


上天草市に乾杯!

2023-10-30 22:46:19 | 熊本
 今夜のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」は先週に続き熊本県上天草市の旅。
 亡父が若い頃勤務していたのが大矢野島(現上天草市)の上小学校(旧上村尋常高等小学校)。なにしろ昭和10年頃のこと、まだ天草五橋なども架かっていない頃で島々へ渡るには渡船を使うしかなかった。上村尋常高等小は大矢野島のほぼ中心部の小高い丘の上にあるが、父は同僚の先生とともに少し南へ下った、江樋戸港近くの旅館に下宿していた。今はもうないが大宮旅館といったらしく、この旅館に、島の娘を「からゆきさん」として買いに来た女衒がよく泊っていたという。当時はとにかく貧しい寒村で娘を売ったり、子守奉公に出して口減らしをすることが普通に行われていたらしい。「家族に乾杯」を見ながら今の子どもたちは幸せだなぁと思う。大矢野島を中心としてまわりの島々には分教場があったらしく父も時々渡っていたようだ。
 ゲストの杉野遥亮が船で渡った「湯島」は天草島原の乱で天草四郎や森宗意軒らが軍議を行なったといわれ、別名「談合島」とも呼ばれる。近年では「猫島」としても知られる。
 上天草市の天草四郎「生誕400年」記念事業PR特命大使の舞踊団花童によるPV動画「天海」(下参照)のロケが行なわれたのもこの「湯島」である。


上天草市大矢野町・上天草市立上小学校




「瀬戸」のはなし。

2023-10-25 21:22:18 | 熊本
 「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあるが、わが町にも「瀬戸坂」という名の坂がある。
 そもそも「瀬戸」とは何ぞやというと、いくつかの辞書の解説を総合すると
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
ということになるようだ。
 そこでわが町の「瀬戸坂」の由来についてあらためて現地を見ながら確かめてみた。僕が子供の頃から聞いているのは、坂が瀬戸に向かって降りているからそう呼ばれるようになったらしい。というわけでその瀬戸というのがどういうところだったのか。
 瀬戸坂を真っすぐ降りて行くと潮音寺の脇を通って坪井川に突き当たる。この辺りの川はかつては淵になっていて、僕らが子供の頃は夏の絶好の川遊び場だった。一番下の大正7年頃の河川改修前の古地図を見ると、赤い点線の円の中心を貫いているのが瀬戸坂で、その右端の坪井川に接している辺りに「専徳寺」というお寺が見える。これが現在の「潮音寺」なのか経緯は未確認だが、その少し上流で二つに分流していた坪井川が合流している。これが瀬戸と呼ばれるようになった理由に関係しているような気がする。
 この辺の坪井川流域の田畑をかつて「寺原田畑」と呼んでいた。「寺原田畑」はかつて海だったというのが地域住民の常識となっている。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、縄文時代に、まるで和歌にでも出てきそうな地名がつくとは到底思えない。それでは「平安海進」の頃かというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちない。ひとつの仮説としては、海が退いた後、低地が沼沢として残り、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。
 ということから、古地図の坪井川合流点より上流地帯は一面の沼沢だった時代があり、それが合流地点から一本の川として幅が狭まったので「瀬戸」と呼んだのではないか。そんな気がしている。

瀬戸坂



瀬戸坂が坪井川に突き当たる地点(向こう岸から撮った写真)



大正7年の地図における瀬戸坂と坪井川

ジェーンズ邸と水前寺の湧水

2023-09-02 18:14:33 | 熊本
 昨日から新しいジェーンズ邸が水前寺成趣園南側の公園の一角に再公開されたというので今日見に行った。
 ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)とは明治4年、廃藩置県直後の熊本県に招かれて若者の教育をしたアメリカ人である。ジェーンズが教鞭をとった熊本洋学校からは多くの人材が育った。このジェーンズ邸は、当時ジェーンズ一家が住んでいた家で、もともと、現在の熊本県立第一高校がある熊本城域にあったもの。水前寺成趣園の東に移築されていたが、7年前の熊本地震で倒壊し、今回場所を変えて再建されたものだ。ベランダが張り出したコロニアル様式は、映画「風と共に去りぬ」や「大いなる西部」「ジャイアンツ」などを思い出す。また、明治10年の西南戦争をきっかけとして、この建物が日本赤十字社の発祥の地ともなった。なお、映画「ラストサムライ」でトム・クルーズが演じたオルグレン大尉のモデルは、旧幕府軍の軍事顧問だったフランス人のジュール・ブリュネといわれているが、アメリカ人に設定を変えるにあたって、ジェーンズを参考にしたと思われる。ジェーンズはウェストポイント陸軍士官学校の出身で、南北戦争に北軍の将校として参戦し、大尉にまで昇進したという人物だが、トム・クルーズが演じたオルグレン大尉はそのとおりの設定となっている。

 さて、肝心の新しいジェーンズ邸だが、熊本地震で倒壊する前のジェーンズ邸を何度か訪れているので、その風合いの違いに違和感を感じてしまう。建物内部も推して知るべしと思い、今回は入らなかった。これから雨風に曝されながら徐々に風合いも変わっていくのだろう。

新しいジェーンズ邸


熊本地震で倒壊する前のジェーンズ邸

 久しぶりにこのエリアに来たので、ジェーンズ邸の脇を流れる加勢川に沿って水前寺成趣園の表参道まで歩いてみた。川面を眺めていると、夏目漱石が詠んだ句

  湧くからに 流るるからに 春の水(明治31年)

を思い起させる澄んだ湧水が流れている。ブラタモリ「水の国 熊本編」にも登場した鵜渡橋たもとの水神碑に手を合わせ、相変わらず川岸から流れ出す湧水を見ながらひと時を過ごした。


鵜渡橋たもとの水神碑


加勢川の川岸から流れ出す湧水

今日、熊本城で思ったこと

2023-08-31 23:20:32 | 熊本
 今日は午前10時ごろには雨も止んだのでしばらく控えていた散歩をしようと熊本城へ出かけた。平日なので土日祝日に比べれば観光客ははるかに少なかったが、二の丸広場や加藤神社を回る間に何組もの観光客とすれ違った。日本人、外国人半々といった印象だった。
 熊本城を見に来てくださる観光客の皆さんはありがたいのだが、何だか申しわけないような気がしてならなかった。天守閣の遠望は下の写真のとおりだし、お金を払って特別公開コースに入場しても限られたコースしか通れない。大天守には上れるけれど本丸御殿には入れない。熊本地震前「行ってよかったお城」のナンバーワンに評価された頃と比較すると・・・。観光客の皆さんに自信をもって案内できる日が来るのはいつのことだろう。


今日の一・二・三天守の遠望(二の丸広場より)


熊本地震の半年前の一・二・三天守の遠望(二の丸広場より)


本丸御殿で最も格式の高い「昭君之間」※現在入場不可

シーズンごとに開催されていた本丸御殿大広間での宴

「みずあかり」から始まった

2023-08-19 23:35:43 | 熊本
 一昨日の熊日新聞の連載コラム「一筆」に古町案内人の瑠璃さんが、12年前の上村元三さん(上村元三商店店主)との出逢いとその後の交流をユーモラスに書いておられた。
 読みながら、僕もその頃から上村さんご夫妻に懇意にさせていただくようになったことを思い出した。そのきっかけは、2009年10月、熊本城周辺のイベント「みずあかり」を見に行った時、NTTビル前庭の特設舞台で見た少女舞踊団「ザ・わらべ」の不思議な世界に魅了されたことだった。どこのグループだろうと心あたりに問い合わせたりして調べまくったが全然わからない。そのうち彼女たちのことはすっかり忘れていた。翌年、夏も近づいてきた頃、急に思い出してインターネットで情報検索していたら、偶然、上村元三さんのブログに行き当たった。いきなり電話をかけておたずねしてみると、なんと「ザ・わらべ」の一員、あやのさんのお父様だった。どこの馬の骨かもわからない僕に親切に対応していただき、8月に古町の普賢寺で「城華まつり」というイベントが行われ、「ザ・わらべ」も出演するのでどうぞいらっしゃいとご案内をいただいた。その当日、2010年8月8日に初めて元三さんにお会いした。2017年暮れに他界されたお父上の新様にもその時初めてご挨拶したことを憶えている。その時から僕の「ザ・わらべ」サポーター歴が始まったが、上村さんご夫妻にはご懇切なおこころ配りをいただくことになった。


かつての上村元三商店(2013年5月の改装時)

2010年8月8日の「城華まつり」(古桶屋町・普賢寺)

観音坂地蔵菩薩のゆくえ

2023-08-10 20:50:59 | 熊本
 5月下旬、京町の熊本地方裁判所近くの掲示板に京町拘置支所の発信で「観音坂の途中にある地蔵尊を移転または供養を検討しているので、設置の経緯をご存じの方、日頃お世話をされている方はご連絡をお願いします。」という告知が貼られた。京町拘置支所が移転し、拘置支所を解体することになり、擁壁下にあった「地蔵尊」を撤去せざるを得なくなったので設置の経緯を知っている住民に確認した上で取り掛かりたいという趣旨だったようである。結局、経緯を知っている人は見つからなかったようで、先月、観音坂を通りかかったら、既に「地蔵尊」の姿はなく石の祠だけが残されていた。「地蔵尊」はどこへ行ったのだろうと思っていたら、一昨日の熊日新聞に「観音坂菩薩尊」が7月下旬、瀬戸坂下の眞光寺に移されたという記事が載った。拘置支所が眞光寺に引き取りを依頼したようだ。
 眞光寺には4年ほど前、御堂ができた。瀬戸坂は散歩コースの一つなのでこの御堂にはこれまで何度もお参りした。眞光寺は加藤清正公が訪れて境内の庭池に咲くハスを眺めた時に腰かけたと伝わる腰掛石が御堂に納められている。他にも加藤家、細川家から拝領した地蔵尊三体が納められている。今回新たに地蔵菩薩が加わり、一段と賑やかになった。ともかく地蔵菩薩の安住の地が決まってホッとした。


安住の地が決まった地蔵菩薩


眞光寺の御堂


昭和28年から観音坂に坐した地蔵菩薩

宇土櫓を見るのはこれが・・・

2023-08-07 22:09:03 | 熊本
 今年の夏は服喪ということもあってお祭りやイベントにはいまだ一切行っていない。そんな中、熊本城宇土櫓が解体工事のための素屋根組立てがだいぶ進んで、櫓が見えなくなりつつあるという情報があり、夕方慌てて見に行った。確かに櫓は組み立てられた足場の隙間からしか見えなくなっていた。現状でも既に観光の対象ではなくなっていると思うが、もうしばらくすると素屋根で覆い隠されるので再建されてその姿を再び現すのは10年後ということになる。ひょっとしたら僕は宇土櫓の姿を見るのはこれが最後かもしれないと思うと急に愛おしくなった。


今日の宇土櫓


素屋根完成予想図


川瀬巴水が描いた昭和23年頃の宇土櫓

南阿蘇鉄道の全線復旧

2023-07-21 19:56:49 | 熊本
 7年前の熊本地震で甚大な被害を受けた南阿蘇鉄道が全線復旧し、15日、運転が再開された。南阿蘇村復興への重要なマイルストーンとなるだろう。
 思えば南阿蘇村は今から55年前、僕が社会人としての第一歩を踏み出した懐かしい村。トラックディーラーに就職した僕が最初に担当したテリトリーが南阿蘇村(当時は長陽村、白水村、久木野村に分かれていた)だった。熊本地震で崩落した阿蘇大橋も当時はまだ架かっておらず、立野から渓谷へ下って戸下温泉を通り、戸下の七曲がりを連日登ったものだ。高森へと続く道はまだ舗装もされていなかった。多くの人々との出会いもあり、濃密な思い出が残っている。
 中松駅の近くの建設業のオヤジは古いユーザーだったが有名な頑固者。初対面の時から挨拶をしても会釈も返さず、度々訪問したが、ほとんど会話らしい会話はなかった。僕が担当地区が替わり、転任挨拶に行った時、このオヤジがひと言「ご苦労だったな」と言った。涙が出るほど嬉しかった。
 当時の南阿蘇はまだ自家用車はそれほど普及していなかった。小中学生は遠い距離を徒歩で通学していたが、道路が乾くと通る車で土埃がもうもうと上がるし、雨が降ればぬかるんだ道を歩かなければならなかった。当時の小中学生の間で流行っていたのが、通りかかった車に手をあげて乗せてもらう、つまりヒッチハイクである。僕も何度も彼らを乗せて運んだ。今なら絶対ありえない光景だ。
 その他にも忘れられない思い出がいろいろあり、南阿蘇村がテレビのニュースに出ると、遠い昔のことを懐かしく思い出す。


全線復旧した南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道名所 第一白川橋梁

阿蘇の恋歌
 今や阿蘇を象徴する歌となった「阿蘇の恋歌」。この歌が生れたのは戦後間もない頃。作ったのは作詞、作曲ともに熊本の人ではない。昭和23年に阿蘇を旅した福井県の作詞家・松本芳朗さんが詩を作り、後にレコード化のため、青森県出身の作曲家・陸奥明さんが曲をつけた。
2012年5月12日 熊本城本丸御殿 春の宴 ~阿蘇をどり~
振付:中村花誠
立方:こわらべ(あかね・ゆりあ)
地方:藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

阿蘇くぎの花盛り音頭
 これはまぎれもない南阿蘇の唄。「火の国旅情」で知られる作詞:中沢昭二、作曲:岩代浩一のコンビによって作られた歌である。熊本人の僕でさえちょっと声に出すのを憚るくらい、阿蘇の方言まるだしのユーモラスな歌詞だ。
2012年5月12日 熊本城本丸御殿 春の宴 ~阿蘇をどり~
振付:中村花誠
立方:こわらべ(あかね・ゆりあ・みわ)
地方:藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

宇土櫓の勇姿を見られるのもあと・・・

2023-07-07 20:48:57 | 熊本
 熊本城宇土櫓を解体するに当たり、雨風から部材を守るため、櫓の周辺に鉄骨の素屋根を組み立てる工事が進行中です。秋には宇土櫓は素屋根で覆い隠され見えなくなります。その後解体工事が始まりますが、解体の完了は2025年末が予定されています。宇土櫓の再建工事が完了するのは約10年後といわれています。素屋根の組み立てが進みますと宇土櫓の姿は見られなくなりますので、再び宇土櫓がその姿を現すまで10年待たなければなりません。ぜひ解体前の今の姿をご覧になることをおすすめします。


鉄骨の素屋根を組み立てて櫓を覆う工事が進行中


2013.9.21 熊本城本丸御殿 秋夜の宴
作詞:野口雨情  作曲:大村能章
振付:中村花誠
地方:本條秀美と本條秀美社中/中村花誠と花と誠の会
立方:ザ・わらべ(中村くるみ・上村文乃)

通潤橋 国宝指定へ

2023-06-24 21:46:46 | 熊本
 熊本県山都町の通潤橋が文化審議会より国宝答申したことにより、今秋、熊本県では二番目の国宝が指定されることになった。
 小学校の頃、通潤橋や布田保之助の話を先生から聞いた覚えがあるが、今も県内の小学校などでは教えているのだろうか。
 参考のため、戦前の小学校の修身教科書に載っている「通潤橋」の話を下記してみた。


放水時の通潤橋(キロクマさんより)


2008年に訪れた時、撮影した雷雲と通潤橋の写真


▼通潤橋(昭和18年出版 初等科修身より)
 熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水はこの村よりもずっと低いところを流れています。また、緑川に注ぐ二つの支流が、この村のまわりの深い崖下を流れています。
 白糸村はこのように川にとり囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。それで昔は水田は開けず、畠の作物はできず、ところによっては飲水にも困るくらいでした。村人たちはよその村々の田が緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波がうつのを見るにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
 今からおよそ百年ほど前、この地方の総莊屋に布田保之助という人がありました。保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通を便にし、堰をもうけて水利をはかり、大いに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人と一緒に水の乏しいことをただ嘆くばかりでした。
 いろいろと考えたあげくに、保之助は深い谷をへだてた向こうの村が白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみようと思いつきました。しかし、小さな掛樋の水ならともかくとして田をうるおすほどのたくさんの水を引くのはなまやさしいことではありません。保之助はまず木で水道を作ってみました。ところが水道は激しい水の力で一たまりもなくこわされ、固い木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。
 けれども、一度や二度のしくじりでこころざしのくじけるような保之助ではありません。今度は石で水道を作ろうと思っていろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や吹きあげ方などをくわしく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から一滴も水ももらさないようにする工夫には一番苦心しました。そうしてやっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。
 藩の方から許しがあったので、一年八ヶ月を費やして大きな眼鏡橋をかけました。高さが十一間余り、幅が三間半、全長四十間。そうしてこの橋の上には三筋の石の水道が作ってありました。
 初めて水を通すという日のことです。保之助は礼服を着け、短刀をふところにしてその式に出かけました。万が一にもこの工事がしくじりに終ったら、申しわけのため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も保之助の真剣な様子を見て、思わず襟を正しました。
 足場が取り払われました。しかし、石橋はびくともしません。やがて水門が開かれました。水は勢い込んで長い石の水道を流れて来ましたが、石橋はその水勢にたえて相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに水がこちらの村へ流れ込んだのです。
 「わぁ」という喜びの声があがりました。保之助は長い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができあがったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。
 まもなく、この村にも水田の開ける時が来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。
 橋の名は通潤橋と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。