徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ハーンの「夏の日の夢」

2024-06-17 22:23:18 | 熊本
 来年秋に始まるNHK朝ドラはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻のセツをモデルにした『ばけばけ』と発表された。ハーンが五高に勤務した熊本時代のエピソードも描かれるようなので楽しみだ。なかでもハーンの「夏の日の夢(THE DREAM OF A SUMMER DAY)」に描かれている真夏の長崎行は映像化を期待したい。
 1893年7月、ハーンは坪井川河口の百貫港から小舟で沖へ出、散々待たされた蒸気船に乗り換えて長崎へ渡る。ところが長崎のあまりの暑さにほうほうの体で帰ってくるのだが、途中、三角港のホテルでの体験が「夏の日の夢」の題材となった。この時の経緯を友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレン宛の手紙で次のように書き送っている。

 三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、――太陽が蝋燭よりも良いように、長崎のホテルよりもはるかに良いものです。また、とても美人で――蜻蛉のような優雅さがあり――ガラスの風鈴の音のような――声をした女主人が世話をしてくれました。車屋を雇ってくれたり、素晴らしい朝食を整えたりしてくれて、これら全部ひっくるめてわずか四〇銭でした。彼女は、私の日本語を理解しましたし、私に話しかけたりもしました。私は極楽浄土の大きな蓮の花の中心で突然生まれ変わったような気がしました。このホテルの女中たちもみな天女のように思えました――それというのも、世界中で最も恐るべき場所から、ちょうど逃れて来たばかりだったからでしょう。それに、夏の海霧が、海や丘それに遠くにあるあらゆるものを包み込んでいました――神々しく柔らかな青色、そして真珠貝の中心の色たる青色でした。空には夢見るような、わずかに白い雲が浮かんでいて、海面に白く輝く長い影を投げかけています。そして、私は浦島太郎の夢を見たのです。

 ハーンが赴任した頃の熊本は、西南戦争からの戦後復興と近代化が推し進められていた。古来の日本伝統文化に興味を抱いていたハーンはそんな熊本に失望することが多かったという。そんな中でこの浦島屋での体験は美しい思い出の一つだったのかもしれない。


遠く雲仙岳を望む坪井川河口の百貫港


百貫港のシンボル、百貫港灯台




三角西港


「夏の日の夢」の舞台となった三角西港の浦島屋




南阿蘇・高森ノスタルジー

2024-06-14 20:14:44 | 熊本
 今日は月イチ放送の「くりぃむしちゅーの熊本どぎゃん!?」3回目。今回は上田晋也が南阿蘇・高森地区を巡るというので興味深かった。南阿蘇・高森地区は僕にとってトラックディーラーの営業社員として社会人のスタートを切った思い出深い地域。しかし、何しろ56年も昔のことなので、今回上田クンが巡った場所は初めて見るところばかり。ただ、背景に見える街並みの微かな記憶が懐かしさを覚える。今年は何とか昔の思い出を辿りながら南阿蘇・高森地区を巡ってみたいと思っている。


南阿蘇の田園の向こうに阿蘇の山々


かつての国鉄高森線



熊本城の平櫓台石垣の積み直し

2024-06-12 23:11:20 | 熊本
 昨日、熊本城の平櫓(ひらやぐら)台石垣の積み直し工事が始まったとローカルニュースが伝えていた。熊本地震で櫓も石垣も大きく損壊し、5年ほど前から櫓と石垣の解体が行われた。今年3月中旬には石垣の復旧工事に入ったかと思ったら中断していたので、いったいいつから始まるのだろうと思っていた。昨日、たまたま下を車で通ったら工事を再開した様子が見えたので、やっと始まったかと思いながら通過した。
 平櫓は本丸の北東に位置する平屋の櫓(国重要文化財)で、石垣は加藤時代に築かれたと伝えられている。復旧に当たってはモルタル吹き付けや鉄筋の挿入など現代工法を使って石垣内部の耐震補強を行うという。ニュースによれば1日に石5個積むのが精一杯だという。今日と違って重機もなかった清正公の時代、城づくりに携わった先人たちの苦労が偲ばれる。


今年の3月中旬、足場を組んだ時の様子。


熊本地震前の平櫓(平成22年 坂崎健二郎氏画)


   ▼清正公による城づくり・町づくりを唄い込んだ「肥後の通り名」

くまモン15周年に向けて!

2024-06-04 17:15:21 | 熊本
 来年3月にデビューから15周年を迎える熊本県のキャラクター「くまモン」。今、それを記念するロゴ募集や選考が進められている。7月上旬には記念ロゴが決まる予定だという。

 九州新幹線鹿児島ルートの開業による地域振興効果を上げるため、2005年に「新幹線くまもと創りプロジェクト」が立ち上った。その一環として、2010年には熊本出身の脚本家・小山薫堂さんの企画で「くまもとサプライズ」が始まり、そのキャラクターとして創造されたのが「くまモン」。それからやがて15年が経とうとしている。振り返れば、この15年は熊本にとっていろんな意味でサプライズの連続だった。2011年、新幹線開業の前日に発生した東日本大震災。予定されていた開業記念のイベントはすべて中止あるいは延期に。それから1年ほど続いたイベント等の自粛。前途多難を覚悟させる船出だった。その一方で、「くまもとサプライズ」のキャラクター「くまモン」が予想外の大ヒット。観光振興などにキャンペーンの効果が表れ始めた矢先、2016年の熊本地震。さらに2020年から2023年にかけて日本を襲った新型コロナウィルス禍。今まで誰も経験したことのない皮肉なサプライズだった。そんな中、くまモンが生み出した経済効果は累計「1兆4500億円」ともいわれ、類例のない世界的にも有名なキャラクターとなった。これが最大の「くまもとサプライズ」だったのかもしれない。


2011.11.12 熊本県立劇場 平成夢座創立20周年記念 子どもと大人の和洋音楽祭 ザ・わらべとくまモン

2011.2.19 大阪ミナミ・湊町リバープレイス 「くまもと逸品縁日&ミナミあっちこっちラリー」

高瀬裏川花しょうぶ

2024-05-23 20:46:43 | 熊本
 今日は所用で玉名に行ったついでに高瀬裏川の花しょうぶを見に行った。思えば玉名に初めて勤務した昭和46年(1971)裏川沿いの、かつて米問屋だった町家を工場立上げ要員の仮住まいとして借りていた頃から53年という歳月が流れた。
 高瀬裏川というのは、現在の玉名市中心部が肥後高瀬藩だった頃、菊池川流域でとれた米を積んだ平田舟が行き交った運河で、河岸には町屋や蔵が軒を連ねていた。今も往時の風情を感じる町屋が残っている。
 肥後米の積出し港として栄えた高瀬町は、菊池川とその支流の繁根木川の中州にできた商業の町。古代から菊池川河口に開けた港町でもあった。古くから関西、関門、博多方面と交流があったと伝えられる。江戸時代には高瀬藩の御蔵が置かれ、肥後米最大の積出し港となっていた。この港から積み出し大坂堂島へ運ばれた米は「高瀬米」と呼ばれた。
 今ではその役割を終えた運河に花しょうぶが栽培され、毎年5・6月には「高瀬裏川花しょうぶまつり」が行われている。


今年も花しょうぶが綺麗に咲きそろいました


結婚式の前撮りも行われていました


かつての裏川はこんな風景だった?(彦根在住の頃よく訪れた近江八幡市の八幡堀)


帰りに通った田んぼ道はまさに「麦秋」でした

肥後の俵積出し唄

今日の散歩 ~寺原・坪井・内坪井界隈~

2024-05-05 22:41:23 | 熊本
 今日は瀬戸坂を下り、眞光寺の前で右折し、かつて家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入った。家鴨丁を抜けると左折し坪井川に架かる庚申橋に向かう。流長院の裏手の民家の脇で初夏の花「スイカズラ(忍冬)」の花を見つけた。最近、スイカズラの花を見なくなったなぁと思っていたのでちょっと嬉しい発見だった。ジョン・フォードの「荒野の決闘」を思い出して花の香りを嗅いでみたが、あまり匂いはしなかった。
 「荒野の決闘とスイカズラ


スイカズラの花

 庚申橋を渡って右折し、坪井川に沿ってひとつ下流の空壷橋で県道を横切り、坪井1丁目公園でひと休みした。ついでに近くの小泉八雲・坪井西堀端旧居(熊本第二旧居)跡の記念碑を見に行った。今は邸の痕跡もなく道路を挟んだ向かいにあった八雲ゆかりの東岸寺跡地蔵堂も数年前に撤去された。公園近くの民家の庭に「マツリカ」の花が満開になっていた。わが家にも10年ほど前に友人からもらったマツリカがあるのだが、近年咲かなくなっていたが復活の兆しあり。


マツリカの花

 散歩の締めはやっぱり「夏目漱石内坪井旧居」。今日は建屋には入らず庭を見て回った。寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」の中に次のような一節がある。この内坪井の家の様子を書いたもので

――庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。――

 とある。今では建仁寺垣の替わりにサザンカの生垣が設えられ、生垣の向こうには熊本中央高校の校舎や民家が立ち並んでいる。


夏目漱石内坪井旧居の庭より屋敷を眺める

城彩苑の賑わい

2024-05-02 20:43:08 | 熊本
 今日は少し距離を伸ばして熊本市民会館辺りまで歩いた。帰りは熊本城の観光施設「城彩苑」 を通り抜けて二の丸広場へ上って帰った。城彩苑は大型連休中とあって大勢の観光客で賑わっている。そして聞こえてくる会話は中国語がほとんどだった。
 帰ってから夕方のRKKテレビのニュース情報番組「夕方Live ゲツキン!」を見ていると、さっき通ったばかりの城彩苑の話題が取り上げられていた。
 それによると、城彩苑の来場客数が過去最多になったという。昨年3月から1年間の売り上げが、前年比では155%、コロナ前の2019年よりも140%だという。来場者数は前年から68万人ほど増え、過去最多の226万2000人、店舗の販売高は去年の1.5倍以上と過去最高を記録したそうだ。好調の要因は、台湾からの観光客の増加だそうで、TSMCの進出効果もあるのだろう。海外からの団体客の4分の3ほどは台湾からで、タイなど東南アジアからの観光客も増えているという。また円安の影響で客単価が増えたそうだ。こうした状況のなかで懸念されるのがやはり「オーバーツーリズム」。食事の予約が取れないという状況も出ているようで、これからさらに観光客が増えることを想定した対策が求められるという。


熊本地震から8年

2024-04-14 20:48:02 | 熊本
 今日で熊本地震の前震からちょうど8年。2日後の本震ももちろん凄かったが、前震もほとんど同程度の揺れで生まれて初めて経験する激震だったのでより印象深い。本震時はある程度の覚悟ができていたように思う。前震は夜9時を過ぎていたので翌朝になって初めて被災状況を知ることになったが、わが家から最初に目に入った惨状が下の写真。瀬戸坂を挟んで向かい側に建つF氏宅。西南戦争時の弾痕が残るというこの家は、この辺りでは珍しい「むくり屋根の家」として地元で知られた旧家である。南側が崖になっていて見事な石垣が積み上げてあったのだが、地震によって無残に崩落してしまった。
 8年経った現在の状況と写真を2枚並べてみた。


熊本地震直後のF氏宅(むくり屋根の家)


8年経った今日現在のF氏宅

 自分自身の中でも熊本地震の記憶が風化しつつあることは否めないが、この記念すべき日に当たり、当時のブログを読み返し、記憶を新たにしたいと思う。

≪2016年4月17日の記事≫
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

 下の歌「ふるさと」は嵐の熊本地震復興応援メッセージソングとしても歌われた。
 作詞は熊本県天草出身の小山薫堂さん。
作詞:小山薫堂 作曲:youth case

黒鍬衆とあらしこ

2024-03-19 21:09:19 | 熊本
 日頃ブログを通じてご好誼を賜っている「津々堂のたわごと日録」さんが昨日「黒鍬衆は隠密にては非ず」という記事を掲載された。黒鍬衆と言うのは戦国時代から江戸時代にかけて、専ら土木などの力仕事や汚れ仕事などで武士をサポートしていた軽輩のことだそうである。熊本にもそんな黒鍬衆が住んでいた「黒鍬町」という町があった(下地図参照)。現在は「黒鍬通り」という通り名だけが残っている。
 僕の祖母の生家はこの「黒鍬町」のとなり街で「一番被分(わかされ)町」といった(下地図の赤い点線の辺り)。生前、祖母の口から「黒鍬町」という言葉を何度か聞いたことを憶えている。津々堂さんの記事で「黒鍬町」という町名の由来を初めて知った。
 祖母が嫁いだ先が立田山麓の黒髪村下立田、泰勝寺の隣接地である。わが父が幼い頃、この泰勝寺に住んでいた長岡氏(細川刑部家の一つ)の邸へ、若様の友達として日参していたことは何度もこのブログに書いたが、長岡家には「あらしこ(荒子)」と呼ばれる使用人がいたことが父の備忘録に書かれている。「あらしこ」とは武家の邸で主に力仕事を受け持つ下男のことで、ちょうど「黒鍬衆」の個人版とも言えそうだが、父の記憶では幼い令息や令嬢の見守り役も務めていたらしい。若様と一緒に柿ちぎりをしていて、木登り上手の父が高い木に登っていたところ、巡回して来た「あらしこ」に咎められ、すごすごと降りて来た逸話を父がよく話していたものだ。




白川公園脇の電信柱に残る「被分町」の名残り


3号線から上通へ通じる通り名の一つ「黒鍬通り」


「黒鍬通り」の電信柱に残る「黒鍬町」の名残り

「瀬戸」のはなし。(2)

2024-03-09 22:58:01 | 熊本
 昨日、大浜町の母の生家近くの通りを車窓から眺めながら、「そういえば、この通りも“瀬戸”と呼んでいたっけ」とふと思い出した。着いてから甥との会話の中で確かめると、「昔から瀬戸町と呼ばれている」と言う。
 「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあり、昨年10月には、わが家の近くの「瀬戸坂」の由来についてブログ記事にした。
 そもそも「瀬戸」とは何ぞやという話を繰り返すと
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
と辞書には説明されている。
 ということは大浜町は菊池川左岸の町だから、その辺りで菊池川の川幅が狭まっていたのだろう。現在の地図を見ると確かにわずかに狭まっているように見える。もともと大浜というのは菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つで、加藤清正の時代に始まり細川氏の時代にも受け継がれた干拓事業が、現在のような菊池川を形づくった。(下図参照)干拓を進める上で大浜の辺りで川幅が狭くならざるを得ない地形的な事情があったのかもしれない。
 大浜町は江戸時代から明治初期の頃まで菊池川流域で獲れた「高瀬米」の積出し港として栄えた。江戸前期までは高瀬まで上っていた五百石船も、菊池川の堆積などのため上れなくなり、江戸中期以降になると御倉の米を3キロ下流の大浜まで平田船で運び、大浜で五百石船に積み替えて大坂の堂島を目指したそうである。大浜には今でも往時の廻船問屋の名残りが残っている。下の民謡「肥後の俵積出し唄」に歌われている沖の帆前船に積む光景も、後期にはもっぱら大浜で見られる光景だったのである。

大浜町瀬戸の通り


「高瀬米」の積出し港として栄えていた大浜(大浜外嶋宮住吉神社奉納絵馬)


菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つに過ぎなかった大浜

「高瀬米」の積出し風景を唄った「肥後の俵積出し唄」

今年忘れられない風景(3)

2023-12-21 18:26:26 | 熊本
 3月21日、「古謝美佐子・熊本城島唄コンサート」のラストコンサートが熊本城二の丸広場で行われた。2001年に始まったこのコンサートは、熊本地震や新型コロナなどで中止された年もあったが、20回目を数える今回で幕を閉じることとなった。雨が降りしきる中、「熊本節」「春の唄」「花」「童神」などお馴染みの曲が次々と演奏され、詰めかけたファンから盛んな拍手が送られた。僕は2010年から見始め、今回が10回目だった。その2010年に竹の丸で行われたコンサートも雨が降ったが、この年に初めてゲスト出演した舞踊団花童は今回まで毎回出演し、島唄に踊りを添え、舞台を華やかに盛り上げた。
 演奏曲の中で最も人気が高かったのがやはり「童神」で、ほかに戦時中、この熊本城にあった第六師団に沖縄から徴兵されてやってきた多くの若者たちの心情を唄った「熊本節」などが思い出に残る。島唄ファンの一人としてこのコンサートが終わるのはやはり寂しい。
▼思い出の場面


第20回熊本城島唄コンサート(2023.3.21)ラストコンサート


第18回熊本城島唄コンサート(2019.10.12)


第14回熊本城島唄コンサート(2014.10.17)

   ▼最も人気が高い「童神」

昭和レトロの街 ~子飼商店街~

2023-12-19 22:36:21 | 熊本
 3週間前の話で恐縮ですが、藤崎宮に朔日詣りをした後、久しぶりに子飼商店街を歩いてみたくなりました。午前中だったからか人通りもあまりありませんでした。廃業した店や廃屋も散見されました。僕らが子供の頃の活気溢れたさざめきはもうないのでしょうか。ここは昭和の薫りただよう街としてメディアでもよく取り上げられますが、かつては松雲院通りと呼ばれた通りでした。その名の由来は今も残る松雲院という臨済宗の大きなお寺があったからです。松雲院は細川家の重臣だった松井家の墓所としても知られています。この通りの途中に南に入る小路がありますが、かつての細川刑部邸への入口です。刑部邸が熊本城三の丸に移築された後にはマンションが建っています。明治時代、そんな通りを人力車に乗ったラフカディオ・ハーンや夏目漱石らが毎日、五高(今の熊大)へ向かいました。ここは歴史豊かな通りなのですね。


買い物客や大学生らが通る子飼商店街


午前中だからか人通りも少ない


賑わう時間帯はこんな感じ(10年ほど前の様子)


商店街から南に入る小路がかつての細川刑部邸への入口


通り名の由来になった松雲院


子飼商店街出身の水前寺清子が歌う「三百六十五歩のマーチ」

今年忘れられない風景(2)

2023-12-15 20:27:59 | 熊本
 肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公の廟所があることで知られる本妙寺。この寺のシンボルとなっているのが大正9年(1920)に建てられた正面幅13㍍、奥行6㍍、高さ15㍍、鉄筋コンクリート造りの仁王門(国登録有形文化財)。2016年4月の熊本地震で天井・壁に亀裂が走るなど甚大な被害を被り、地震以来通行できなくなっていた。2年前から始まった修復工事が昨年11月に完了。やっと通行が可能になった。そして今年は4年ぶりに行われた3月の「桜灯籠(はなどうろう)」、そして7月の清正公御逮夜の「頓写会(とんしゃえ)」では熊本地震前年の2015年以来8年ぶりに大勢の市民が仁王門をくぐった。また参道の出店が復活し、夏の一夜を賑わせた。


8年ぶりの頓写会に仁王門をくぐる市民


門前町の参道を続々と仁王門へ向かう市民の群


本妙寺大本堂の灯明と参拝者


2023年師走 熊本小ネタ集

2023-12-14 17:36:09 | 熊本
消えた風車
 京町台から阿蘇中岳を眺めると手前の俵山の斜面に沿って並ぶ風車がお馴染みの風景だった。ところがいつからか風車が消えた。聞けば、熊本地震で損壊した風車が修復不可能となり全面的に建て替えを行なうらしい。現在、全基撤去され、来年度から建設工事が始まるという。1基当りの性能を増強し、5基に減らして3年後から再稼働の予定だという。


現在の阿蘇中岳と俵山の風景


2019年12月の阿蘇中岳と俵山の風景(この年10月に中岳が噴火。俵山には10基の風車が並ぶ)
素屋根に覆われた宇土櫓
 熊本城宇土櫓(国指定重要文化財)は素屋根に完全に覆われてしまった。年明けにはいよいよ解体工事が始まる。約2年をかけて解体し、その後の再建工事を経て、宇土櫓が再び姿を現すのは10年後。それまでは何とか見たいと願っているが。


素屋根に覆われた宇土櫓
桜のひこばえ
 桜の名所でもある熊本城には倒木の恐れがある老木が多く、現在撤去が進められている。来年度も
150本ほどの桜が撤去される予定だという。行幸坂や監物台周辺の桜吹雪もしばらくは見られないかもしれない。熊本市では補植やひこばえ(切り株から新たに生える芽のこと)によって美観を失わないよう努めて行くとしているが、ひこばえとはまた随分と気の長い話だ。


埋門前の山桜の切株とひこばえ

あの日から50年

2023-11-29 22:38:05 | 熊本
 昭和48年11月29日に多数の犠牲者を出した「大洋デパート火災」から今日でちょうど50年。
 先ずは亡くなられた104名の御霊に謹んで哀悼の意を表します。
 あの日、火災の第一報を聞いたのは当時勤務していた玉名から出張で久留米へ向かう車のラジオでした。出張先でもずっと気になっていて仕事を終えて帰りの車の中でも続報を聴きながら帰ったことを憶えています。以来、「大洋デパート火災」のことは喉に刺さったトゲのような思い出となり一生忘れる事はないと思います。
 社会に出て間もなかった頃、仕事の後の時間を過ごすのは大洋デパートの周辺と決まっていました。会社の同僚と飲みに行ったり、友人と食事に行ったり、喫茶店に行ったりとすべてあの周辺で間に合いました。しかし、そんな店々も昭和51年に大洋デパートが倒産・廃業してから間もなく消えて行きました。今、当時利用していた店は一軒も残っていません。遠い日の青春の思い出となってしまいました。


城見町通り。前方左の高いビルが大洋デパート。昭和30年代。(写真提供:森浩氏)


下通商店街入口のアーチ看板に大洋デパートの名が。(写真提供:森浩氏)