徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

五足の靴とおてもやん

2018-10-04 20:27:02 | 文芸
「五足の靴」の中に、俗謡「おてもやん」について語った一節がある。「五足の靴」というのは、明治40年(1907)7月下旬から8月末の間、歌人与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文である。8月15日、一行は阿蘇の栃木温泉から馬車に揺られて熊本へ戻って来るが、与謝野寛が一人、韓国京城で一緒に教鞭をとっていた旧友の松村竜起の招きに応じ、江津湖畔の料亭・勢舞水楼(せんすいろう)へ発熱をおして赴く。二人の他、松村が招いたジャーナリストたちとともに、屋形船で湖上の涼をとる趣向が準備されていた。そこに二人の町芸者がやって来て披露するのが「おてもやん」。その様子は下記のように記されている。「おてもやん」について肥後の古い土謡と書かれているが、この歌詞が永田イネによって作られたのは、明治30年代前半と言われているので、その時点ではそんなに古い唄ではない。しかし、この時代には既に「おてもやん」が熊本でかなり普及していたことがうかがえる。与謝野寛は舟中諸氏の解説で、難解な熊本弁の歌詞を概ね理解できたようだ。
【五足の靴の一部】
 一酌の後庭に下りる。庭の後は直ぐ画津湖だ。紅提灯を吊した屋形船が一艘早くから用意が出来て居る。一同乗る。船は湖心に向つて徐ろに進む。四方の岸は薄暗い、静かだ、静かだ、そよとの音も無い。満天の星が澄徹の水にじつと動くこと無く映る。螢がたわたわと飛ぶ。熊本の市内の暑苦しさに比べると全く別世界だ、人々は「あゝ涼しい」と云ふ言葉を忘れて居る。此時其々の二妓は絃を按じて特に肥後の古い土謡を唄ひ出した。今其一二を録さう。括狐の中の文字は舟中諸氏の註解だ。
 おてもやん あんた此頃嫁入したでは無いかいな。嫁入したこたしたばッてん(したけれど)ごんじやどんが(夫が)ぐぢやッぺぢやるけん(疱面なる故)まあだ盃きせんだッた。村役、鳶役(消防夫)肝煎どん、あんふとたちの居らすけんで(彼人達の居られるから)後はどうなッときやあなろたい。(きやあは接頭語。後の始末は何とか成るであらう。以下の語は一転して景物に叙す)きやあばたまッさん曲らうたい。(川端街の方へ曲り行かむ)ぼうぶらどんたちや(南瓜どもは)尻ふッぱッて(尻を出して)花ざあかり花ざあかり。
 一つ山越え、も一つ山越えて、わたしゃあんたに惚れとるばい、惚れとるばッてん言はれんばい、村の若い衆が張番しとらすけん。(村の若い男が他村の男に我村の娘の子を奪はれまいと警戒して居る故に)追々彼岸も近まれば、くまんどん(熊本)の夜ぢよみよんみやありに、(聴聞参り即ち説教参りに)ゆるゆる話ばきやあ為うたい。(以下一転して女より男の容貌に焦れず、その男の豪著な風俗意気に感ずる旨を云ふ)男振には惚れんばな、煙草入の銀金具が夫が因縁たい(以下拍子)あかちやか、べッちゃか、ちやかちやかちや。
 七日の日が西に落ちて更けてゆく夜の涼しさ骨身に沁む頃、船は勢舞水楼に引返した。


昔の上江津湖(現在の県立図書館裏辺り)