徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

荒木精之-三島由紀夫-行定勲

2008-08-09 13:24:53 | その他
 昨日の熊日朝刊に「荒木精之記念文化功労者」として3名の方が熊本県文化協会の表彰を受けたというニュースが載っていた。荒木精之とは戦後、熊本にあって文芸界のリーダー的な役割をはたした作家である。この新聞記事を見ながら、35、6年前に一度お会いした日のことを思い出した。会社に入って2年目の頃、社内報の担当をしていたが、定番の地元ネタを載せようという話になり、先輩の勧めで肥後の民話がよかろうということになった。そしてその先輩から、ネタは荒木先生に相談してみたらと言われた。その頃は幸か不幸か、荒木先生のことなど全く知らなかったので、いきなりご自宅を訪問した。アポなし突撃というやつだ。熊本市の薬園町にある古いご自宅の格子戸を開けて声をかけると、文士らしく着物姿の先生が現われた。趣旨を説明すると先生は「わかった!」と言って奥へ引っ込まれた。しばらくして戻ってきた先生は一冊の本を手にしていた。「これを使ったらどうか!」一瞬ためらった私に先生は「いいから持ってけ!」それが左の「続 肥後民話集」である。
 それっきり先生にお会いすることはなかったが、その後先生の著作や活動を知るにつけ、なんて無礼なことをしたのだろうと悔やんだものだ。ずっと後になって、あの三島由紀夫が、代表作「豊饒の海」の第二部「奔馬」の執筆に当って、直接荒木先生に会って取材をしたことも知った。先生は81年に亡くなったが、「豊饒の海」の第一部「春の雪」を同じ熊本出身の行定勲監督が映画化したことは奇しき因縁のような気がする。

北京オリンピック開幕

2008-08-08 22:49:18 | スポーツ一般
 今回の北京オリンピックは、正直なところあまり興味がない。理由は簡単、水球に日本が出場しないから、ただそれだけだ。唯一見たいと思っていたのが、チャン・イーモウ監督の演出による開会式のエキシビションだったが、四千年の歴史を誇る中国文化をスペクタキュラーな絵巻物として魅せた演出はさすがだった。まずはチャン・イーモウ金メダル1個というところか。
 とは言いながらも競技が始まると、ついつい見てしまうんだろうなぁ。男子サッカーにはちょっと落胆した。ホントに勝つ気があったんだろうか。どうしてOA枠を使わないのだろうか。外国のチームはなりふり構わず勝ちに来る。トゥーリオでも入れておけば結果は違ったろうに。あと2試合残ってはいるが、どうもアテネと同じ結果になりそうだ。各メディアでは日本の獲得メダル数予想が盛んだが、どうだろう、アテネの半分もいかないのではないか。金が良くて6個、総メダル数が12,3個というところで終りそうな気がする。

米軍カメラマンが見たNAGASAKI

2008-08-07 23:21:02 | テレビ
 今夜NHK総合で放送されたドキュメンタリー「解かれた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」では、広島・長崎の原爆投下直後、米軍カメラマンとして被爆の実態を撮影したジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のことを取り上げていた。名前からしてアイルランド系と思われるが、晩年の顔は、ジョン・フォードの「静かなる男」に神父役かなんかで出てきそうな感じだ。正直この人について今まで断片的な知識はあったが、この番組のようにまとまった形で情報を得たことはない。戦後、大統領専属のカメラマンとして活躍したそうだが、あの有名な、ジョン・F・ケネディ大統領の葬儀で霊柩車に向かって敬礼するJ・F・Kジュニアの写真を撮ったのもこの人らしい。晩年は軍の目を掠めて撮った写真によって母国の「原爆投下の罪」を告発し続けた。自らも被爆の障害に苦しみながら昨年85歳で亡くなったが、その日が奇しくも長崎に原爆が投下された8月9日だったという。番組では、遺志を継いだ息子のタイグ氏が、父の遺品の中から発見した録音テープが紹介されたが、それぞれの写真についてのオダネルの思いが語られており感慨深いものがあった。
 ちなみに彼が2005年にアメリカで初めて出版した写真集の題名が"Japan 1945:US Marines Photographs From Ground Zero" 末尾に"Ground Zero"をあえて付した意味は非常に深い。
下の写真は最も有名な「焼き場に立つ少年」
 既に死んでいる幼い弟をおぶって焼却場にたたずむ少年の、感情を押し殺すように唇をかんだ表情が強烈な印象を残す。オダネルは戦後、この少年の消息を調べ続けたがとうとうわからなかったという。



熊本県立劇場メルマガ

2008-08-07 15:33:28 | その他
 熊本県立劇場(熊本市大江2丁目)では毎週木曜日にメールマガジンを発行しているが、先日その中の「もくようエッセー」というコーナーに寄稿を依頼された。吉崎真美さんからの紹介だった。このコーナーは本来、県内在住の舞台芸術に関わる方々が寄稿されるそうだ。当方は舞台芸術関係者というわけではないが、先般制作した『海達公子ものがたり』の読み聞かせ活動を秋から始める予定だし、昨年は馬頭琴のコンサートをプロデュースしたりしているので、まぁいいかと思い、寄稿した。今日(8/7)付けのメルマガに載せていただいているようだ。
≪内容≫
昭和初期に天才少女詩人と謳われながら16歳の若さで夭折した熊本ゆかりの詩人、海達公子。昭和の激動の中に飲み込まれ、忘れ去られた公子を発掘し、再度メジャーデビューさせたいと願っています。その第一ステップとして、「評伝 海達公子」の著者であり、公子研究の第一人者である規工川佑輔先生の指導を受けながら、公子の生涯と主な作品を紹介するスライドショーを制作しました。当面はこれを使って小中学校や福祉施設等での読み聞かせ活動を展開していきたいと思っています。また、この活動と併せ、ドラマチックな公子の生涯をシナリオ化し、将来的にはドラマ化や映画化をという大それた構想も抱いています。かつて、金子みすゞと並び称された公子が再び、表舞台にカムバックする日を夢見ながら。

なお、熊本県立劇場のホームページの「メルマガ登録」でバックナンバーが読める。
熊本県立劇場ホームページ http://www.kengeki.or.jp/

お見舞い

2008-08-06 20:11:32 | その他
 熊本赤十字病院にYさんを見舞った。ICUから一般病棟に移ったという娘さんからの知らせを聞いて見舞ったがYさんの意識はまだ戻っていなかった。意識回復のためには呼びかけ続けることが効果があるということで、娘さんが、私が来たことを何度も大声で伝えてくれたが反応はない。時々痰が喉につまるのか、むせるような咳が出る。その度に瞼が開くのだが見えてはいないようだ。その時、主治医が様子をのぞきに来た。まだ若い。30代前半といった感じだ。この人が9時間にもおよぶ大手術を執刀したらしい。20数年前、東京に勤務していた時、若手の医師を数名、産業医としてリクルートしたことがある。その中にT大の伊勢原病院で心臓外科医をしていた人がいた。30歳を過ぎたばかりだった。転職の動機を聞いたが、仕事の精神的なプレッシャーと不規則な勤務の連続でそのストレスは尋常ではなかったらしい。Yさんの主治医もおそらく同じような環境にあるに違いない。大変だろうけれどYさんのことをよろしくと願わずにはいられなかった。

日本人の顔

2008-08-04 23:44:52 | その他
 日本人の顔が変わってきたとよく言われる。衣食住の生活様式の変化によるものか、小顔になり、欧米化してきたとか。しかし、一方では個性が無くなってきたようにも思う。特に俳優の顔を見ているとそれを強く感じる。端的な表現をすると、怖い顔がいなくなった。往年の男優・女優には素顔が怖い人がいくらもいた。下に挙げた3人の例でもわかるが、いずれも個性的でパンチが利いている。3人の当時の年齢と、現在、同年代の俳優さんを比べてみるとわかる。今の俳優さんたちが子どもっぽく見えるはずだ。今の若い人たちはたしかにスタイルもルックスもいい。しかし、こと俳優という職業に限って言うなら、必ずしもそれが利点とはなっていないのではないだろうか。ブサイクなオヤジのひがみにすぎないが。


京マチ子「雨月物語(1953)」29歳の時


三船敏郎「蜘蛛巣城(1957)」36歳の時


岸惠子「おとうと(1960)」28歳の時

瓦礫の長崎に立つ少女

2008-08-03 00:17:12 | テレビ
 1945年8月9日、長崎に原爆が投下されてから3ヵ月後の瓦礫の中に立つ少年少女たちを撮った16ミリフィルムのひとコマである。今夜テレビ朝日系列で放送された「原爆 63年目の真実」というドキュメンタリー番組の中で写し出された。アメリカ兵が向けるカメラに健気に微笑む姉弟の姿が強烈な印象を残した。撮影したのはアメリカ戦略爆撃調査団のダニエル・マクガバン中尉。約16分のこのカラーフィルムは米政府が被爆地の悲惨な状況を戦後長い間封印してきたため数年前に発見されたものだそうだ。番組の中でこの姉弟の身元と今も存命であることが判明するのだが、リポーターの石原さとみの前に、この微笑をうかべる少女が腰の曲がった老婆となって表れたシーンでは、この女性の、ひいては被爆者たちの63年間の人生を思い、涙がとまらなかった。

友人の入院

2008-08-01 17:49:27 | その他
 友人が先月18日に倒れ、熊本赤十字病院に緊急入院した。即、手術が行なわれた。9時間にもおよぶ大手術だった。大動脈乖離だった。一時は生死の境をさまよう状態だったらしいが、ICUに入っているため見舞いにも行けない。今日のご家族からの連絡によると、昨日のCT検査の結果では徐々にではあるが症状が改善しているらしい。
 彼とはかつて同じ会社に勤務していた。今から11年ほど前、ほぼ時を同じくして早期退職し、ともにセカンドライフへの道を選択した。業種は違ったが、彼の事業の成功は、自分にとって励みであり、希望でもあった。
 まだ、意識は戻らないが、このまま快方に向かい、再び彼の明るい笑顔を見ることを願ってやまない。