明かりが消えたそのあとで/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根 育・画/編書房/2004年
副題に「20のこわいお話」とあります。
怖い話はともかく、興味をひかれたのは絵描き話「黒ネコの話」。
まさしく絵をかきながらお話を展開するというもの。トミーとサリーの頭文字TとSではじまり、最後は黒ネコ。
家を作りながら窓、煙突をかきながら。
最後、黒ネコというのは少し苦しいおわり。
保育園でやってみましたが、なんとかネコに見えたようでした。
もうひとつオーバヘッド・プロジェクターをつかった「魔女のシチュー」。
シチューに、コウモリの骨、トカゲのしっぽ、ネコの目などなど得体のしれないものをどんどんいれていきます。
「魔女ひとり」(作:ローラ・ルーク 絵:S.D. シンドラー 訳:金原 瑞人/小峰書店/2004年初版)と同じシチュエーションです。
お話にも、いろんな工夫があるというのが理解できました。
絵本でおなじみの出久根 育さんの絵も楽しい。
昔話で三人兄弟、三人姉妹がでてくると、たいていは末っ子が活躍します。
三人目となると子育てもそれほど細かなことに目がいかず、ほっとかれるか逆に過保護になりそうですが、昔話の中ではじつに巧みな存在。ぼーっとしているようにみえても力も知恵もあります。
それにしても兄弟がどのように育ってきたかがでてくる話にはであったことがありません。リアルな視点が徹底的にないのが昔話の特徴でしょうか。
また、おおぜいの兄と妹がでてくると、妹が兄たちを助けますが、その逆はあまりみられません。
もうひとつのパターンは、おじいさんおばあさんのところに、子どもができる話。
それも桃や豆から子どもが生まれ、あっというまに大きくなるので子育ての心配はありません。
そして、いずれも親孝行で?最後はみんなハッピーになります。
親が働き、おじいさんがおばあさんが子育てというのはそれほどさかのぼらなくても見られた光景。保育園がなくても大家族の中で、役割分担をしてきた歴史があります。
親は、子どものため?として、何かと押しつけがましくなりますが、その点おじいさんおばあさんは客観的に子育てができるので、つい前までのありかたは合理的であったのかもしれません。大家族制度の功罪は別として大家族だと子育ての継承も自然です。
貧しいのが当たり前のおじいさんおばさんのところに、子どもが授かるのは象徴で、そこに希望を託していたのでしょう。そして希望がかなえられるのもお話の世界です。
先日のテレビで、デイズニーのシンデレラの実写版が放映されていました。全部見ていたわけではないが、シンデレラが舞踏会にでかけるシーンでは、かぼちゃが馬車に、動物が御者に変身していました。
昔話で人間が動物の姿をしているのは、そのほとんどが魔法か呪いで変身させられているものばかり。それがなにかのきっかけで、もとの姿にもどるというもの。
反対に動物が人間として登場するのは日本のものにはみられるが、外国の昔話ではあまりないようだ。
いっぽうでは、魔法とか呪いで動物に変身させられるというのが日本にはない。
このあたりは宗教観のちがいでしょうか。
グリム童話では本当の動物が人間に変身する話は1話しかないというのですが・・・。
動物昔話/世界の民話7 アフリカ/小澤俊夫・編 中山淳子・訳/ぎょうせい/1999年新装版
人間から見捨てられたロバ、犬、ネコ、オンドリが、音楽隊にはいろうと一緒にでかける「ブレーメンの音楽隊」。動物が音楽という不思議さ。
古代エジプトには、動物昔話ばかりが絵で保存されているという。
その一つに、ロバがハープを、ワニがラウテ?、尾長さるがオーボエを吹いている絵が残されているという。
「ブレーメンの音楽隊」とは登場する動物が違うが、動物が楽器を奏でるという発想は、ずいぶん古くから存在するようである。
古代エジプトといえば、今から何千年も前のこと。
そのほかにも、ライオンが雄ヤギとチェスをやっていたり、きつねがやぎの群れの番をしたり、ねこがあひるを牧場に追っていったり、きつねが子ヤギに踊りの曲を吹いてやったりする絵などさまざま。
パピルスに描かれている絵、残念ながら昔話は記録に残されていないが、何らかの形で口承されていたのかも知れません。
<家>
昔話を聞いたり読んでいるとき、今の暮らしと差があるのをどう受け止めたらいいのかということ。
おばあさんが、川に洗たくにいくと桃がながれてくるのは「桃太郎」のでだし。
川で洗濯するというのが当たり前の生活と洗濯機に入れると自動的に洗たくしてくれる今の生活。
「牛方とやまんば」では、囲炉裏がでてきますが、今では囲炉裏がある家はどのくらいでしょうか。牛や馬が貴重な流通手段とされていた昔。
それに井戸。井戸に映った影がでてくる昔話も多いのですが、今の子に、その光景がイメージできるでしょうか。
この間、ケニアでかまどが活躍している絵本がありましたが、かまどをみることもほとんどありません。
かまどにかけた鍋のなかに、魔物や鬼を閉じ込めてしまう話は、ガス台ではうまくいいあらわせません。
「三枚のお札」のかわや。
便所が屋外にあったというのも、今の子には理解できないかもしれません。
夜は真っ黒といいますが、昔の夜は闇夜。それこそ何もみえない世界。月あかりだけというのを理解するのもむずかしそうです。
「古屋のもり」は、雨漏りが一番怖いと勘違いします。この話を聞いたとき、大分前のことになりますが、わが家では、洗面器やバケツで雨水をうけていたのを思い出しますが、雨漏りも今ではみられないかもしれません。
ただ一方では、世界には電気も水もないところで生活しているおおぜいの人々もいることにも思いを寄せる必要もあります。
さいわいなことに、保育園などで、絵本や紙芝居にふれる機会もおおいようですから、それほど心配する必要もないかもしれませんが、こんな暮らしもあったのを忘れないようにしたいものです。
<靴>
テレビで、フィンランドで、トナカイの毛で作ったという暖かそうな”くつ”が紹介されていました。
お話をおぼえるとき、その場面をイメージしながら覚えなさいといわれるが、さすがに話に出てくる人物の衣装や はきものまではふくまれていないようです。最近読んだ昔話に、遠いところをしめすため、鉄の靴がでてきて、底がぼろぼろになるというのがありました。
昔話のなかの靴では、すぐにシンデレラのガラスの靴を思い起こしますが、グリムの「灰かぶり」では、金の靴で、ガラスというのは映画のイメージでしょうか。そのほかでは、どんなはきものだったでしょうか。
何冊かの昔話絵本をみてみました。
日本のもの(5冊)では、ほとんどがわらじとわかりやすくなっていました。鬼は高下駄というのも、前からのイメージがのこっていて、なるほどとうなずけました。
畑仕事を裸足でというのも。
たしかに畑仕事をわらじでするというのはむずかしそうです。
外国のものでは、グリム昔話の絵本(5冊)。
じつは、布靴をイメージしていたのですが、布ではなく、皮靴のようにみえるのがほとんどです。
グリムの「こびとのくつ屋」では、革をくつの形にきっておくと、翌日にはこびとが作ったくつができていますから、大分まえからくつは革でつくったものがでまわっていたのかもしれません。
しかし庶民まで広くいきわたっていたのかどうかは、疑問がのこるところです。
また、絵本では、男がはいている多くがブーツでえがかれています。実用性を考えると、ブーツのほうがということでしょうか。
イスラムでは、女性の地位が低いように思っていたら、必ずしもそうとばかりいえないようです。
アラビアンナイト(バートン版 千夜一夜物語4 大場正史訳 河出書房)の原注に次のような記述がありました。
回教徒の女性はヨーロッパの女性にくらべ、つぎのような有利な地歩を占めている。
彼女らはいつも自由に父または夫の家を去り、許しがなくとも、友だちを訪ねて、一週間ないし十日間逗留できる(といっても情夫に合うばあいは別である)。
原注とあるので、ここのヨーロッパの女性は、昔の女性ということでしょう。ヨーロッパの女性も、さかのぼればさまざまな制約のもとにおかれていたのかもしれません。
「亭主をだました女房の策略」は、一週間も家をあけた女房が、亭主をうまく丸め込める話。
隣近所の人は、亭主の言い分を無視し、女房の言い分を信用します。
アラビアンナイトでは、若く賢い美しい女性が大活躍する物語が多いようですから、今のイスラム世界で、過激派?が女性を誘拐するなどといったこととは、大分イメージがちがっています。
ロシアの昔話「美しいワシリーサとバーバー・ヤガー」で、バーバーヤガーの生態?を知ることができます。
バーバー・ヤガーは、小屋にやってくる者はだれかれかまわず、ヒヨコのように食ってしまう存在。
小屋はニワトリの足にたっており、垣根は人間の骨。垣根の杭には目玉のあるしゃれこうべがつきさしてあります。
門の柱は人間の足の骨、錠前は長い鋭い歯のついたあごの骨。
このバーバーヤガーには忠実なしもべがいます。
馬も乗り手も、馬具が真っ白なかがやく昼。馬も乗り手も、馬具が真っ赤な太陽、馬も乗り手も、馬具が真っ黒な暗い夜の三人です。
臼にのり、杵でこぎ、ほうきをあとで消しながら移動です。
でもこのバーバ・ヤガーの弱点は神様です。この物語で、神がでてくるとワシリ-サは、無事に家に帰ることができます。
絵本にイメージをあらわしてくれる表紙がありました。
美しいワシリーサとバーバー・ヤガー/おはなしのろうそく4/東京子ども図書館編/1975年初版
「おはなしのろうそく」にありますので、聞く機会もあってもよさそうですが、30分というので、あまり語られないのでしょうか。
メルヘンの深層 歴史が解く童話の謎/森 義信/講談社現代新書/1995年
「ジャックと豆のつる」は、乳をださなくなった牝牛を、市場に売りにいったジャックが、へんなおじいさんにあい、牝牛と豆を交換するところからはじまります。
なぜ牝牛の乳がでなくなったのか、牝牛をそれなりの値段でうれるとふんでいた母親のおもわくをかえりみず、ジャックは、なぜ豆と交換してしまったのか。
搾乳を続け、仔牛を得るためには、種付けをする必要がありますが、この種付け用の牝牛は、ふつう領主が飼育し、それだけの費用をはらわなわければならなかったといいます。ジャックの家には、これを支払うだけの余力がなかったようです。
もう一つは豆。
中世の三圃農法では豆が輪作になかにとりいれられ、豆科の空中窒素固定機能をうまく利用して、地味を保つ工夫がされていたといいます。たかが豆と思いがちですが、豆類の生産のもつ意味は大きかったようです。
当時の豆の重要性を考えると、牛と交換したというのも意味があります。
一方で10ポンドには売れると考えた母親ですが、まだ物々交換があったこともうかがい知れます。
またジャックが仕事をさがしても、雇ってくれる人がいないというのも、当時の若者がおかれた状況でしょうか。
昔話の歴史的背景を考えると楽しみが増すのではないでしょうか。
「細川紙」(小川町・東秩父村)が、石州半紙(島根県)及び本美濃紙(岐阜県)と併せて、ユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、ついこの間。
・紙すく里(日本の民話10 残酷の悲劇/瀬川拓男・松谷みよ子・編著/角川書店/1973年初版)
土佐和紙の祖と仰がれる「新之丞」の伝説です。
伝説とあって、この地の歴史が刻まれています。
新之丞は伊予国生まれ。
土佐が長宗我部から山内一豊がおさめるようになったころ。
新之丞が落人として行き倒れになっていたのを救ったのが、養甫尼という尼。
養甫尼の夫は、兄である長宗我部元親に攻め滅ぼされ、亡き人の菩提をとむらうべき剃髪して尼となっていました。
この養甫尼のところにたよってきたのが、甥の三郎佐。
新之丞は山に自生する楮に目をつけ、紙すきの技術を二人に伝えます。
やがて、養甫尼は黄色、浅黄色、桃色、柿色、もえぎ色、青色(朱膳寺紙)の七色の紙をつくることに成功します。
この地をおさめるようになった一豊は土地の特産として七色紙の生産に力をそそぎます。
ところが新之丞が伊予にかえりたいという意向をしめしたことから事態は一変。
せっかく作った七色紙の秘法が他の国に広まり秘法でなくなってしまうのではないかとおそれた藩の重役は新之丞を斬れと命じます。
この役は、三郎佐でした。
高知県吾川郡いの町、成山・仏ヶ峠の「成山和紙の里公園」には、「新之丞」の碑があるという。また、土佐和紙は、平安時代に書かれた「延喜式」に献上品として名前が出ているといいます。
●「紙すき毛すき」という島根の和紙にかかわる伝説。
上納の半紙を納めていた仁右衛門が、何度納めても粗悪品とされ、何度も却下されしまう。
自分のつくったものではないと役人に申し立てるが、証拠を出せといわれてしまい、引き下がることになります。
納得のいかない仁右衛門は、紙に白髪を目印にすきます。
御上納の紙にけがらわしい髪をすきこむとは不届きだと、打ち首、さらし首になった仁右衛門。
そのご役人は熱病に取りつかれて死んでしまいます。
さらに役人と組んだ大庄屋の屋敷はなぞの出火で丸焼けになり、ひとり逃げ遅れて死んでしまいます。
「和紙」で検索してみると、駿河半紙や静岡の朝比奈紙、越前和紙、丹後和紙などが目につきました。
特別な産業がなかったころ、藩の重要な産業として栄えたであろう和紙の生産。
細川紙だけでなく全国各地にはまだまだ和紙にかかわる伝説や話があってもおかしくなさそうです。
今は少なくなったった和紙ですが、和紙独特の趣は、捨てがたいもの。
時代にあった和紙の需要は少なくないと思うのですが・・・。
イギリス民話選 ジャックと豆のつる/ジェイコブズ作 木下順二・訳 瀬川康男・絵/岩波書店/1986年11刷
日本と外国の昔話の違いの一つが舞踏会のシーン。舞踏会というと日本では明治の鹿鳴館を思い出すが、あまりなじみがない。
古めかしいが男女七歳にして席を同じうせずということわざが生きていた日本では、舞踏会などはもってのほかと考えられていたのかもしれない。
外国でも庶民にとっては縁がないはずだが、昔話ではここを舞台にして、幸せをつかみとることが多い。シンデレラストーリーはいうまでもないが、イギリスにも舞踏会がでてくる「“ねこの皮”さん」と「とうしん草のずきん」というお話がある。
「“ねこの皮”さん」では、父親にきらわれた娘が、台所の下働きをしながら、城の当主が催した舞踏会に出て、当主からみそめられ結婚することに。
「とうしん草のずきん」では、三人姉妹が、父親にどれだけを好きか聞かれ、末の娘は「肉のごちそうに塩が大切なくらい」とこたえるが、父親は「ちっともおれをすいておらん」として、家から追い出されます。末のむすめは、おおきな家に住み込んで、いろいろきたない仕事を引き受け、女中として働くうちに、舞踏会に三度でて、金持ちの息子にみそめられて結婚します。
二つの話は、最後には父親と一緒に、幸せに暮らすという結末。
「とうしん草のずきん」では、結婚式のあとに塩をいれないで作った肉を食卓にだし、塩がどれだけ大切なものかを父親に思い出させるという味な結末です。
ペローのサンドリヨンにでてくる舞踏会のシーンは、ルイ14世のベルサイユ宮殿での舞踏会がイメージされているという。
わたしの昔かたり/宮川ひろ/童話屋/2012年
宮川ひろさんの語りをCDで聞きました。
ネットでも、語りを聞くことができるのですが、生のものとは微妙に違う感じがして、これまでは敬遠していました。
しかし、このCDは雰囲気をよくあらわしているようでした。
収録されているのは、「ねずみ経」、「さると地ぞう」、「せんがりの田」、「ねずみの相撲」、「天から落ちた源五郎」、「大工と鬼六」、「爺さまの湯治」と七つで、「爺さまの湯治」以外はこれまで何回か聞く機会がありました。
語り手によって、雰囲気も微妙に異なり、ゆったりとした語り口で楽しめましたが、こまかな表現のちがいも印象に残りました。
国分寺市で活動されているのですが、お生まれは1923年。児童文学者で、たくさんの作品を発表されていますので、表現にはこだわりがありそうに思いました。
語りの合間に、感動的なエピソードが紹介されていました。
一つは、「さると地ぞう」に関係した遠藤登志子さんの姪御さんにかかわる話です。
姪御さんが、ある日、交通事故にあって、外傷はなかったものの、意識不明になって、意識がもどらなく、医者からは「今夜が峠です」と宣告されたそうです。
この姪御さんは話の好きな子で、遠藤登志子さんがいつも話をされていて、おしまいには「さると地ぞう」を聞かないと帰っていかなかったそうです。
遠藤さんが、不謹慎だとは思ったけれども、「さると地ぞう」を語りだし、この中の歌をうたいだしたら、姪御さんがちょこっと口を開いたそうです。聞こえていると思った遠藤さんが、この掛け詞を何回も何回も、リズムをかえながら語っていたら、姪御さんが「はあっ」と大きく息を吐いて、目をぱっちりあけ、後遺症も残らなかったというのです。
語りは力になるんですね。じーんときました。
もう一つは大工と鬼六。
息子さんの入学式のあくる日、先生がざら紙を四つに切ったのを、一人に十枚わたし、そこに自分の名前を書かせて、名刺交換会をさせたそうです。お友だち十人分の名刺を持って帰ってきたのに感動されたというのです。
ちょっといい話でした。
宮川さんは2018年12月29日、亡くなられました。図書館の企画展示で知りました。「爺さまの湯治」を語ってみたいとおもいながらなかなか自分のものにならないのですが、再挑戦します。
今昔ものがたり/杉浦明平/岩波少年文庫/1995年
何回か聞いたことのある「旅人馬」は、宿に泊まったお金持ちの若者が馬に変えられて、この若者を貧乏な若者が救うというお話ですが、このもとは「今昔物語」にあるというので、岩波文庫の「今昔ものがたり」を読んでみた。
今から900年前に蒐集、編集されたという今昔物語。
「今は昔」ではじまる千を超える短い話のうち、文庫本に収録されているのは40話だけだけなので、なんともいえないが、慣れ親しんだ昔話につながるものは見出すことができませんでした。
今昔物語は当時の社会状況を反映していて、なじみがない衛門府、近衛府といった役所のなまえがでてきたり、武士が力を持ち始めた状況もうかがえます。また泥棒が出てくる話も多く、当時の状況を知ることができます。
当時の役所の給料は米で、このコメが不作で、一向に給料が払われないので、実力行動にでた職員。
しかし、ないものは払えない。
そこで、実力行動を阻止しようと考えたのが、酒をのませて、下痢をするように仕向けるというのが「すわりこみ撃退法」。こんな話は語り継がれてもおかしくなさそう。
「おくびょうものの強がり」では、自分の影におびえる夫婦がでてきて、こんなのも面白そうな話。
強盗が死んだふりをして、寺の釣り鐘を盗む「釣り鐘どろぼう」という話は時代を問わずありそうである。
外国の昔話には、首をきる場面がでてきて、日本の昔話との違いを感じます。
はじめのころはびっくり。直後にハッピーエンドがまっていますが・・・・。
お伽噺で気にすることはないのですが、今の世の中では、残酷な事件も多発しているので心配な面も・・・・。
・世界のはての井戸(世界のはての井戸/新編世界むかし話集1 イギリス編/山室 静・編/文元社/2004年)
娘を助けたカエル。
カエルは、娘の家にいきます。膝の上にのせてもらい、食べて、一緒に寝床に。
カエルは娘に約束を思い出させ、最後にはとうとう首を切ることに。
首を切ると美しい王子が目の前に現れます。
・まことのフエレナンドとよこしまなフエレナンド(ねずの木 そのまわりにもグリムのお話いろいろ/L・シーガル M・センダック・選 矢川 澄子・訳/福音館書店/1986年初版)
王さまと結婚した娘が、”まことのフエレナンド”の首をちょんぎって、その首を元通りにのせるとたちまち傷はいえてしまう。
王さまに「どこでこんなことをおぼえたのか」ときかれて、妃は「このわざならお手のもの」とこたえ、王さまの首をちょんぎることに。
しかし、妃は、頭を胴に乗せなかったので王さまがなくなり、本当に好きだったフエレナンドと結婚する。
先日、ラジオで、紙幣を初めて発行したのは中国明の時代というのがありました。
しかし、宋の時代にも紙幣とよべるものがあったようです。
紙幣が出回るまでは、金貨、銀貨、銅貨が交換機能をもっていました。
紙幣がでてくる昔話はありませんから、こうしたことが昔話の成立時期を示しているようです。
若者がでてくると大抵旅するのが通例ですが、主人公はどのようにして食いつないでいたかはふれられていません。
金貨や銀貨をもって長期間旅すると重くなって危険度もたかまりますが、紙幣が流通していたなら持ち運びも便利で、昔話の展開も別のものがありそうです。(紙幣は紙切れですからよほどの大帝国でなければ通用しませんし、為替機能もないので、紙幣はやっぱり無理か?)
また、外国の話では、耳慣れない通貨の呼び方がでてきますが、聞く側にとってはそれほど重要ではなさそうです。
(子どもに語る北欧の昔話/福井信子・湯沢朱美 編訳/こぐま社)
「小さなおいぼれ馬」(デンマーク)にダーラーという単位がでてきます。ここでは馬の値段を表示しています。
「銅のなべ」(デンマーク)でもダーラーがでてきますが、謝金の額。
「正直な若者とねこ」(アイスランド)では、スキリングという単位。小銭のようです。
(ねずの木/そのまわりにもグリムのお話いろいろ1/L・シーガル M・センダック・選 矢川澄子・訳/福音館書店/1986年初版)
「うかれぼうず」クロイツエルというのは銅貨
「白雪姫」の最後、継母が赤く熱せられた鉄製の靴をはかされ、死ぬまで踊り続けた場面には、魔女裁判の影響があるという。
15世紀前半から18世紀後半まで処刑された魔女は約4万人という(何十万というのは、間違いのようだ)。
魔女は、子どもを煮て食べる、乱交のほか、人間や動物に病気をもたらし、穀物を盗み取る呪術を行い、空中飛行する存在とされていたようだ。
魔女は昔話に欠かせない恐ろしい存在としてでてきても、具体的なものはでてこないので、魔女裁判の魔女とされたものと同じ認識でいいのかはよくわからない。
もっとも、世界各地の昔話を読んでいると、魔女がでてくるのは、ヨーロッパのものが中心なので、やはり裁判の影響か?
悪さはほほえましく、ときには主人公を助けてくれる存在として登場するのをみると、もしかすると、昔話の伝承者は、まやかしの魔女裁判のインチキを見ぬいていた者だったかもしれない。