赤いボタン/写真・文 岡本央/大月書店/2023年
長崎で原爆が落とされたとき、3歳だった竹下芙美さんは、爆心地から7キロ離れた村に疎開していましたが、戦争が終わると長崎にもどります。井戸水を飲み、庭でとれた野菜を食べて育ち、放射能の影響で、つぎつぎに病気にかかり不安がつづいているといいます。
芙美さんは、40代半ばのころ、沖縄の戦争遺跡をめぐり、真実を伝えようとするなら、頭のなかで想像するだけでなく、目で見て、手をふれて、体をとおして体験することが、どれほど大切か学んだといいます。原爆でなくなった人たちの遺品も、どんなちいさなかけらであっても、言葉以上の力をもって、戦争の愚かさ、原爆のおそろしさを語ってくれるはずと、被爆品や遺骨をたくさん収集してきました。
1996年、長崎市の爆心地公園をつくりなおす工事が始まったとき、地面の中から、お茶碗などに台所道具といっしょに、おとなの背骨がでてきました。芙美さんは、市の許可をもらって、工事現場で遺骨や遺品をさがすことにします。朝早くからおそくまで土をほる日、この中に、ボタンやおはじきがあったのです。
芙美さんがあつめた遺品の数々が、写真で紹介さています。ボタンやおはじき、割れたガラス瓶、歯ブラシ、目薬、炭になった着物、溶けてひとかたまりになった鉄くず、焼け土。
原爆が落とされる前、ここにはどんな暮らしがあったか、芙美さんは想像します。
さらに、芙美さんは、「一回言ってだめでも、100回言ってもだめでも、1000回言えば、人は動いてくれる」と、いつも自分にこう言い聞かせているというのにも、流れに掉さすことができない自分に反省です。