子どもたちへ、今こそ伝える戦争ー子どもの本の作家たち19人の真実ー講談社2015年
とりあえず、図書館で目についた本を読むことがほとんどです。作家について知ったうえで読んでいなかったのですが、80歳代前後の方は戦時下どのような体験をしていたのでしょうか。
・「ねんどの神さま」で記憶にのこっている那須正幹さんが、この7月22日になくなりました。那須さんは1945年8月6日爆心地から3キロの地点にいました。
頭と足に軽いけがをしただけといいますが、そのときいっしょにいたおばさんは日傘が燃え、半身大やけどをされたといいます。3歳ですから記憶がないというのもわかるようなきがしますが、そのあとのひどい雨のことはおぼえているといいます。父親も爆心から2キロの校舎で被爆し、教職に戻らず会社づとめをはじめたといいます。お姉さんも動員先の工場で被爆したが、生涯あの日のこと話さなかったという。
・井上洋介さん(1931年ー2016年)は1945年3月10日、東京大空襲にあい、やけだされた人たちの行列の風景をたんたんと描いています。
・田島征三さんは、大阪堺市で3歳のとき機銃掃射をうけ、2年後町が空襲にあったが、別の町に移住して助かっています。
その後住んだ町の廃棄物最終処分場反対運動で、「反対」といえない状況においこまれ、処分場賛成に決まった経験をあげ、「戦争反対」という声も、あしたにあげられるか?と疑問をていしています。
・長野ヒデ子さんの病弱の父に赤紙が来たのは1945年5月8日、4歳のとき。母親は「お父ちゃんまでも戦争にいくのだから負ける。」と思ったそうだ。
1945年8月5日、空爆の予告ビラどおり空襲。
1945年8月15日 死んだような廃人になって父親が帰ってきた。
1946年5月23日、父親が井戸で自死。
父親の出征記録がなく、父親に何があったのか判明しないという。
・かこ さとしさんが、戦車工場で部品をつくっていたときのこと。腹が痛み工場付属の病院で、ただの腹痛といわれ安心したら、戦地にいって盲腸になったら麻酔無しで手術されるといわれ、手術することに。手術してくれた先生は出征して帰ってこなかったこと。
盲腸の再手術で、同室となった水兵(やはり盲腸炎)が、乗っていた戦艦がミッドウエー海戦で沈み、海軍の発表とはちがい、全滅にちかい大敗で、生き残りの水兵の口封じのため、工場に隔離されたことを話してくれた後、憲兵が不意に水兵を連れ去ったこと。
病院でお世話になったおばさんが、隣近所から非国民と罵られ家に石を投げられ、自宅で自死したことにもふれられています。