日々

穏やかな日々を

日野原さん最後のエッセー よど号は人生最大の事件 名物連載「生きかた上手」

2017年08月08日 23時35分37秒 | 
日野原さん最後のエッセー よど号は人生最大の事件 名物連載「生きかた上手」
2017年8月8日 (火)配信共同通信社

 7月に105歳で死去した聖路加(せいるか)国際病院(東京)名誉院長、日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが17年連載していた名物エッセー「生きかた上手」の最終回が載ったシニア女性向けの月刊誌「ハルメク」の9月号が10日、発売される。偶然乗り合わせ、人質となった「よど号ハイジャック事件」(1970年)を振り返る内容で、「人生における最大のターニングポイント」だったとしている。
 事件で4日間も機内に拘束された日野原さんは解放されたとき「月から還(かえ)ってきたアポロ(宇宙船)の乗組員のような気持ちでした」とつづる。事件をきっかけに野心や欲が消え「この美しい世の中のために何かをしたい、と心から思った」と記し、ターニングポイントを「どのように受け止めるかで、人生の意味は変わってくる」と読者にアドバイスしている。
 最後の担当編集者で副編集長の岡島文乃(おかじま・あやの)さんによると、最終回の執筆は5月下旬。当時、岡島さんが見舞いに訪ねると、日野原さんは土産のもなかを少しだけ食べ、「一緒に写真を撮りましょう」と言ったという。
 「生きかた上手」は、88歳だった2000年春に月刊誌「いきいき」(現「ハルメク」)で連載がスタートし、207回まで数えた。初期の連載をまとめた同名書籍は120万部を超えるベストセラーとなり、日野原さんが連載を通じて発信した「人はいくつになっても生きかたを変えられる」というメッセージは大きな反響を呼んだ。
 総務省によると、65歳以上の高齢者人口は現在3300万人を超えるが、連載開始当時は2200万人。「これから本格的な高齢社会に入るという時期で、後半生を不安に思うシニア女性は今より多かった。そうした方々が前向きに生きるための指針になった」と岡島さん。
 日野原さんの死の直後から編集部には読者から「寂しい」「生きる支えでした」といった内容のはがきが数多く寄せられた。書籍の「生きかた上手」は3千部を増刷。
 「ハルメク」9月号では、追悼特集も組まれ、日野原さんの晩年の歩みをたどった。小学校を訪問し、子どもたちに平和や命の大切さを訴えかけたことや、東日本大震災の被災地を慰問した模様などを紹介している。
 「ハルメク」は、通信販売による定期購読のみ。問い合わせは電話(0120)925083。
 ※よど号ハイジャック事件
 1970年3月31日、日航機「よど号」が、赤軍派のメンバー9人に乗っ取られた日本初のハイジャック事件。羽田を離陸後間もなく乗っ取られ、福岡、ソウルで乗客を解放。9人の要求通り、よど号は北朝鮮に到着し、メンバーはそのまま亡命した。
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血圧が上がって良かったこと、持久力がついて、元気が出たこと、

2017年08月08日 23時07分43秒 | 医療情報
血圧が上がって良かったこと、持久力がついて、元気が出たこと。


恐竜、すきだな~
元気が出たので、60kmドライブで行けたよ
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台風の足跡

2017年08月08日 22時52分31秒 | 
わが部屋のエアコンがしゃべる、
「お部屋の温度27度、外の温度39度。」
これは台風前日の温度、
それが台風当日は、「お部屋の温度27度、外の温度25度」となり、
今日は台風2日目「お部屋の温度29度、外の温度25度」で窓を開けて25度の風を入れる。
とてもいい風、部屋中が涼しくなる。しかしやや湿気あり、からっとしてない。
迷いながら洗濯物外に出す。
ところが午後1時半、大雨になる。
通り雨か土砂降りですぐ止む。
洗濯物を外に干したまま出かけたので大慌て。
電話する。
幸い家人が中に入れておいてくれた。
助かった~
夏の台風は長い、かなり居座る。
余波も従って長い。
日本列島、大変。
我が家の台風被害は「ひやひや」で終わったが
各地の大雨の被害は尋常ではない。

ひたすら、復興を
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<東北公済病院>女性の目線で運営評価 グループ結成

2017年08月08日 21時36分21秒 | 地域
<東北公済病院>女性の目線で運営評価 グループ結成
2017年8月7日 (月)配信河北新報

 外部の目線で病院運営をチェックしてもらおうと、東北公済病院(仙台市青葉区)は幅広い年代の女性による評価グループ「Tohoku Kosai Angels(トウホク・コウサイ・エンジェルス)」を結成した。
 宮城県内の公認会計士や企業経営者、団体職員、マスコミ関係者ら20~60代の女性10人がメンバーで、今後大学生も任命する。24日の顔合わせでは早速、「外国人向けの案内はどうなっているか」「授乳室の感染症対策は確保できているか」などの質問が出た。
 メンバーは年3回程度、病院を訪問。「受け付けスタッフの対応は丁寧か」「女性のプライバシーは守られているか」「病棟のセキュリティーは十分か」などの項目を評価する。病院食も試食して、気付いた点をアドバイスする。
 同病院は産科、婦人科、乳腺外科といった女性特有の診療科や女性専用の病棟がある。日本医療機能評価機構や東北厚生局、日本母乳の会などの評価を受けているが、地域に根差した病院の在り方を探るため、グループをつくった。市民による評価組織がある総合病院は珍しいという。
 岡村州博院長は「市民感覚で病院の裏表をしっかり見てもらい、地域住民がストレスなく病院を受診できるよう改善点を挙げてほしい」と話す。
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運動中の心停止、生存率が2倍以上に AEDが普及

2017年08月08日 21時32分17秒 | 地域
運動中の心停止、生存率が2倍以上に AEDが普及
2017年8月7日 (月)配信朝日新聞

 運動中に急に心臓が止まって倒れた人の生存率が、7年ほどの間に2倍以上に高まったことが、大阪府民を対象とした東京女子医科大などの調査でわかった。電気ショックで心停止の状態から回復させる自動体外式除細動器(AED)の普及が進み、周囲の人による救命が効果を上げているようだ。
 府内で2005年から12年までに起きた病院外での心停止事例約5万6千例を分析。うち222人が、ランニングなどの運動中に心臓に問題が起き、心停止状態になっていた。
 倒れたところを目撃された人の1カ月後の生存率は、05年は29%だったが、12年は62%と2倍以上になった。倒れた人のうちAEDで処置を受けた割合は05年の7%に対して12年は62%、胸骨圧迫(心臓マッサージ)などを受けた割合も50%から86%に上昇していた。
 AEDは04年から一般の人も使えるようになり、公共施設やスポーツイベントなどで準備されるケースが増えている。こうしたことが、生存率の上昇につながったとみられる。
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子の病、自分を責め 放射能の恐怖、抱え生きた 「被爆後の生活」

2017年08月08日 12時00分08秒 | 原子力
子の病、自分を責め 放射能の恐怖、抱え生きた 「被爆後の生活」
2017年8月7日 (月)配信共同通信社

 72年前の広島・長崎への原爆投下は、病や遺伝への不安、偏見や差別といった問題を生み、その被害は今も続く。今夏、核兵器禁止条約が国連で採択されたが、非核へ向けた機運は高まらない。国民の多くが被害を過去のことと捉えているからでは、との指摘もある。被爆者が各地で暮らしていることもあまり知られていない。被爆後の生活に焦点を当て、話を聴いた。
   ×   ×
 おなかに命が宿った時、生まれたばかりの子にお乳をあげている時、感じたのは幸せより不安だった。長崎で被爆した高井ツタヱ(たかい・つたえ)さん(81)=名古屋市=は、被爆者であることを家族にも最近まで隠し続けた。子どもが体調を崩すたび、浴びた放射線が頭をよぎる日々。「子どもや孫の代まで、なぜこんな重荷を...」。恐怖は72年たっても消えないどころか、世代を超えて続いている。
 被爆時は9歳。直後から水のような下痢が続いた。「当時は放射能の知識がなかった。原爆なんて言葉も知りませんでした」。原爆が「しばらくは草木も生えないような爆弾」と知ったのは7年ぐらい後だったか。
 中学を卒業後、働きに出た先で同僚の差別に苦しんだ。「被爆がうつる。あんた早く辞めんね」。17歳で男性と恋に落ちたが、相手の母親に「病気のある子が生まれたらどうする」と反対され、身を引くしかなかった。
 「被爆者であることを忘れたい」とゆかりのない名古屋へ移った。勤務先で紹介された男性との縁談が持ち上がると「放射能はそのうち消えるはず」と必死で自分に言い聞かせた。「そんなはずないのに、そう信じたかった」。結婚し、3人の子どもに恵まれた。夫は被爆のことを知らないまま亡くなった。
 家族に打ち明けたのは6年前の3月11日。津波にのまれる東日本大震災の被災地をテレビで見て、あの日の長崎の光景がフラッシュバックした。「また戦争が始まった」とパニックになる高井さん。驚く家族に、被爆したことを初めて話した。女子高生だった孫は不安そうに言った。「私、被爆3世なんだ。子ども産めるのかな」。その言葉に胸をえぐられる思いがした。
 50代の長女は昨年、原因不明の大病を患った。現在も治療は続く。「私のせいかも」という罪の意識を消すことはできない。自分が生きているのが申し訳ないと思う。「被爆者になりたくてなったわけではない。私のような思いをする人を二度と出さないで」
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