絵に関心のある方なら「林武」という名前は必ず聞いたことがあるはずです。本日の作品は「林武」の作品、東京美術倶楽部の鑑定証が添えられている作品です。それだけ当方にとっては林武の作品については入手には慎重を要する作品群ということです。
花 色紙 ガッシュ 林武筆
色紙 共タトウ 東京美術倶楽部鑑定証付(平成30年3月24日)
額サイズ:横440:縦480 画サイズ:横240*縦270
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林 武:(はやし たけし)1896年(明治29年)12月10日~1975年(昭和50年)6月23日)。日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。 東京都出身。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。
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林武の年譜は下記のとおりです。
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年譜
1896年(明治29年)- 12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は水戸派の国学者だった。
1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年(大正9年)- 日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年(大正10年)- 第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年(大正11年)- 妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年(大正12年)- 関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年(昭和3年)-「横たわれる女」制作。
1930年(昭和5年)- 二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年(昭和9年)- 3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年(昭和10年)- 東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年(昭和12年)- 7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年(昭和13年)-「室戸岬風景」を制作。
1940年(昭和15年)- 皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年(昭和17年)-「静物」を制作。
1944年(昭和19年)- 持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間疎開する。
1946年(昭和21年)-「うつむき女」を制作。
1948年(昭和23年)-「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年(昭和24年)-「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年(昭和25年)- 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」を出品。「星女嬢」を制作。
1952年(昭和27年)- 安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年(昭和28年)- 風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。「横向き少女」を制作。
1954年(昭和29年)-「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年(昭和31年)-「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年(昭和32年)-「赤衣の婦人」を制作。
1958年(昭和33年)- 日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」を制作。
1960年(昭和35年)- 5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年(昭和36年)- 9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を集大成した画集が出版される。
1962年(昭和37年)-「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年(昭和38年)- 週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年(昭和39年)- 富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年(昭和40年)- 自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年(昭和41年)-「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年(昭和42年)-「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。
11月 文化勲章受章。
1968年(昭和43年)- 富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年(昭和44年)-「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年(昭和45年)- 富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子を描く。
1971年(昭和46年)- 国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』を講談社より出版。
1972年(昭和47年)- 講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年(昭和48年)-「少女」を制作。
1974年(昭和49年)- 前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年(昭和50年)- 3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で没した。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)。6月28日 野口弥太郎が葬儀委員長を務め葬儀が営まれた。
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武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュッフェなどの影響を見てとることができると言われています。。初期の作品は絵具を薄く塗る傾向が強かったのですが、戦後になってからは絵具を盛り上げて原色を多用するようになっています。
サインは「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記すことが多いのですが、本作品は画中に「武」のサインと押印、さらに押印の下のものは判読できていません。
武が戦後に獲得した絢爛豪華な作風は多くのファン層を取りこみ、おりしも1950年代から60年代にかけて起こった投機的絵画ブームにも乗り、一時期は号あたり20万円という高値で取引されるようにもなりました。当然贋作も多くなり、基本的に鑑定証が必要な画家の一人になっています。本作品には平成30年に発行された東京美術倶楽部の鑑定書が付いています。
林武が晩年に多く描いた薔薇や富士山の絵画は今もって市場では人気が高いのですが、一方で武の代表作とみなされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が武の黄金期であったとする見方も多いようです。
薔薇や富士山にみられる絢爛豪華な作風に違和感を覚える方も多く、逆に婦人像のような筆致が好きな方もおおいのでしょう。
参考作品 「なんでも鑑定団」出品作 2012年02月15日放送
薔薇
評価金額:150万円
本作品は縁があって入手できた作品、当方にて大切にしておきたい作品のひとつです。
やはり鑑定証のある作品は安心してのんびりと愉しめますね。たまにはキチンとした鑑定証のある作品を入手することも必要でしょう。
花 色紙 ガッシュ 林武筆
色紙 共タトウ 東京美術倶楽部鑑定証付(平成30年3月24日)
額サイズ:横440:縦480 画サイズ:横240*縦270
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林 武:(はやし たけし)1896年(明治29年)12月10日~1975年(昭和50年)6月23日)。日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。 東京都出身。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。
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林武の年譜は下記のとおりです。
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年譜
1896年(明治29年)- 12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は水戸派の国学者だった。
1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年(大正9年)- 日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年(大正10年)- 第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年(大正11年)- 妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年(大正12年)- 関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年(昭和3年)-「横たわれる女」制作。
1930年(昭和5年)- 二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年(昭和9年)- 3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年(昭和10年)- 東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年(昭和12年)- 7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年(昭和13年)-「室戸岬風景」を制作。
1940年(昭和15年)- 皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年(昭和17年)-「静物」を制作。
1944年(昭和19年)- 持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間疎開する。
1946年(昭和21年)-「うつむき女」を制作。
1948年(昭和23年)-「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年(昭和24年)-「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年(昭和25年)- 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」を出品。「星女嬢」を制作。
1952年(昭和27年)- 安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年(昭和28年)- 風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。「横向き少女」を制作。
1954年(昭和29年)-「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年(昭和31年)-「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年(昭和32年)-「赤衣の婦人」を制作。
1958年(昭和33年)- 日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」を制作。
1960年(昭和35年)- 5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年(昭和36年)- 9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を集大成した画集が出版される。
1962年(昭和37年)-「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年(昭和38年)- 週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年(昭和39年)- 富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年(昭和40年)- 自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年(昭和41年)-「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年(昭和42年)-「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。
11月 文化勲章受章。
1968年(昭和43年)- 富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年(昭和44年)-「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年(昭和45年)- 富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子を描く。
1971年(昭和46年)- 国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』を講談社より出版。
1972年(昭和47年)- 講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年(昭和48年)-「少女」を制作。
1974年(昭和49年)- 前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年(昭和50年)- 3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で没した。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)。6月28日 野口弥太郎が葬儀委員長を務め葬儀が営まれた。
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武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュッフェなどの影響を見てとることができると言われています。。初期の作品は絵具を薄く塗る傾向が強かったのですが、戦後になってからは絵具を盛り上げて原色を多用するようになっています。
サインは「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記すことが多いのですが、本作品は画中に「武」のサインと押印、さらに押印の下のものは判読できていません。
武が戦後に獲得した絢爛豪華な作風は多くのファン層を取りこみ、おりしも1950年代から60年代にかけて起こった投機的絵画ブームにも乗り、一時期は号あたり20万円という高値で取引されるようにもなりました。当然贋作も多くなり、基本的に鑑定証が必要な画家の一人になっています。本作品には平成30年に発行された東京美術倶楽部の鑑定書が付いています。
林武が晩年に多く描いた薔薇や富士山の絵画は今もって市場では人気が高いのですが、一方で武の代表作とみなされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が武の黄金期であったとする見方も多いようです。
薔薇や富士山にみられる絢爛豪華な作風に違和感を覚える方も多く、逆に婦人像のような筆致が好きな方もおおいのでしょう。
参考作品 「なんでも鑑定団」出品作 2012年02月15日放送
薔薇
評価金額:150万円
本作品は縁があって入手できた作品、当方にて大切にしておきたい作品のひとつです。
やはり鑑定証のある作品は安心してのんびりと愉しめますね。たまにはキチンとした鑑定証のある作品を入手することも必要でしょう。