夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

定窯黒釉印花草花紋鉢

2011-02-23 06:06:50 | 陶磁器
定窯黒釉印花草花紋鉢
化粧箱入
口径216*高台径53*高さ55




本作品は磁器とは思えないほど薄く作られており、指ではじいても覆輪とあいまって金属音のように響きます。思わず鉄板かなにか金属で出来ているのではないかと思ったほどです。




定窯の特色として、逆さまに焼成する伏せ焼き技法を採用した為、口縁に釉薬がのらないことがあります。そのため器の縁部分は、補強も兼ねて金、銀、銅などの覆輪、が嵌められているのが大きな特徴だそうです。

現在復元工事中の東京駅丸の内駅舎の外壁のタイルの目地は覆輪目地というもので、忠実に再現する技術は難しいようですが、なんとか当時のように復元できるようです。


しかしこの覆輪はよく出来ています。どこで継いだか全くわかりません。どのような技法なのでしょうか?




伏せ焼きの技法は、窯内の空間を最大限に利用することで燃料を節約し、また器の変形を防ぐことでコスト削減と生産性の向上に繋がったそうです。




覆輪については、本作品は銅であり、銀から銅になるのは元時代以降と文献には記されています。ただし、この銅の覆輪は近世に取り付けられた可能性があります。しかしながら覆輪には細かい装飾がなされております。緑青でほぼ銅の部分が覆われています。発掘品の可能性も・・・??

定窯は白磁で有名であるが本作品のような黒釉のものが存在し、定黒と呼ばれています。




作品本体の制作年代について後学とします。元時代の頃に製作であれば、非常に貴重な品なのでしょうが・・・。なお、定窯跡の発見は小山富士夫氏によるものである。



宋時代(960-1279)定窯

当時の五大名窯といわれる窯の一つに成長する。それぞれの窯で焼かれた磁器が貢物として宮廷に納められたようになった。

最も質の高い優れた白磁器が造られたのは、北宋時代(960-1127)末期といわれる。木材の不足により石炭を燃料とするようになると炎が短く低い酸化焔焼成となり、釉の微量に含まれる成分が反応して淡く黄みかかった暖かい象牙色の“牙白”と呼ばれる白磁器が生まれた。

また、刻花、印花などの装飾技術も発展し、優美で精巧な質の高い白磁は海外にも知られ、朝鮮半島、日本など東南アジアからインド、トルコの中東にまで輸出されるようになった。

やがて北方の金軍の侵入をうけ戦乱の時代となり、元時代(1271-1368)多くの職人が南方に流れ、定窯は衰退し終結をむかえる。白磁生産の中心は、南に逃れた職人が発展させた景徳鎮窯に移行した。

窯址は河北省曲陽県澗磁村及びその附近にある。素地は細緻な白土で、胎は薄づくり、釉下に彫文や型押し文をあらわしている。

涙痕(るいこん)と呼ばれる釉薬の斑や、薄胎をへたりから防ぐために伏せ焼きを行って、口縁がはげていること(金・銀・銅により覆輪が用いられている)が特徴。黒釉を施した黒定や紅定・紫定を称されるものがあり、金彩を加えたものもある。

定窯の白磁器の装飾技法:劃花、刻花、印花の大きく三種類が発展した。初期の磁器に見られる劃花は、竹片やくし状の道具で乾きかけた器の表面を引っかき、簡単な文様をつける技法である。蓮弁紋などが代表的である。劃花の発展形である刻花は、ヘラなどを使った片切り彫りの事である。斜めに切り込むことで立体的な文様が浮き上がり、切れ味が良く洗練された印象である。定窯の文様装飾の中で最も豊かな表現力をもつのは印花である。北宋中期に始まり北宋末期に成熟した。印花は通常、皿や碗の内側にみられる陽刻型打ちの装飾技法である。花を題材としたものが最も多く鳥等の動物や水波に泳ぐ魚の文様が多く見られる。定窯印花磁器は、宋代の印花磁器を代表するものであり、各地の磁器工芸に多大な影響を与えた。

北宋前半の定窯白磁の彫文様:浮彫り風蓮弁などが中心であったが、後半になると浅い箆彫り風の刻花文に変わってゆく。この時期に特有の流れるような箆彫りで蓮花文が表わされている。薄造りの器は北宋時代後半から南宋時代にかけて上流生活の好みを示すものであり、高台の畳付の部分に釉がかけられているということが貴家の調度にふさわしい作法であった。

(鑑定のポイント):涙痕(釉ながれ:定窯は石炭を使って焼成したので、酸化炎で焼かれ、白釉の色が灰色を帯びた黄色になり、また底に流れた釉がたまに幾筋かあるが、これは所謂文人たちが言うところの「涙痕」である。)、黒点、シャープな器形、鋭くていねいな高台、きめの大変細かい胎土の使用、アイボリーホワイト色の透明釉、釉中の大小の気泡、無貫入。



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