peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

一関市民俗資料館を観る!(その2)2018年11月4日(日)

2018年11月13日 | 博物館/資料館

2018年11月4日(日)一関市民俗資料館(一関市大東町渋民字小林25)が、平成30年11月1日に開館し、公開しているというので観に行ってきました。この建物は、平成24年度まで渋民小学校の校舎だった建物で、現在は1階渋民市民センター2階民俗資料館となっています。展示ホール、展示室、資料室1と2、学習室等があります。昭和30年代を中心とした人々の暮らしや生業の様子を伝える生活用具、農具などを展示して、一関地方のかつての暮らしの様子を紹介する施設です。

https://www.iwanichi.co.jp/2018/10/30/247789/ [民俗資料館が完成 旧渋民小を改修整備 来月1日にオープン 大東(一関):Iwanichi Online 岩手日日新聞社]

「展示室」には囲炉裏(いろり)が造られて「一日の暮らし」が紹介されていました。私が子供時代を過ごした福島県郡山市郊外の農村地帯にある農家の母の生家もほとんど同じでした。私は、父の勤務先の都合で昭和29年には福島市の郊外の村に引っ越したため、囲炉裏のある家とはおさらばしましたが、昭和40年代まではかなり残っていたように思います。

真ん中にあるのは自在鈎(じざいかぎ)と呼ばれていたもので、鍋(なべ)や鉄瓶などを吊して煮炊きしました。上の正面が「横座」と呼ばれていた主人が座る場所で、左側が「かか座」と呼ばれていた主婦などが座る場所でした。右側は子どもたちなどが座る場所で、客があるとそこに座らせました。囲炉裏の木灰の上には、熱い鉄瓶などを載せておく「五徳」と呼ばれていたものが置かれていました。細長い五徳の上で良く餅を焼いて食べたことを思い出しました。

(上)ご飯を炊いた後「くど」と呼んでいた炉から下した炊飯器(「羽釜」と呼んでいました)を載せて置く台。

電気が普及する前は、「石油ランプ」と呼んでいた灯油や菜種油を使った照明器具。芯を調整することで明るくしたり、少し暗くしたりしました。「ほや」と呼ばれた風防ガラスは、すぐ汚れてしまうので、それを磨くのは手の小さい子供の仕事でした。

日常生活の履物は、藁ぞうりや木製の下駄が普通でした。「草鞋(わらじ)」も残っていましたが、少なくなっていたように思います。昭和30年頃に高校生活を送った私は、通学の際、粋がって冬でも朴歯の高下駄を履いていました。雪が積もっている道を歩くときは、歯に雪が詰まってしまうので、時々電柱などに打ち付けて雪を落としながら歩いたものです。

(上(動物の毛皮を裏に使用した「袖なし」。普通は綿を入れたものが多かったと思います。

(上)「どんぶく」と呼ばれていた「寝巻」。夜寝る前などにもよく着ていました。

(上)竹(高)箒、座敷箒。高帚は木の葉などの掃除に今でも使いますね。

 


童話劇『どんぐりと山猫』を観る!2018年11月4日(日)

2018年11月13日 | 映画、演劇、民俗芸能

2018年11月4日(日)石と賢治のミュージアム(一関市東山町松川字滝ノ沢149-1)主催、一関市東山文化祭(長坂会場)実行委員会共催の童話劇『宮沢賢治・どんぐりと山猫』が、東山地域交流センターホールで行われたので、観に行ってきました。(入場無料)。スタジオ・ポラーノという劇団の5名が演ずる童話劇でした。主催者が「入場料無料」で見せてくれるというのに、空席が目立ち残念に思いました。

(上)語り:宮沢賢治役 八木浩司

(下)かねた一郎役:榊 麻由

(下)ピアノ演奏:東 夏子

(上の左)栗の木:青戸則幸

(上)笛ふきの滝:久保木 彩

(上)きのこの楽団:青戸則幸

(上の右)りす:久保木 彩

(上の左)馬車別当:青戸則幸

(上の中)山猫からかねた一郎にきたはがき

(上)山猫

(上)どんぐりたちが「俺が一番偉い」と争う裁判の場

(上)童話劇 宮沢賢治『どんぐりと山猫』の出演者全員(5名)。

 ”おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。”で始まるこの童話劇は、宮沢賢治の同名の童話が原作です。私は今年数え年80歳になりましたが、この童話を読んだのは70年ほども前のことです。たぶん小学校5年生の国語の教科書に載っていたと思いますが、「山猫」がどんなものか知らないので、怖い獣を想像していました。だから、一郎が一人で山の中に居るという山猫に会いに行く場面は心配でたまりませんした。宮沢賢治の童話で「注文の多い料理店」も読んでいたので、余計そう感じたのかもしれません。テレビの無い時代で、たまに村にやってくる田舎芝居(次郎長一家と森の石松など)を見に行くのが楽しみっだたことを思い出します。


一関市民俗資料館を観る!(その1)2018年11月4日(日)

2018年11月13日 | 博物館/資料館

 

2018年11月4日(日)一関市民俗資料館(一関市大東町渋民字小林25)が、平成30年11月1日に開館し、公開しているというので観に行ってきました。この建物は、平成24年度まで渋民小学校の校舎だった建物で、現在は1階渋民市民センター2階民俗資料館となっています。展示ホール、展示室、資料室1と2、学習室等があります。昭和30年代を中心とした人々の暮らしや生業の様子を伝える生活用具、農具などを展示して、一関地方のかつての暮らしの様子を紹介する施設です。

https://www.iwanichi.co.jp/2018/10/30/247789/ [民俗資料館が完成 旧渋民小を改修整備 来月1日にオープン 大東(一関):Iwanichi Online 岩手日日新聞社]

磐井の暮らし~昭和30年代を中心に:人々は牛や馬で物を運び、田畑を耕していました。身の回りの物で道具を作り、住む家を作っていました。家族が助け合い、近所の人たちが力を合わせて暮らしていました。

 山と川、豊かな風土の中で営まれていた磐井の暮らしを再発見してください。

(下)養蚕関係の用具:私は5歳のとき、福島県郡山市郊外の農村地帯にある母の生家に疎開した(昭和19年)こともあって、母の生家で祖母や叔父、叔母などが営んでいた養蚕を見て育ちましたので、養蚕関係の用具等が特に懐かしく感じました。

養蚕農家は、「お蚕さま」と呼んで、蚕を大切に扱っていました。鼠が食うので、猫を飼い、天井板を張った部屋で、暖房などもしていました。

 用具だけ見ても当時の様子を想像することは出来ないと思いますので、もっと写真などで説明していただけたらと思いました。

(上)蚕を飼育する蚕座:蚕桑の葉を与えて、繭をつくる直前まで飼育する所です。蚕が桑の葉を食べなくなり(この状態を「よどむ」と云いました。)繭を作りたがっているのを察知して「まぶし」に移すのですが、間に合わずにここで(まゆ)を作られてしまうこともありました。 

(上)未だ幼齢の蚕には、柔らかな葉を刻んで与えたり、葉だけを摘んで与えたりしますが、終齢期頃には枝ごと与えなければ間に合わないほど食用旺盛になります。

 桑の葉は、屋敷の周りの桑畑で栽培しているものを、一枚ずつ手摘みしたり、最盛期には枝ごと切り取って与えますので、長年養蚕を続けていると、桑の木は瘤だらけの姿になり、葉の出方が悪くなるので、適宜更新するようです。囲炉裏(いろり)には、良く桑の根などがくべてありました。(イロリの熱灰の中にサツマイモを入れて、「焼き芋」がつくられました。とても美味しかったです。)

 桑の葉は、雨に濡れたものは与えない(特に幼齢の蚕には)ようにしなければなりませんので、常に新鮮な桑の葉の備蓄が必要でした。かさばるが、圧縮するわけにもいかないので、大きな竹で編んだ桑籠が使用されました。母の生家には、孟宗竹の屋敷林があり、叔父が鋸と短刀のようなものを使って、こうしたを作っていました。

母の生家でも、このような藁まぶし機を使って、まぶしを作っていました。

(上と下)回転まぶし:このような区画された中に「桑の葉を食べなくなった(終齢の)蚕」を入れ、(まゆ)を作らせます。たまに同じ区画に2匹が入ってしまい、くっついた繭をつくることもあります。