peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

道の駅「平泉」のポインセチア 2022年12月17日(土)

2022年12月26日 | 気候、天気、季節の風物詩





2022年12月17日(土)、昼食を摂るために訪れた道の駅「平泉」の花苗売場に真っ赤に色づいた苞葉を沢山付けたポインセチアが展示販売されていました。







枯れない美しい観葉植物6選 2022年12月  日( )

2022年12月26日 | 気候、天気、季節の風物詩

枯れない美しい観葉植物6選© Refresh Lifestyle JP 提供 

こんな素敵な家具とたくさんの植物がある部屋は、単純に美的だと思います。都会のジャングルのような雰囲気で、自分の壁の中に自然を感じることができます。それは、あらゆるものを インスタ-物語を芸術作品にさらに、緑の仲間たちがもたらす 多くの利点がある を添えて。ストレス解消やリラックス効果、集中力を高める効果があります。さらに、空気の質を良くし、気分を高めてくれます。だから、家の中の空いている場所にはすべて植物を植えるべき理由があるのです。
しかし、誰もがグリーンの才能を持っているわけではありません。特に若い人は植物に疎いことが多く、また長時間外出することも多い。今までの植物を見事に枯らした?茶色く枯れた植物の残骸に囲まれて生活する必要はありませんよ。ここでは、枯らしてはいけない6つの植物(と、それを幸せに保つためのいくつかのヒント)を紹介します。

1.アイビー(ヒップスター植物

面白い名前の植物が目を引きますね。ハート型の緑色の葉には、白や黄色の模様が入ることもあります。クライミングハンギングプランツとしても利用できます。戸棚や棚からカーテンのように垂れ下がるように生えたり、吊り鉢から生えたりすると、特にきれいです。
アイビーは明るい場所から半日陰を好み、また浴室内の高い湿度にも耐えることができます。土は均一に湿らせておくことが望ましいですが、しばらく水を与えないことも許します。ただ、水に浸かってはいけない。これらの基本的なことを管理し、また何か良いことをしたいのであれば、時々肥料をあげるとよいでしょう。ツタは日常生活の中で質素な存在です。


2.ユッカ(Yucca) – 丈夫なもの

ユッカパームリリーは、ヤシの木とは全く違いますが、おそらく最も要求の少ない植物の一つでしょう。逆に、水やりを忘れるよりも、頻繁すぎる水やりの方が嫌われる可能性が高いのです。土が完全に乾いてから、もう一度水をやります。春と夏は週1回、冬は月1回でも構いません。ユッカは日光を好むので、簡単にお部屋をグリーンの雰囲気にすることができます。

3.モンステラ – 歌姫

モンステラ(あるいはあまり仰々しくないウィンドウリーフ)は、エレガントさではほぼ無敵です。大きな葉に入った切れ込みが優美な印象を与えます。土が乾かない程度に定期的に水やりをする程度で十分です。月に一度、液体肥料を少し与え、年に2~3回、葉の手入れをするとよいでしょう。もし、女性に特別なお願いをしたいのであれば、時折、少量の水を吹きかけてあげてください。

4.グリーンリリー(シンプルなもの

観葉植物の中でも定番のグリーンリリー。シンプルで細長い葉からは、ユーモアがさりげなく感じられる。日向でも日陰でも、どこにでも植えられます。春と夏には定期的に水やりをし、土が常に少し湿っている状態を保つようにします。冬は長期の乾燥にも耐える。だから、家でのクリスマス休暇も問題ない。

5.ボウ・ヘンプ – THE INDEPENDENT

この工場は完全な自給自足です。自立しているので、ほとんど必要ありません。もともと砂漠地帯が原産地なので、暖かく乾燥した場所を好みます。水やりは、必ず土が完全に乾いてから行ってください。何週間忘れていても、気にせず育てていくことができます。また、砂漠が原産地なので、直射日光の当たる明るい場所を好みます。

6. カクタス – クラシック

そして最後に、ハードコアなプラントキラーにもお勧めの定番商品をご紹介します。しかし、そんな砂漠の植物水やりが欠かせません。水やりの回数を減らして、代わりに土全体に染み込ませてあげるとよいでしょう。良いものは水につけないようにしてください。それはトゲウオの死刑宣告ですから。小さな緑のサボテンは、(私たちと同じように)暖かくて日当たりの良い場所を好みます。この基本を守れば、砂漠の魅力を放つ元気なサボテンを長く楽しむことができます。

装飾やインテリアのさらに詳しいヒントをお探しの方は これ 素晴らしいアイデアです。
画像出典:Unsplash、CCOライセンス
 

ツツジ科の常緑低木・カルーナ”ガーデン・ガールズ” 2022年12月9日(金)

2022年12月25日 | 気候、天気、季節の風物詩



2022年12月9日(金)発行の「人と人をつなぐ生活情報紙・いわにちリビングun(アン)」にツツジ科の常緑低木「カルーナ”ガーデン・ガールズ”」が掲載されていました。寒さに強く、冬のガーデニングに活躍するそうです。





映画「土を喰らう十二カ月」を観る! 2022年12月23日(金)

2022年12月25日 | 気候、天気、季節の風物詩



2022年12月23日(金)、11月11日に全国公開された映画「土を喰らう十二カ月」を一関シネプラザで観てきました。
 1960年代にデビューして以来、ミュージシャンとしても俳優としても、唯一無二のオーロラを放ち続けている沢田研二が主演の映画である。

 北アルプスを望む信州を舞台に、犬一匹と山荘で暮らす作家の一年間を季節の移り変わりと共に追った本作は、沢田研二の今の魅力を封じ込めた作品だと思います。

映画「ラーゲリより愛を込めて」を観る! 2022年12月21日(水)

2022年12月24日 | 気候、天気、季節の風物詩


2022年12月21日(水)、北上市まで行って12月9日(金)から全国公開の映画「ラーゲリより愛を込めて」(東宝配給)を観てきました。

 1939年生まれ、富山県出身の辺見じゅん著の原作『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文春文庫版)を基にした映画だそうで、大変感動しました。オススメです‼



1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇による「玉音放送」で終戦を知らされたのですが、そのとき、海外に居た日本人は兵隊はもちろん、民間人も現地に取り残されてしまいました。

それより少し前の8月8日、ソ連が日本に宣戦布告。映画は8月9日満州・ハルピンに居た山本幡男一家が、未明のソ連軍による突然の爆撃から避難する途中で瓦礫の下敷きになるシーン辺りから始まっています。妻のモジミ4人の子どもたちを託し、日本で落ち合う約束をします。

1946(昭和21)年4月、ソ連軍に拘束された山本は、スペルドロフスクの収容所(ラーゲリ)に連れて行かれ、零下40度の極寒のシベリアで重労働を強いられます。わずかな食糧での過酷な労働が続く日々、死に逝く者が続出する地獄のラーゲリ(強制収容所)にその男・山本幡男は居た。

「生きる希望を捨ててはいけません。帰国(ダモイ)の日は必ずやって来ます」。絶望する仲間たちに彼は訴え続けた…。

  この年の12月8日には、ソ連本土からの引揚第一船がナホトカから舞鶴港へ入稿していますが、山本はロシア語が堪能だったために、身に覚えのない「スパイ容疑」でラーゲリに収容されてしまったようです。

1946(昭和21)年12月19日、ソ連地区引揚に関する米ソ協定が成立。
1948(昭和23)年8月15日、大韓民国成立。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)成立。9月、ついに「ダモイ(帰国)」と通達があり貨車で東に向かうが、ハバロフスクの手前で山本を含む数名が降ろされる。大規模なラーゲリに再び収容された山本は、さらに25年の強制労働を命じられる。
 春、山本は新谷が「クロ」と名付けた子犬と出会う。読み書きができない新谷に、山本は俳句を教える。
1949(昭和24)年10月1日、中華人民共和国成立。
1950(昭和25)年4月22日、ソ連「戦犯容疑者・病気療養者を除き、日本人捕虜の送還は完了した」と発表。6月25日、朝鮮戦争の始まり。

 身に覚えのないスパイ容疑でラーゲリに収容されてしまった山本(二宮和也)は、日本にいる妻・モジミ(北川景子)や4人の子ども達と一緒に過ごす日々が訪れることを信じ、耐えた。劣悪な環境下では、誰もが心を閉ざしていた。戦争で心に傷を負い傍観者を決め込む松田(松坂桃李)。旧日本軍の階級を振りかざす軍曹の相沢(桐谷健太)。クロという子犬をかわいがる純朴な青年・新谷(中島健人)。過酷な状況で変わり果ててしまった同郷の先輩・原(安田顕)。山本は分け隔てなくみんなを励まし続けた。そんな彼の仲間想いの行動と信念は、凍っていた抑留者たちの心を次第に溶かしていく。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、連合国による日本占領が終わり、日本は主権を回復。
 夏、日本と往復葉書のやり取りができるようになり、山本は妻・モジミに葉書を書く。

1953(昭和28)年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が成立。春になってようやく妻・モジミから返事が届くが、山本は病に倒れる、十分な診療も受けられぬまま、病状は悪化する。

 終戦から8年が経ち、山本に妻からの葉書が届く。厳しい検閲をくぐり抜けたその葉書には「あなたの帰りを待っています」と。たった一人で子どもたちを育てている妻を想い、山本は涙を流さずにはいられませんでした。

 誰もがダモイの日が近づいていると感じていたが、その頃には彼の体は病魔に侵されていた…。

1954(昭和29)年、仲間たちの命懸けのストライキによって、山本は大きな病院で診療を受ける。結果は咽頭癌性肉腫の末期症状で、余命3か月を言い渡される。8月25日、山本はラーゲリの病室で息を引き取る。
 
松田は、危険を顧みず山本を病院に連れて行ってほしいと決死の覚悟でストライキを始める。その輪はラーゲリ全体に広がり、ついに山本は病院で診断を受けることになった。しかし、そこで告げられたのは、余命3か月ー。山本により生きる希望を取り戻した仲間たちに反して、山本の症状は重くなるばかりだった。それでも妻との再会を決してあきらめない山本だったが、彼を慕うラーゲリの仲間たちは、苦心の末、遺書を書くように進言する。

 山本はその言葉を真摯に受け止め、震える手で家族への想いを込めた遺書を書き上げる。仲間に託されたその遺書は、帰国の時まで大切に保管されるはずだった…。ところが、ラーゲリ内では、文字を残すことはスパイ行為とみなされ、山本の遺書は無残にも没収されてしまう。山本の想いはこのままシベリアに閉ざされてしまうのか!?
 死が迫る山本の願いをかなえようと、仲間たちは驚くべき行動に出る…。

 戦後のラーゲリで人々が起こした奇跡ー。これは感動の実話である。






1956(昭和31)年10月19日、日ソ共同宣言調印。12月26日、ソ連本土からの最終引揚船「興安丸」が舞鶴港に入港。舞鶴港へ向かう支度をしていた妻・モジミの元に、山本の死を知らせる電報が届く。

1958(昭和33)年1月半ば、記憶していた山本の遺書を届けに、原がモジミを訪ねる。その後、松田、新谷、相沢も遺書を届けに来る。
 11月、最後の地方引揚援護局(舞鶴)閉局。