・・・気付いたら、ベートーヴェン《月光》I楽章のみを2時間くらい練習していました。何度も弾いてきたこの超有名曲!しかし、「必然的な指使い」がまだ完全に把握できていないことが分かり・・・夢中になって探し・勉強していたら、時間はあっというまに
ピアノ演奏における「必然的な指使い」は、書かれた音符の長さ(音価)に最大限の注意を払い、5本の指で(あるいは両手10本)その音型の演奏が実現可能である時、それが「必然的な指使い」であり、今はこれが大きな価値があるよう思われ、練習の度に探しています。
なんといっても!クラシック音楽のピアノ曲の多くは、その曲を書いた本人が鍵盤の名手であることが多く!彼等の手を肖像画などで確認すると、我々と同じ両手に5本ずつなのです(笑) この指を的確に使う時、彼ら大天才に少しでも近付ける!?と思いたいのです
しかし考えていると、作曲家本人が名手であるかないかに関わらず、楽譜に書かれた音符が(誠実なものである必要はありますが!)成功するために不可欠で必然的な指使いというのは、あらゆるピアノ用の楽譜に、その可能性を秘めているのかもしれない、とも思われました
ドビュッシー《デルフの舞姫達》を勉強していたら、この音楽のアイディアは《牧神の午後》と同じ!?ように思えてきた・・・牧神がニンフと戯れたいように、《デルフの舞姫達》と戯れたい(破廉恥ではなく)ことを願う作者の姿が見える気がしてきてしまいました・・・
思わず「破廉恥」という言葉を使ってしまいました・・・その意味では《牧神の午後》の戯れは、破廉恥でしょう(笑) 《デルフの舞姫達》は、違う。しかし《デルフ》に続く《Voiles》は、言うなれば破廉恥だと私は思っています。「ヴェール」を「取り去る」という指示があるので!
破廉恥であるか無いかはさておき、《牧神》にしろ《デルフの舞姫》にしろ、戯れは音楽上で起こるようです。しかし、それはどちらも束の間の夢の如く、短く消え去るようです・・・《デルフ》と戯れられるのは、たった3小節かも!?(笑)