ただ(間違えずに)演奏しているのか、音の意味を考えたり、出ている音の協和・不協和の現実に注意して演奏しているかでは、演奏の良さ・充実度として、少なからぬ差が生まれるように思われます。
ウィーン原典版のピアノ譜には時々「困難なページめくりを避けるため」空白のページを残す工夫が施されています。これは逆を返せば「奏者が自分で譜めくりできる」さらには「しなさい」と言っているようなもの!?
以前から、室内楽のウィーン原典版の楽譜にこのような工夫が施されているのは知っていました。しかし昨夜!ベートーヴェン《ピアノソナタ》すなわちピアノ独奏の楽譜にもこの「ページめくり用の空白」があることが確認されました。これすなわちピアノ独奏も楽譜を見て弾けと暗示されている!?
数十年間、暗譜でピアノ独奏をしてきたピアノ弾きの私も一人ですが、こんな指示を目の当たりにしてきたら、ここ最近ではすっかり暗譜への興味を失ってしまいました。それどころか、暗譜による弊害を自身の音楽活動を通じて痛感!したりもするのです。
だからここ数年、私はピアノ独奏のリサイタル等においても楽譜を見ながら演奏しています。これは暗譜を怠って楽をしようというのでは決して!なく、舞台上においても楽譜と向き合うことで、演奏における知的な働きを活性化させたいがため!?、と今思いました。
「楽譜を見て演奏」するということは「知的な働き」を要する行為と自然になる。「楽譜無しに演奏」するときは「感覚的な働き」が前面に出てくる。そんな差があるような気がしてきました。もちろん!暗譜においても知性は働き、楽譜を見ていても感性は働けます。敢えていうなら上記、と?
音楽において、感覚の方が大事?知性の方が大事? 答えのなさそうな問いでしょうか。どちらも大事。←やっぱりこれが正しそう。
しかし、敢えて最近では「感性の方が大事」と思ったりもします。楽譜を見て知的な働きを増やそうと行動していながら矛盾のようですが(笑)、しかし矛盾ではなく、知性をしっかり働かせつつ、音楽演奏表現において最終的に(?)大事なのは「感覚」と考えているのです。
暗譜で数十年ピアノを弾いてきたことで、感覚的に音楽をするのはしてきたけれど、曲を暗譜したらその後はあまり楽譜を見なくなるのがつね、すなわち知的な働きが乏しくなり、演奏に不充分さが現れてきてしまう・・・ そう危惧され、楽譜を見ながら演奏したいと思う今日この頃なのです。
究極的な状態は、知的な働きと感性が不可分に一致するような状態で演奏できたとき!? 無くはなさそうですが。それは極度の集中状態のような気もします。いつも出来るものではない? だからこそ、本番は尊い!?
本番では、練習時に自分が出来ることが出来るのを目的とするのではなく、練習時には得られない本番ならではの緊張感により、普段では有り得ない、より密度の濃いよりよい演奏が出来ることを目指してよいのでは!? と思われてきました。「練習より本番の方がいい!」ということ!?
本番では、練習時よりよい演奏ができる!? それを目指して、常日頃の練習を心掛けるのは、本番を前にする皆様にとっての、ひとつの目標となれはしないでしょうか!? 一期一会の本番の尊さ・面白さを楽しむことは、豊かな人生の糧となりましょう。それは聴く人にとっても然り!?
目の前で、一人の人間が集中しきって、普段以上の力を発揮しているような現場に立ち会えたら、それはきっと感動的でしょう。それは、プロの演奏だろうがアマチュアだろうが関係ない、あくまで一人の人間の行いの尊さ。音楽を人前で演奏するという行為の尊さ。
本番というものが、その緊張感ゆえ、普段できることができなくなってしまうというネガティヴなものではなく、本番の緊張感ゆえ、普段は出来ないことが出来ると思い、信じてみたら、本番に対する心構え、また準備の段階において、より充実した何かが得られるような気がしてきました。
しかし本番の緊張感が特別だからといって、本番ばかりやっていても駄目でしょう・・・ その本番に向けて、そこが最高となれるよう準備を持っていく誠実な心が必要ということでしょうか・・・ なかなか大変そうです!