クラシック音楽において、
「なぜ指揮者がいるのか?」
について、ふと、考えてみました。
よく聞くのは、
オーケストラを前に、一段高いところに立って
楽器を持たず、ゆえに自分では音を出さず、
ただ手・体を振り回したりしているあの人は、
どうして必要なの!?という素朴な疑問。
至極最もな疑問だと思います。
しかし改めて、ふと、
「指揮者の存在理由」というものも少なからずあるのではと思い、
ちょっと文章にまとめてみようと試してみます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それは、ふとYoutubeで
指揮者のいない合奏を聴いていて思ったことでした。
10数名くらいの人たちでしょうか。
世界一流の人々がそろっている合奏だったようです。
演奏も申し分ない、素晴しいもの。
各奏者が、それぞれの磨きぬかれた音楽的センスと経験によって
見事なモーツァルトの演奏が出来上がっていたのでした。
しかし、ふと思ったのです。
これはまだモーツァルトだから、
うまくいけたのではないだろうか!?と。
モーツァルト以降、いや、すでにモーツァルトの音楽においても
クラシック音楽の発展においては、
作品は一層複雑化し、作曲者の意思・情感というものが
楽曲に盛り込まれることとなってゆきます。
その際、
複数人数の合奏となった場合、
たとえ個々の奏者が、音楽をよくわきまえた人たちであっても、
合奏として・ひとつの音楽としては、
少なからず、意思が人それぞれバラバラに
なってしまう危険性はないとはいえないでしょう。
もちろん、心得ある奏者達が
楽譜にある音符を追うこと「だけ」でも
立派な音楽として成り立つ作品は、指揮者がいなくても、
大丈夫なのだと思います。
これには、作品が書かれた時代も少なからず関係してくると思われます。
バッハの時代、あるいはそれ以前、
指揮者という存在は、いてもいなくてもよい風習であったと聞きます。
たとえいても、ステッキのような棒を持って、
ただ振り上げて、始まりを示しただけだったとか!?
ふと、思い出したのですが、
大バッハの次男、C.Ph.E.バッハの著書には、
「指揮者がいない場合、我々鍵盤奏者が指揮者の代わりとなり、
鍵盤上での手の振り下ろしで、楽団に合図を送るようにする」
といったことが、確か書いてありました。
すなわち、
これを勘繰って見ますと、その頃からすでに
「指揮者」がいる場合もあったという証拠となりましょう。
しかし、必ずしもいなければならないわけではなかった
ということでもありそうです。
上記のモーツァルト自身も、
自分で協奏曲などを演奏する場合は、指揮者を立てず、
自身が独奏を弾きながら指揮をしていた、と伝わっています。
多分、ベートーヴェンも、
自分の協奏曲を弾き振りしていたのではないでしょうか。
しかし、徐々に作品は複雑に・大規模になり、
そして何よりも気になるのは、
作品に込められた「意思」というものが
音楽作品において次第に存在を大きくしていったということです。
その際、
合奏による演奏で、個々の奏者それぞれの意思に任せるのではなく、
それを統率し、
あるひとつの意思としてまとめる役の人がいることで、
その演奏が、音楽として充実して成り立つ、そのために
「指揮者」という人が一人いる必要がある(思えば、
指揮者が複数人ということはありませんよね!?)
ここに、
指揮者の存在理由があると言えるのではないでしょうか。
合奏の人々が、指揮者はいらないほど卓越しているかどうかという問題ではなく、
合奏のひとつの意思の統合の責任者としての指揮者の存在。
そしてそれは、合奏の奏者達にとってだけでなく、
その音楽会場で聴いている人々にとっても、
そこで流れている音楽の意思の統合された対象が
一人の指揮者にまとまっているということは、
その場の音楽をわかりやすく追えるためにも、
指揮者の存在は意味あるものといえるのかもしれません。
指揮者のいない合奏だと、時に
どこに集中したらよいかわからなくなってしまうということは
想像できませんでしょうか?
音のみではなく意思を束ねる存在としての指揮者。
これが、この人の大切な役割なのではないでしょうか。
これできっと、指揮者の人のことを、楽器も持たずに、
ただ手をぶんぶん振り回しているおじさんではない、と、
知らない人々にも教えてあげることができましょうか(笑)
P.S.
指揮者は、会社における社長!?
という位置にあると考えてもよいのかもしれません。
位置だけでなく、役割としても。
自分が指導しながらも、人が動く、という。
たとえ会社に実力のある社員が数多く集まっていても、
それぞれが勝手に動いているのでは、
会社としての確かな成果はあがらない、という話を
最近きいたことがあるような気がします。
スティーブ・ジョブズ氏の話だったような?
そうした力を束ねて、ひとつの方向に持っていく役割、
それが、良い社長であり、良い指揮者なのかもしれません。
♪
「なぜ指揮者がいるのか?」
について、ふと、考えてみました。
よく聞くのは、
オーケストラを前に、一段高いところに立って
楽器を持たず、ゆえに自分では音を出さず、
ただ手・体を振り回したりしているあの人は、
どうして必要なの!?という素朴な疑問。
至極最もな疑問だと思います。
しかし改めて、ふと、
「指揮者の存在理由」というものも少なからずあるのではと思い、
ちょっと文章にまとめてみようと試してみます。
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それは、ふとYoutubeで
指揮者のいない合奏を聴いていて思ったことでした。
10数名くらいの人たちでしょうか。
世界一流の人々がそろっている合奏だったようです。
演奏も申し分ない、素晴しいもの。
各奏者が、それぞれの磨きぬかれた音楽的センスと経験によって
見事なモーツァルトの演奏が出来上がっていたのでした。
しかし、ふと思ったのです。
これはまだモーツァルトだから、
うまくいけたのではないだろうか!?と。
モーツァルト以降、いや、すでにモーツァルトの音楽においても
クラシック音楽の発展においては、
作品は一層複雑化し、作曲者の意思・情感というものが
楽曲に盛り込まれることとなってゆきます。
その際、
複数人数の合奏となった場合、
たとえ個々の奏者が、音楽をよくわきまえた人たちであっても、
合奏として・ひとつの音楽としては、
少なからず、意思が人それぞれバラバラに
なってしまう危険性はないとはいえないでしょう。
もちろん、心得ある奏者達が
楽譜にある音符を追うこと「だけ」でも
立派な音楽として成り立つ作品は、指揮者がいなくても、
大丈夫なのだと思います。
これには、作品が書かれた時代も少なからず関係してくると思われます。
バッハの時代、あるいはそれ以前、
指揮者という存在は、いてもいなくてもよい風習であったと聞きます。
たとえいても、ステッキのような棒を持って、
ただ振り上げて、始まりを示しただけだったとか!?
ふと、思い出したのですが、
大バッハの次男、C.Ph.E.バッハの著書には、
「指揮者がいない場合、我々鍵盤奏者が指揮者の代わりとなり、
鍵盤上での手の振り下ろしで、楽団に合図を送るようにする」
といったことが、確か書いてありました。
すなわち、
これを勘繰って見ますと、その頃からすでに
「指揮者」がいる場合もあったという証拠となりましょう。
しかし、必ずしもいなければならないわけではなかった
ということでもありそうです。
上記のモーツァルト自身も、
自分で協奏曲などを演奏する場合は、指揮者を立てず、
自身が独奏を弾きながら指揮をしていた、と伝わっています。
多分、ベートーヴェンも、
自分の協奏曲を弾き振りしていたのではないでしょうか。
しかし、徐々に作品は複雑に・大規模になり、
そして何よりも気になるのは、
作品に込められた「意思」というものが
音楽作品において次第に存在を大きくしていったということです。
その際、
合奏による演奏で、個々の奏者それぞれの意思に任せるのではなく、
それを統率し、
あるひとつの意思としてまとめる役の人がいることで、
その演奏が、音楽として充実して成り立つ、そのために
「指揮者」という人が一人いる必要がある(思えば、
指揮者が複数人ということはありませんよね!?)
ここに、
指揮者の存在理由があると言えるのではないでしょうか。
合奏の人々が、指揮者はいらないほど卓越しているかどうかという問題ではなく、
合奏のひとつの意思の統合の責任者としての指揮者の存在。
そしてそれは、合奏の奏者達にとってだけでなく、
その音楽会場で聴いている人々にとっても、
そこで流れている音楽の意思の統合された対象が
一人の指揮者にまとまっているということは、
その場の音楽をわかりやすく追えるためにも、
指揮者の存在は意味あるものといえるのかもしれません。
指揮者のいない合奏だと、時に
どこに集中したらよいかわからなくなってしまうということは
想像できませんでしょうか?
音のみではなく意思を束ねる存在としての指揮者。
これが、この人の大切な役割なのではないでしょうか。
これできっと、指揮者の人のことを、楽器も持たずに、
ただ手をぶんぶん振り回しているおじさんではない、と、
知らない人々にも教えてあげることができましょうか(笑)
P.S.
指揮者は、会社における社長!?
という位置にあると考えてもよいのかもしれません。
位置だけでなく、役割としても。
自分が指導しながらも、人が動く、という。
たとえ会社に実力のある社員が数多く集まっていても、
それぞれが勝手に動いているのでは、
会社としての確かな成果はあがらない、という話を
最近きいたことがあるような気がします。
スティーブ・ジョブズ氏の話だったような?
そうした力を束ねて、ひとつの方向に持っていく役割、
それが、良い社長であり、良い指揮者なのかもしれません。
♪