ベートーヴェンが用意した神の世界を現す転調(主調から長3度下)を、シューベルトが優雅に飛び回る様子が見えました。最後のピアノソナタ《D.960変ロ長調》においてです。それは、人の意思が受け継がれてゆく様、とも言えましょうか。
ベートーヴェンが、主調から長3度下に転調する音に神的なイメージを表現しようとしていたであろう証拠を私は知っています。それは《第九》の合唱において「vor Gott(神の前に)」という言葉が、この和音に当てられているところです。
・・・思わず今、シューベルトの書いた「ppp」を表現したいがために、その箇所において、ほんのほんのわずかに!テンポを遅くしてみました・・・ 少しなら・・・いいかも!?
ヨーロッパの作曲家が、自身の作品に「3」を取り入れる(3は「三位一体」に代表される西洋における神的な数)、この行為は一種の「祈り」!?のように思えました。ならば、奏者はそれを見付けた時、祈るような気持ちで演奏したら・・・よい?
よく落ち着いて練習・勉強すると、弾き易いポジションや指使いが見付かったりした際など、ピアノを弾くのが「簡単」!?と思える瞬間がありましょうか。(これ、悪いことではないと思う)しかし、この「簡単」と思った心と、謙虚な「祈る」という心が共存することは・・・できるのだろうか!?
ブラームスを練習しながら、複雑怪奇で難所と思っていた箇所が、落ち着いて見てみると、どれも同じパターンで動いていることに気付き、文字通り「簡単」と思えたのでした。シンプルという意味での簡単、これ、悪いことではない、と思うのです。単なる事実である、ということ。
いやはやしかし・・・ピアノを弾くのが「簡単」という事実があったとしても、これにより油断の心が生じてしまっては、上手くはいかないようです!(今失敗・・・苦笑) 油断大敵、しかし、闇雲に難しいと思う必要は無く!? 心して事にあたる、とよい!?
ピアノを弾くのが簡単、という境地に達したとしても、それが高慢さとして心ににじみ出るようであれば、その演奏は人を感動させることは出来なくなるのではないだろうか!? 「簡単でけっこう!だけど謙虚さを忘れずに」ということでしょうか。
「謙虚」という言葉に「祈り」というキーワードがあるような気がしてきました。
真の謙虚が現れる背景に祈りの心あり!?
ピアノを弾く、ということは、案外簡単なことなのかも!? しかし、そうは言ってもやはりそれを実践することは難しい・・・ということなのかもしれません。簡単だけど難しい。←出た!色即是空空即是色!
動詞を文章の始めの方に持ってくる言語と、動詞が最後に来る言語(日本語)、両言語における思考回路の差がやはりあるような気が、ふとしました。やるべきことを先に明示するか、後回しにするか!?(・・・ちょっとネガティヴ・・・)日本語も話し方次第で弱点を解消できるかも!?先に明確に!?
なんでもかんでも明確がいい、なぞとは思いませんし、日本語が悪い言語だなぞとは全く思いませんが!動詞が最後に来る言語性による思考回路に弱点があるなら、これを意識することで、改善するよう努めることができるようになるでしょうか。よりよきを目指して!
「謙虚」について考えていたら、謙虚さの水準を、社会的地位等に依存して測るような考え方が、自分は大っっ嫌い!(笑)なことに気付きました。偉い人は謙虚でなくていい、人に頭を下げなくていい、なんて変ですよね?真の謙虚さはこれと別のところにあるはず。
「謙虚さは魅力を発揮する」であろうことは、以前から考えていました。舞台に出る人間には、だからこれが必要なのだと思います。だって舞台上から魅力を発揮しなければならないのですから!
そして私は、年配の方や社会的地位の高い人を尊敬します(笑)。中には尊敬できない人物もいるでしょうが・・・しかし、大事な仕事、大きな能力をもった素晴らしい人が高い地位に付くことが基本だと思っているからです。残念ながら現実は千差万別でしょうが・・・(苦笑)
祈りの心があることと、祈ることは、残念ながら必ずしもいつも一致しているわけではなさそう・・・ 大事なのは、もちろん!祈りの心だと思います。もちろん!祈ることを否定しているのではありません。祈ることでこの心が育つ、ということもあるかもしれませんし。