どういうわけか、音程と言うと、上に向かってばかり練習したがる習慣があり、降りるほうは、そのつけたしにしか扱われてこなかった。実際には、同じ音程でも、それを下向して唱したり奏したりすることは、全く別の精神過程であり、全く別の精神的構えを要求する。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月1日 - 23:14
私たちは高潔を次のようなものと考えている。つまり、あらゆる効用を考慮せず、いかなる褒賞も利益も抜きにして、ただそれ自体によって正当に賞賛することができるようなものと。(キケロ『善と悪の究極について』第2巻44)
— キケロbot (@cicerobot_jp) 2017年6月2日 - 23:24
音楽に向かって子どもを育てることの第一歩が歌であり、子どもが楽器を手にする前に歌いながら楽譜を読むことが必要だ。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月2日 - 19:14
射損ねるために置かれる的が存在しないように、本源的な悪もまた世界には存在しない。
— エピクテトスBOT (@bot_epic) 2017年6月3日 - 16:08
イタリーが多くの傑出した音楽家を生んだことには、教育にもおおいにあずかるところがあった。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月3日 - 17:14
フランス・イタリー派のやり方は、歌をとおして音楽に近づく。フランス人やイタリー人にとっては、いずれかの楽器をよくマスターするということは、その楽器で歌うということなのだから。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月3日 - 15:14
フルトヴェングラーがついに裁判で無罪の判決を受け、かつての地位に戻ることができたとき、まさにその日までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を主席指揮者として率いることが、私の絶対的な栄誉ある義務であり、人間として為すべき当然の責務であった
— チェリビダッケbot (@Celibidachebot) 2017年6月3日 - 16:28
文化は、受け継ぐことができません。それぞれの世代が、あらためて新しく、文化を自分のものにしないならば、先祖の文化は、あっというまになくなってしまうことでしょう。私たちが努力し、場合によっては、苦しんで獲得したもの、それこそが本当に自分たちの文化と言えるのです。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月3日 - 11:14
楽器を学び立ちと思う人は、誰でも、その前に歌うことを学ばねばなりません。楽器なしで歌うことは、音楽能力の、真の、そして、深い影響力を持った学校であるのです。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年6月3日 - 13:14
彼にはエゴがありすぎる。エゴは彼の自由な精神を濁らせる。エゴに突き動かされてはブルックナーの皮膚の下に潜り込むことなどできはしない。ブルックナーを演奏する条件はエゴの放棄である。ブルックナーの場合、曲を弄りまわさず、素直にやらねばならない
— チェリビダッケbot (@Celibidachebot) 2017年6月3日 - 12:28
(ヘルベルト・フォン・カラヤンについて)
心を喜ばせ、心労を休めることを求めているとしよう。それなら、哲学者の熱意に匹敵しうるものなどありえようか。彼らは善き人生、幸福な人生をめざし、これに有効なものをつねに探し求めているのだから。(『義務について』第2巻6)
— キケロbot (@cicerobot_jp) 2017年6月3日 - 14:24
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) 2017年6月3日 - 14:24