昨日ハロウィーンが終わったと思いきや、11月に入った今日もういきなり店頭がクリスマス色になっていて(笑) いやはや・・・もうすぐ年末ですか!?いやはや・・・(笑)
いや!年末になる前の11月・12月は演奏会シーズン、本番がこれから続きますので心を引き締めてがんばらないと!先程支援者の方々の御尽力賜り、瀬川玄演奏会情報なるメルマガが刊行されました。「まぐまぐ」で「瀬川」と検索すると登録できるとのこと、ご興味おありの方はよろしくお願いします♪
車を運転しながら、突如聴こえてきた音楽はベートーヴェンの最晩年の重要作品《大フーガop.133》演奏者はフルトヴェングラー指揮による弦楽合奏。この存在をすっかり失念していました!先日、楽譜を見ながらこの曲をオリジナルの弦楽四重奏で聴きながら、とても難解で
今は、楽譜なしで、耳だけで《大フーガ》・・・しかし!大音楽家巨匠フルトヴェングラーの指揮で誘われる場合に、この難解な音楽がどのように聴こえてくるか!?夢中になって聴き始めました。やはり難しい・・・しかし、判りにくいこの曲の拍感が、だいぶ分りやすく聴こえてくる気がする
《大フーガ》、懸命に和声ハーモニーの流れと音の意味を追いながら聴く、難解な拍感も伴い、聴く側も懸命にならざるをえない!? 途中はGes-Dur、Des-Durの別世界へ行ってしまったのだろうか、更に終盤、高いEsの音の跳躍!が聴こえ・・・なんと泣きたくなってきてしまった・・・
♭(フラット)3つのEs-Durの音に、ベートーヴェンが寄せた思いを想像すると、感慨深くなってしまいます。Cへの跳躍も聴こえ!これまた真白な世界を望む姿が垣間見えるよう・・・その後にAs-Dur、これは《ピアノソナタ31番op.110》の調性!やはり感動を抑えられない
信頼に足る世紀の大音楽家フルトヴェングラーの指揮により、聴者にはその音楽の真髄らしきものが聴こえてくるのでしょうか?音の意味がくまなく体現されているよう!?演奏が案外(いや、よくあるベートーヴェンのパターン!?)あっさり終わると、残る感覚はこの音楽家への敬愛の念でした
敬愛、この言葉に最近触れた気がするけど、どうだったかしら。。。フルトヴェングラーの演奏を聴きながら、自分は少しでも!この人に近づきたい、この人のように音楽したい!と思いました。・・・まだまだフルトヴェングラーをよく知っているとはいえず、フルトヴェングラーといえば
フルトヴェングラーといえば、コアなファンが今なお少なからずいて、中途半端な発言をしては顰蹙を買いそうで怖いのですが・・・しかし!ピアノ弾きとしてはフルトヴェングラーの同胞!?エドウィン・フィッシャーの演奏や書物に身近に感じている自分にとって、フルトヴェングラーは
エドウィン・フィッシャーとフルトヴェングラー。20世紀のドイツにおける大音楽家、その薫陶を受け、その理想に少しでも近づきたいと今また思った気持ちは、嘘ではなく、大事にしたいと思います。
ちなみに、うちの音楽室にはE.フィッシャー著『音楽観想』からの抜粋「若き音楽家への挨拶」の全文が掲げられています。最近部屋の模様替えをし、この文章が日頃から目にしやすくなって・・・20世紀ドイツを代表する音楽家を身近に感じながら過ごす今日この頃です
フルトヴェングラーの音楽の理解度・共感度、そして現実への表出度は、群を抜いて稀有な境地に達しているのではないでしょうか。「振ると面喰らう」とかいう冗談はもう面白くない、人が真面目に音楽に向かい合うその充実感が、実に面白いものと思われます
フルトヴェングラーの演奏における様々なミス・傷を糾弾するようでは、あまりに視野が狭いといえましょう(笑) ミスの有無を問うレヴェルの遥か彼方で、音楽の充実を問う土俵で勝負している人間、その仕業に近づこうとする際、些細な傷は問題でなくなると思います
ミスの有無を問われてしまう今日のクラシック音楽市場は、実に息苦しく、ミス無しを達成したプロと呼ばれる人々の演奏は、その代償に有機的な音楽性を犠牲にしているよう・・・音楽における抗菌を求めるような姿勢は、この世界を衰退させるでしょう!それではいけない!!
「ミスの有無はさて置き」とは、かの巨匠ベートーヴェンが言っていることです!これを否定できるでしょうか?
もちろん、傷あるまま放っておいて、演奏の充実度が下がってくるようでは、これを許してはいけないでしょう。しかし、現実は完璧とはゆかないもの。ミスを糾弾し過ぎることは、この世を生き辛くすることでしょう・・・せっかくの生、楽しんだ方が得だと思います!
フルトヴェングラーの音楽に接して、なぜか人生観まで考えさせられてしまいました・・・この音楽・演奏からの影響なのでしょうか!?