クラシック音楽を演奏・勉強するに当たり、
よく、「楽譜に忠実に弾かなければならない」
という言葉を聞きますが、以前からどうも違和感がありました。
ちょっと考えてみました。
「忠実」という言葉には、一方通行なニュアンスが
含まれているように思えるのです。
ネガティヴに誇大してこの「忠実」なる言葉を捉えるのならば、
楽譜に書かれた作曲者からの指示を、演奏者は盲目的に従うという意味すら
ここに見出すことが出来てしまうようでもあります。
しかし、
よりよい音楽芸術を目指すならば、
この一方通行的な音楽の創りでは不十分なのではないかと思えるのです。
楽譜を通して作曲者の意思に触れ、
演奏者としてその指示がいかなるものかが共感できるとき、
楽譜の存在意義が存分に発揮された演奏と
なることができるのではないでしょうか。
クラシック音楽におけるこの作曲者とは、
時代と歴史を越えて実績を証明される
音楽の天才達であることが多々でしょう。
彼等の意思が託された楽譜、そこから彼等の
高い音楽性があふれ出ているとも言えましょうか。
演奏者・勉強者は、
楽譜という形になって書かれたところから、
その指示を自身の感性に照らし合わせて
(それは願わくば普遍的な感性に沿ったものであることを信じて)
納得・共感の上で演奏することを目指したいものです。
楽譜を「吟味」するという言葉はいいかもしれません。
「楽譜を正確に演奏する」ということに関して
両者は一見あまり変わりないようではありますが、
ちょっとこだわってみるのであれば、
「忠実」という一方通行性ではなく、
楽譜を真ん中に、作曲者の側からの溢れ出る音楽の提示を
演奏者の側からも「吟味」しようとする姿勢を持つことで
「両方通行」の充実度のより高い「楽譜を読む」
ということになるのではないか、
などと昨日、
梅雨間の晴天の下を歩きながらもんもんと考えたのでした。
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よく、「楽譜に忠実に弾かなければならない」
という言葉を聞きますが、以前からどうも違和感がありました。
ちょっと考えてみました。
「忠実」という言葉には、一方通行なニュアンスが
含まれているように思えるのです。
ネガティヴに誇大してこの「忠実」なる言葉を捉えるのならば、
楽譜に書かれた作曲者からの指示を、演奏者は盲目的に従うという意味すら
ここに見出すことが出来てしまうようでもあります。
しかし、
よりよい音楽芸術を目指すならば、
この一方通行的な音楽の創りでは不十分なのではないかと思えるのです。
楽譜を通して作曲者の意思に触れ、
演奏者としてその指示がいかなるものかが共感できるとき、
楽譜の存在意義が存分に発揮された演奏と
なることができるのではないでしょうか。
クラシック音楽におけるこの作曲者とは、
時代と歴史を越えて実績を証明される
音楽の天才達であることが多々でしょう。
彼等の意思が託された楽譜、そこから彼等の
高い音楽性があふれ出ているとも言えましょうか。
演奏者・勉強者は、
楽譜という形になって書かれたところから、
その指示を自身の感性に照らし合わせて
(それは願わくば普遍的な感性に沿ったものであることを信じて)
納得・共感の上で演奏することを目指したいものです。
楽譜を「吟味」するという言葉はいいかもしれません。
「楽譜を正確に演奏する」ということに関して
両者は一見あまり変わりないようではありますが、
ちょっとこだわってみるのであれば、
「忠実」という一方通行性ではなく、
楽譜を真ん中に、作曲者の側からの溢れ出る音楽の提示を
演奏者の側からも「吟味」しようとする姿勢を持つことで
「両方通行」の充実度のより高い「楽譜を読む」
ということになるのではないか、
などと昨日、
梅雨間の晴天の下を歩きながらもんもんと考えたのでした。
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