碧(みどり)が病室に入ってきたのは、中尾たち重役三人組と入れ違いだった。
「もう言うことは……!?」
「ん?」
その声で碧と分かって、丈二は新聞を読むフリをして、不機嫌な語尾を飲み込んだ。
「ジイチャン、まだ、中尾さんたち叱ったの?」
「叱りゃせんよ。ただ、機嫌が悪いだけだ」
「中尾さん、汗拭いてたわよ。こんなに冷房効いてんのに」
「あいつら、見舞いというよりも、オレが死にそうかどうか見に来ただけだ」
「言い過ぎだよ。会社の運命はジイチャンにかかってるんだから……お花、新しいのに替えてくるわね」
「お。碧……」
そう言いかけたときには、碧はポニーテールをひらめかせ、花瓶を持って病室を出て行ってしまった。
丈二は器用に左手の小指で右耳を掻きながら、孫娘の碧が、赤いギンガムチェックの半袖を着ていることに初めて気が付いた。
唐突に半世紀前のミリーの姿が浮かんで、丈二はうろたえた。
カンサスの麦畑の向こうで、ミリーは手を振っていた。千切れんばかりに……。
「どうして、そんなオールドファッションなナリしてんだ」
「あら、流行ってんのよギンガムチェック」
花を生け直した碧は、バッグからタブレットを出した。
「ほら、これ」
タブレットで、ギンガムチェックのお揃いで、十人ほどの女の子のユニットが唄って踊っていた。
「歌は分からんが、この子たちのナリは、オールディーズだな」
「うん。わたし、その辺からやり直そうって思ってんだ」
「よせよ、いくら行き詰まったからって、こんなチャラチャラしたポップスはないだろう。碧の答ってのは、こんなに軽いもんだったのか」
「違うよ、オールディーズからやり直してみようって思ってるんだ。ヒントはジイチャンなんだよ。ジイチャン、よくアメリカのオールディーズとかジャズとか聞いてんじゃん」
碧は、中学のころから、バンドを組んで、ポップスに嵌っていた。高校に入って百人ほどもいる軽音部の中でもピカイチで、軽音の全国大会で優勝したこともある。この春には大学生になったが、そのころから仲間たちとポップスの方向性でぶつかるようになり、自然に独りぼっちになってしまった。
で、この夏は、心機一転出直そうと……並の人間なら北海道か、海外に出かけるところだが、碧は違っていた。
「そんな身軽な格好で、十日間もどこに行くの?」
母の小馬鹿にしたような言葉に、つい口から出てしまったのが、「奈良」であった。
祖父ゆずり、がんこな碧は、その足で本当に奈良へ行ってしまった。汗を垂らしながら平城旧跡で一日ボサっとしたり、若草山のてっぺんでアイスクリームを舐めたり。
三日目で着るものが無くなった。ホテルのランドリーに出すこともせずに、その都度捨てた。下着はともかく、上に着るものも現地調達することにした。そこで、偶然出会い、気に入ったものが自分のものだと、思いこむことにした。
奈良町を歩いていると、細い路地に迷い込み、町屋作りの構えは昔のままにした古着屋に出会い、そこでギンガムチェックの古着に出くわした。丈の短いサブリナパンツと合わせて買った。
オールドファッションであることは分かったが、それを超えた懐かしさがあった。気に入ったので、もう二三着買おうと思って、その店を探したのだが、半日歩いても見つからなかった。
そして、その新しいお気に入りのギンガムチェックで薬師寺に行った。国宝の東塔は改修中だったが、西塔を見てビビっときた。
――塔全体がリズムを持っている。一見不規則そうな塔の屋根が、とても小気味良いバランスとリズムをもっている。
――フロ-ズン・ムズィーク……高校で習ったブルーノ・タウトの言葉が蘇ってきた。
碧は、奈良に来て、ポップスをやるなら、いっそ原点である、アメリカン・オールディーズからやり直してみようと思い定めた。
丈二は、重役達が見舞いにもってきたメロンにかぶりつきながら、向日葵のように喋る碧を可愛く思った。
「ジイチャン。そいで、勝手にジイチャンのコレクション、コピ-させてもらったよ」
碧は、タブレットを開いた。
「おお、こんなに……で、オレに見えやすいようにスマホじゃなく、タブレットにしたのか」
「ううん。スマホのチマチマした画面ウザイから、これにしてんの」
「お。コニー・フランシスじゃないか。『VACATION』だな……ん、なんでこの写真が!?」
「ふふ、やっぱ、ワケありなんだ。レコードのジャケットの中に入ってたよ」
その写真は、色も褪せていたが、それでも赤と知れるギンガムチェックのシャツをラフに着たミリーが写っていた。
ミリーは泣いていた。
「どうして、どうして、ここに居てくれないの。こんなに、こんなにジョージのことが好きなのに、愛しているのに!?」
ミリーを後ろからハグして、ミリーのママが言った。
「ジョ-ジ、お願い。ミリーの願いを聞いてやってちょうだい」
「そうだよ。オレは日本人は好きにはなれないが、ジョージは別だ。街のクソガキどものチキンレースにものらなかったし、そのことで悪態をつかれても、ジョ-ジは平気な顔でいた。ミリーが虐められたときも……」
パパが、目頭を押さえて、カウチに座り込んだ。
「そうよ、あれで不良たちをみんなノシてしまったけど、ジョージは誰も傷つけなかった」
「オレなら、二三人はぶち殺していただろう」
「で、あなたも死んでいたわ」
「はは、そうだな。あの忍耐力と誇りの持ち方は、並の男じゃできないよ」
「でも、ジョ-ジは、右の小指を無くしてしまったのよ」
「無くしちゃいないよ、ほら、ちゃんと付いている。ただ一時的にマヒしているだけさ」
丈二は、明るく笑って、包帯で巻いた小指を見せた。
「わたし、知ってる。ジェンキンス先生が言ってた、いずれ、その小指は切らなくちゃならないって……」
「ほんと、ミリー!?」
一瞬気まずい空気が流れた。
「……はは、どうってことないですよ。少し耳くそがほじりにくくなるぐらいのことです」
「オレは……わたしは、ジョージ、君をミリーの婿にして、わたしの農場を任せたいんだ」
「それは、オーウェンズさん……」
ミリーが、埋めたママの胸から顔を起こしてさえぎった。
「問題は、ジョ-ジが、わたしを愛してくれているかどうか、それだけよ……」
カンサスの麦畑の向こうで、ミリーは手を振っていた。千切れんばかりに……。
丈二の閉じた目から、涙がこぼれた。
「ジイチャン、また悪い夢でも見た?」
孫娘の顔が覗き込んできた。
「……あ、ミドリ」
名前こそいっしょであったが、MIDORIと書く。髪もブルネットではあるが、目はブルーである。
「バアチャンが、やっと話してくれたわ。バアチャン、無免許で車に乗って次の駅まで、ジイチャンのこと追いかけたのよね。『ジョ-ジ、カムバック!』て、叫びながら。
病室の隅っこで、すっかり老け込んだミリーが笑っている。
「どう、ジョージ。クローゼットの奥から出してきたの、思い出のギンガムチェック」
「ミドリ、すまない、しばらくバアサンと二人にしてくれないか」
「うん、いいわよ。だけど三十分ね。バアチャンもドクターストップかかりそうだから」
丈二は、老いたミリーの顔を両手で挟んで慈しんだ。
「ミリー、今まで、苦労かけたな……」
「いいえ、楽しかった。わたしたちの人生、わたしたちが選んだ人生なんだもの」
「あの時は驚いたよ、次の駅に着いたら、ホームにミリーがいるんだもんな」
「神さまが助けてくださったのよ、ポイントの故障で、列車の出発が遅れたから」
「……そうだったのか……そうだったんだよな」
そして、丈二は眠りに落ちた。ほんの少し、まばたきするぐらいの間……。
そして、霞が晴れるようにして目が覚めると、目の前には碧の顔があった。
「こんな近くに顔寄せるの、幼稚園以来ね」
「オレ、何か言ったか……?」
「ミリーって……この、写真の女の子?」
「あ、いや……」
「はは、ジイチャン、顔が赤い。これなら、退院も近いわね」
「年寄りをからかうもんじゃない……ん、この仏さんの写真はなんだい?」
「あ、それ、法隆寺の夢違観音さま」
「夢違……?」
「うん、夢を取り替えっこしてくれるの。病院じゃ退屈だろうから、楽しい夢でも観られるようにね」
――そうだ……あの時、ポイントの故障なんか、起こらなかった。オレは未練にも前の駅の方を見ていた…… 砂埃をあげて、車が走ってくるのが見えた……。
[George com bac……!]
そんな声が聞こえたような気がした。