続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

山坂。

2014-12-26 06:48:24 | 日常
 山坂、アップダウン、登れば下りが待っている。
 理の当然。

 たとえ小さな山でも登りつめて眼下を見下ろせばそれは気持ちがいい景色で、達成感を味わうことが出来る。後は下るだけ、もうスキップ気分でルンルンと駆け下りたのは昔のこと。
 下りが登りに増してきつく辛い。加速がかかりそうになるのを懸命に食い止めるだけでもエネルギーが要る。加速と言っても、単に重い体重が前のめりになるという現象が生じるに過ぎない。かといって、足を先に前に出し、体重を後方に留める姿勢も著しく速度を欠く。つまり鈍くなり蟹さん歩き状態と化す。どちらにしても、とにかく降りる。途中で止まるという選択はない!

 こんな風にしてほうほうの態で帰路に着く山坂越えの歩こう会。(もうこれっきり)淋しい呟きが聞える。


 そして、ふと気づく。山は人生なのだと。
 自分では登っているつもりの山坂に、急降下の転落を勘違いしているのではないかという疑惑がわく。
「もしかしておかしいな、と自分で気づいた時には、すでに相当おかしいのです」と言った教師がいた。今さらながらにその言葉を噛み締めている。(相当おかしい自分は、見えない)

 混濁・・・自分が見えない。

 相当にくたびれた自分・・・闘う余地はあるのか、自問自答する。
 老いの晩秋、迎える春はあるだろうか。

 有ると信じて、続く道を行く!

『まなづるとダァリヤ』15。

2014-12-26 06:32:44 | 宮沢賢治
「あら、さう。だってやっぱりつまらないわ。あたしあたしの光でそらを赤くしようと思ってゐるのよ。お日さまが、いつもより金粉をいくらかよけいに撒いていらっしゃるのよ。」
 黄色な花は、どちらもだまって口をつぐみました。


☆講(はなし)の釈(意味を解き明かす)のは詞(ことば)である。
 実(まこと)の金(尊いこと)を噴(ふく)のは太陽であるという私記、化(教え導く)の講(はなし)である。

『城』1833。

2014-12-26 06:20:45 | カフカ覚書
ぼくは、ラーゼマンの子供たちと遊ぶために、しょっちゅう出かけていきます。それで、あるとき母は、ラーゼマンのところでもしや測量師さんに再会しはしなかったかと、ぼくにたずねたのです。


☆それで、あるとき母はひょっとして来世で先祖の汚点(記号)である測量師さん(土地の無いことに気付いた人)に再会しはしなかったかと、たずねたのです。