続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ありがとう!

2015-04-02 06:40:30 | 歩こう会
 一月・二月・三月と休んでしまった「歩こう会」、四月も遂行は無理と迷い続けていた。
 行く、行かない、行く、行かない・・・行かれない・・・。

 それでも、「昼食まで歩いたら、そこからはわたしも帰るから」と言ってくれたり、「みんな心配しているよ、みんな待っているよ」の言葉に圧されて(では、集合場所まで・・・でも、わたしは壊れてしまっているから)

 十二月の18キロ山坂行軍で、膝に支障が出、心まで折れてしまった。一週間も経てば痛みは治まると楽観視していたのに左足は地に着けないほどに悪化・・・外に出ると「どうしたの、大丈夫?」の言葉。惨めで情けなくて(もうダメかも)という絶望が過ぎった。そうこうしている内に階段を踏み外しさらに痛みは増幅。

 ため息つきつつの日々・・・少しづつ、薄皮を剥ぐようにという形容に沿って回復の兆しが見えたのは三月になってから。

 こんなだもの、四月になったって希望は持てない。

 このまま外に出られなくなってしまったら・・・筋肉が落ちていく、大きな不安が襲う。今日のわたしは昨日のわたしではない、加速をつけて老け込んでいくことを実感。

(どうしたらいいの、神さまお願い。助けて!)

 願が通じたのか、少しづつ好転。


《とにかく、行けるだけは行きましょう》
 集合場所でのメンバーとの再会。久しぶりに会えて嬉しいと寄ってきてくれる友人・・・友だちは得がたい。メンバーの好意にうるうるしているうちに、歩き出した。中央駅から米ヶ浜方面に向かい共済会病院の脇から龍本寺~青少年会館~上町(浦賀道)~汐入駅、さてここからが本コースというところで、万が一を考えてわたしはリタイア。付き合ってくれた二人と三人で帰宅とあいなった。
 ほんの少しの山坂・・・何でもなく歩き、今朝こうして何でもなく起床できたことに感謝。来月からはコース全体を歩けるかもしれない。

 痛みは物理療法でばかり治癒するものではないらしい。メンバーの温かい言葉こそが最高のクスリだったかもしれない。こんな壊れかけのわたしをメンバーに入れてくれて本当にありがとう。

『城』1925。

2015-04-02 06:25:45 | カフカ覚書
たまたまあの男があんたに出会ったところ、まんざら見すてた女でもないとおもい、それに、酒場の娘なんてものは、だれにでも誘いの手をさしだされたら言いなりになるものだと、とんでもない勘違いをしているからにすぎないのさ。


☆ただ単に偶然ではあるけれど、まさしく不満を表すものでもないと思い、先祖の決りを作った予言者は間違った賢人である。
 前もって定めた犠牲は国(地方団体)の負けた旅人を支えたに過ぎない。