続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

一人で行かれた六本木。

2015-04-23 09:16:19 | 日常
 三浦半島というより近所をうろうろする以外はどこへも出かけないわたし、東京はあまりにも遠い。けれど、マグリット展だけは見たい、見ておきたい、会いたい・・・切なる願いを打ち消すことができない。

 行きたいけど行かれない、六本木なんてTVの中でしか見たことがない・・・どう行けば行かれるの?子供ような問いを毎日繰り返した。

「よしっ、今行かないで、いつ行く?」「今でしょ」(う~ん、それでも行かれない躊躇)

(こんなんじゃ死ぬまで行かれないね)わたしの中の誰かが冷たく言い放つ。
「行きますとも!」

 国立新美術館を地図で確かめ、京急の時刻表を見て、さぁ、家を出たからには行くしかないと覚悟を決めた。
 北久里浜で駅員さんに
「ええと、大門へはどう行くんですか?」
「このまま都営地下鉄浅草線に入りますから大門で降りてください」(ええっ、そうなの。子供みたいなこと聞いちゃって)
「で、六本木へは?」「大江戸線に乗り換えて下さい」

 その通り行ったら超簡単、美術館通りを抜けて《着きました、在りました。国立新美術館!》

 館内に入って安心した途端「トイレはどこ?」
 見終わって帰ろうとしたら「降り口はどこ?」
 突然上京した地方丸出しのオバサン、情けないやら恥ずかしいやら。でもゲットしました『マグリット展カタログ』宝物です。

 嬉しくて枕元に置いて眠りたいぐらいでした。(やったね!)

マグリット『ゴルコンダ』

2015-04-23 06:56:53 | 美術ノート
 この作品は凄い、ある意味、空間への挑戦であり発見である。

 一見整然と、ある規則性をもって配置されているように見える人物。平面の持つ特性を駆使しているこの作品に戦慄・恐怖の念に襲われた。マグリットは鑑賞者がそうはならないように、きわめて冷静に驚愕しないように描いている。もっとも人間が空に浮遊していれば驚かない人はいない、しかも群像であってみれば。ただそれ以上の感情に至らないような配慮が為されていると言うことである。


 それぞれ異なるかもしれない酷似した匿名のそれなりの資格を有した人物が交錯した斜線上に並んでいる。それはざっくり見ると、大中小の三パターンのように見えるし、事実そう見えるように描いている。
 しかし建物に映る人物の影を凝視すると、同じ面上に並んでいると見える同じ大きさの人物は、建物との距離に差異があることが分かる。距離に差異があって同じ大きさということは、人物のどちらかが異常に大きいか、極小であるかということである。

 そして、この建物の前に居るのなら、その影は同じ方向であるはずである、太陽(光源)は遥か遠いのだから。ということは建物の前に並んだように見える紳士たちにも、それぞれ建物との距離に差異があるということであり、人物の大きさは想像を絶するほどにも差異があるということである。

 人物の向く方向が正面だったり左右だったりするので、納得する向きもあるけれど、視点は一つであれば全く平行には並ばないはずである。空に浮かぶ人たちが全くの平面上に見えるということは、ぐるり円形に位置していなければならない。しかも建物の前で判明したようにこの平面画面を立体的に解釈し直すと、極大・極小の紳士の群像である。映画『ゴジラ』をも上回る驚愕と戦慄がある。軽い眩暈どころか卒倒するような光景である。


 紳士たちに羽はなく浮遊の姿態でもない、彼らは直立している。降る雨の如くいずれ落ちてくるのだという落下のイメージ(観念)は消せないが潜在意識の中でそれを止める作用が働く、これは空想なのだと。
 空に人が浮いている不思議な光景は寓話のようである。しかし恐怖をさえ秘めたこの光景の、静謐な凄まじさに心服せざるを得ない。(写真は国立新美術館/マグリット展カタログより)

『冬のスケッチ』91。

2015-04-23 06:50:29 | 宮沢賢治
  いてふのこずゑのひざしつくづく
  天かけるゆげむら
       *
  外套を着て
  家を出ましたら
  かにすまぞあばかり
  きれぎれのくろくもの
  中から光って居りました。


☆展(拡がる)我意、等(平等)を惹きつける気(様子)を推しはかる。
 自由な講(はなし)の考えである。

『城』1945。

2015-04-23 06:25:48 | カフカ覚書
そして、あなたは、この所有物をまったく無価値なものとしてしか扱ってくださらないでしょう。だって、あなたは、わたしにたいして所有者としての感情しかもっていらっしゃらないんですもの」



☆そしてそれは先祖の所有として価値のないものであり、虚報(デマ)として取り扱うでしょう。だって、あなたはわたし(平和)に対して所有者としての感情しかもっていないからです。