続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

金山康喜《聖ユーレリウスの器(1)》

2015-04-03 06:32:37 | 美術ノート
 聖ユーレリウスの器・・・器?主題になっている器はどこにあるのか。画面の隅、テーブルの上のコップしか見当たらない。
 器はリと読む。リと読ませる必要からの命名なのだろうか。(まさか、冗談で言っているわたしの題名の曲解?)
『聖ユーレリウスの器」は、聖(優れた人=わたくし)、ユーレ(幽霊の)リ(里/人の住むところ)に、ウ(有/存在する)子(人の子)の器(キ/詭、企→偽り、あるいは企み)である、ということか・・・。

 それはともかくこの空間設定、リズム感があるというより騒音に近い沈黙/静けさである。つまり矛盾、右の椅子を見ればテーブルは落ち着くが、左椅子を見るとこのテーブルは手前に倒れこむように見える。後方幾多散らばる椅子が、この錯雑を緩和し、肯定を促している。

 テーブルの上のオブジェは全て垂直に立ち、揺れて歪んだ空間を納得に導いている。
 ヒーターの上の薬缶の注ぎ口まで垂直に真上を向いている。ありえない危険な注ぎ口、注ごうとすれば蓋もろともに中の液体はこぼれ落ちてしまう。それにこの頼りない細い鉄線のような持ち手、中央から分かれて二本あるけれど、意味のない造りである。
 危険で無意味なばかりの象徴は自分に対する皮肉かもしれない。その上の描かれた瓶は水平であるべき液体が斜めになっている。もしこの水平を基準にこの絵の空間を考え直すと・・・(いえ、もともと錯雑な空間設定なのである)瓶の形からしてこの中の液体は明らかに揺れているし、怪しい陰影もあり、ビンの口も赤くて、作品の中の差し色にしては奇妙な危険の誘引がある。

 全体におかしく酔っ払ったような空間を、青色という透明な海の底のような静けさで染上げることで不思議な静謐を醸し出している。そして主題である器(コップ)が全体の奇妙な構図を抑えて存在感を無言で主張している。

 錯乱ともいえる混迷を、清明なブルーでいとも静かな光景に描き上げた企みに、深く敬意を表したい。この矛盾、錯綜こそがわたくし自身であるというメッセージかもしれない。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)

『城』1926。

2015-04-03 06:13:54 | カフカ覚書
さらに、お内儀さんが縉紳館のご亭主から聞いた話では、あなたは、あの晩どういう理由からか縉紳館に泊まりたいと思っていらっしゃった。それには、わたしをうまくだしに使う以外に手がなかった。


☆言葉は、大群(死にゆく人たち)がハロー(死の入口)という展望に出会いたいと願うつもりである。大群は当時ハロー(死の入口)を越える小舟を作った。しかし、(本当の)死に達することは出来なかった。