金山作品にはなぜか、熱源をモチーフに使用していることが多い。《アイロンのある静物》などは、アイロンと銘打たなければただの物体としか思えないが、アイロンと明記したことで、鑑賞者に重くインプットされる。
アイロンという熱源は、作品の中で熱を放っているわけではないから、黄色を放つ(輝く)瓶に比して冷たいとさえ感じてしまう。いわば、隠れた熱源(エネルギー)であり、踏み込んで考えなければ、熱を想起することは難しい。
もし、言葉だけでそれを聞いたなら、あるいは文字として「ビンとアイロン」を見たならば、明らかにビンは冷たく、アイロンは熱いとイメージする可能性が高い。
言葉と物、直感的視覚における脳の誤作動・・・いわゆる錯覚の作用を金山康喜は計算している。心理的な絵というにはあまりにも計算が巧みで、斜に構えた作者の冷徹な眼差しが目に浮かんでしまう。
青い、あるいは柔らかい朱に染まったシャツは、台の上に広げて乗せられている。アイロンばかりか瓶が乗り、黒い物体は帽子だろうか・・・とにかくアイロンを隠すような(印象を薄めるような)形で並んでいる、押さえつけているといってもいい。《アイロンの~》と言っているにも拘らず、(どこにあるの?)というくらい印象を薄めている。しかし、よく見ると、三つも置いてある。利き手が何本もない限り無用の長物である。この矛盾、この錯乱が鑑賞者の心理を惑わせる。アイロンの位置関係もいっぺんに見ようとするとロンパリ状態の目つきになってしまう。
《アイロンのある静物》のアイロンは、主題であって(肯定)主題でなく(否定)作者の企みの下の大いなる主題(肯定)なのである。
比ゆ的にシャツを自身と考えるなら、それはアイロンの熱と華やかでエネルギッシュな黄色のビンと黒く重く描かれた帽子(実際は軽い物)によって、身動きできない状態に侵されている。薄物のシャツに圧し掛かる重圧、その下に忍ばせた断ち切りバサミも見逃せない。
(輝色のビンの上、触れなんばかりの白い電球、灯りは灯っているのか否・・・。背後の三つの影のような電球は何を意味しているのだろう。中央の電球を見守るようでもあり、監視するようでもある。単に在るだけの電球にまで意味を感じさせる作品の怪しいまでの物語空間は静止の一枚である。しかし、この部屋の中でざわめく会話が賑やかに飛び交っていて、一瞬の静止にすぎないというような気がする。窓の外は果たして暮色のオレンジなのだろうか。心理的な彩色は窓外の空気を解釈した色かもしれない。
作品の中の熱源、火であり灯りであり熱など熱い物への感情移入。エネルギーへの羨望、眩しさ・・・熱を帯びるであろう筈のアイロンの活性は見えない。
自然光の乏しい暗部(室内)に見る生命の鼓動を神経質な眼差しで量っている。作品は私小説の要因が強いが、わたくしを誇張するものではない。しかし、わたくしを語っている。
金山康喜の彩色の深さ、構成の妙に揺さぶられながら・・・金山康喜を忍んでいる。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)