言葉の使い方は、自覚しているか否かは分からないが、その人の(人となり)である。
先日もバスの中で、泣き止まない子供に向かって母親が「ほら、みんなが冷たい目で見ているよ」と言い放った言葉に、わたしは凍りついてしまった。
子供は日本の宝である、どの子もみんな立派に育って日本の国を支えて欲しいと願っている。その子を歪ませてはならない。
誰しも少しの過ちを胸に抱えて生きており、完璧な言葉遣いができるわけではないけれど。
でも、人を愛する感謝や愛情があれば、決して「冷たい目で見ているよ」などというセリフは出ない。
(そうか、ぼくが泣けば、周囲の人は冷たい目で見るんだ、お母さんが言うんだから本当だろう)と幼い男の子は胸にたたんで成長していくかもしれない。
相手や周囲を思いやる言葉が、自分へも帰ってくる。
心して、言葉を選んで暮らす美意識を持ちたい。
『田園』
1、前にも述べたとおり、この絵は逆さにすると田園風景が見えてくる。
2、二本の切り抜かれたような白い面状の木(幹と枝)は相似形であり、連続しているように感じる。
3、1と2の間には帯状に横切る線が交錯しながら幾多もある。
この条件がこの絵の原理である。
逆さに見たときのこの二本の木はまるで地上に落ちる雷電のようであり、また木の根のようにも見える。尋常ではない、地の底深い深淵の闇に包まれた光景である。
この二本の木は枝葉を落とした(木の終末=死)を連想させ、その背後の帯状の線は重ねられた地層面を暗示している。
つまり、数百万年単位の地層の集積であり、億年の歴史である。奥に見える光景の転倒は変遷・循環を内包しているのかもしれない。
『田園』とは地球の歴史の一プロセスであり、生死の循環は不可逆の連続を余儀なくされる時間という観念の中を進行していくものだと、暗に告げている作品である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
河原のいちばん下流の方へ洲のやうになって出たところに人の集まりがくっきりまっ黒に立ってゐました。
☆講(はなし)の源は化(教え導くこと)であり、縷(長く連なる)法(神仏の教え)がある。
蘇(よみがえり)を推しはかる図りごとを周(あまねく)告げる律がある。
だから、こういうことを考え合わせると、ソルティーニが好意をもったというのも、あんまり本気にはしかねますね。もしかsたら、ソルティーニは、あの手紙でアマーリアを呼ぼうとしたのではなく、罰しようとしただけなのかもしれません。
☆だから同じようにソルティーニが熟考したときの傾向も、先祖の汚点を非常に重大に受け取ったわけではありません。もしかしたら、あの文書で呼ぼうとしたのではなく、罰しようとしたのかもしれません。ソルティーニのことは伏せたいですね、とオルガは言った。