続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

片付け。

2016-12-28 07:40:30 | 日常

 片付けの極意に、「例えば靴箱の下敷きとして新聞紙など使用しないことですね」というアドバイスを聞き、早速違うもの、すこしオシャレな紙ないしはビニールシートに変えてみた。

 けれど、昨日のシンク下の収納場所の清掃では強いた新聞紙の日付で、前回の清掃日が判明することが分かった。
 1916年5月・・・一年半ものブランク!!

 月日はめくるめく過ぎて行くことを実感。Ah・・・。

 通常使わないものは処分。すり鉢などは(絶対使わないよね)でも、捨てかねて、やっぱり収納。

 迷いながらため息をつきながら、死後のことを念頭に片付けている。
(あとどれだけ生きるの?)神様に聞いてみたい。


 今朝チャイムが鳴ったので出てみると、近所の96才になるKさん、
「息子が何でも片付けて棄ててしまうから、孫のもんなんか勿体ないのでお宅で預かったもらいたい」という。
 見ると大きなビニール袋にいっぱい…(何が入っているのかしら)

 それにしてもこれを両手で抱えて持ってきたKさん、すごいわ!!96才って、そんなに元気なの?
(あとどれだけ生きるの?)なんて言っていた自分が恥ずかしい。


マグリット『終わりなき認識』

2016-12-28 07:06:02 | 美術ノート

 『終わりなき認識』

 シンプルな室内から眺め渡した景には、険しく高く不毛のように見える山々が続き、その上に浮かぶ球体の上に一人の男が立っている。

 《わたくし》は、《宙に浮かぶ球体の上の男》と対峙している。男はわたくしであり、わたくしはあの男でもある。
 光は球体に当たっているが、男は陰のなかに在る。男は遥か向こうを見渡しているが、自身の立つ位置の危うさには気づいていないようである。
 宙に浮いているという存在は、むしろ不在に近い感覚で、現場確認は困難な状況と言えるかもしれない。自身の存在の根拠の不明・・・。
 
 認識とは主観である。見聞きした状況を、直観・感性・理性・知性などで判断した意味づけを認識と呼ぶのではないか。いわば情報の収集が認識を導くのである。

 この絵における男の立ち位置の不安を男は知らない。にもかかわらず男は見る(情報の収集)のポーズをしている。転倒し奈落の底に落ちるやもしれないが、その状況を知らなければ一抹の不安も無用である。

 男は世界を認識しようと努めているのかもしれないが、男の存在自体が危うい。この不条理を乗り越えられる認識というものはあるだろうか。

『終わりなき認識』は、認識に完結がないことの証明である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』331(了)。

2016-12-28 06:37:29 | 宮沢賢治

 ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云へずに博士の腕をはなれて早くお母さんに牛乳を以ってってお父さんの帰ることを知らせようと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。


☆教(神仏のおしえ)を運(めぐらせている)。
 吐く詞(言葉)は全て双(二つ)の簿(ノート)に語(言葉)を新しく字で考えたものである。
 普(あまねく)鬼(死者)の地(境遇)の姿が逸(かくれている)。
 黙って燦(きらめく)光に、献(捧げ奉る)我意を、奉(ささげ)奏(なしとげている)。


『城』2517。

2016-12-28 06:21:27 | カフカ覚書

村の人たちは、わたしたちがみんなのところへ出かけていき、父が仕事場を再開しアマーリアがーあの子は、美しい着物を仕立てるのが上手だったのです、もちろん、よいご家庭のものしか手がけませんでしたがー


☆来世の人たちは、ただ単に留まり、父(先祖)は再び活動を始めました。アマーリアは、すでに告訴し、小舟を接近させていました。