順繰りに回ってくるゴミ当番も、几帳面な人もいれば緩い感覚で済ます人もいる。
それぞれだから口をはさむ必要はないけれど、責任をもって集積場の清掃を励行するべきだと思う。
一番の問題は外部の人の(ポイ捨て)である。車で来てさりげなく捨てカバーの中に収めないので、カラスが荒らすという惨状を生んでいる。
そういう人は、どこへ捨てたらいいのか迷走しているのだろうか。
ちょっと近隣の人に聞くということが不得手なのだろうか。
今も外ではカラスが鳴いている、カラスも生きるために必死なのかもしれないけど・・・。
『人間の条件』
窓辺に立てかけられたイーゼルに窓外の景色が描かれたキャンバスが乗っている。その景色は窓外の景色に一致するようにつながって描かれている。
偶然の一致はあり得ないが(そうかもしれない)という曖昧さで納得する傾向が、わたしたち鑑賞者に無いとは言えない。
そしてよく見ると、室内は右側に視点があり、窓外は左側からの視点であることに気づく。
つまり遠近を交差させて一つの画面に収めている。
光は右から差しているらしいのに左右のカーテンの影に差異はなく、カーテンの下部の影は真下にあるが、イーゼルの脚の影は壁の内側だから不明にぼけているはずなのに明確に左方向に向いている。
空間(遠近)や陰影(光源の方向)が交差している。それこそ有り得ない光景であるが、この絵を見てすぐにそれと気づかれないように微妙に企画している。
『人間の条件』とは、見たものを(対象)を、観念的に修正する本能ではないか。錯視はむしろ正常であり、経験的な眼差しのデータこそが優位を占める結果である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見てゐましたが
☆迫(さしせまる)死の哀(かなしみ)を察する記であり、詞(ことば)が現れる。
いまのようにわたしたち一家を軽蔑するということも、そのころはまだ全然ありませんでした。あの人たちは、ただ不安感から遠のいていっただけで、これから先どうなることかと日和見をしていたのです。
☆今でも軽蔑的な存続がなお完全に消えません。ただ、わたしたちは不安を抱いたまま今は為すがままに待っているだけなのです。