今朝の寒さは、冬本番の寒さ。
北海道では零下20度を記録したらしい。わたしが生まれる前の両親は北海道は千歳にいたことがあり、折に触れ厳寒の凄まじさを話してくれた。
寒いと言っても、こちらではその比ではない。(なんのこれしき)という感じだけれど、夫は「寒い、寒い」の連発でエアコンを点け、着込んだ上に(これだけ寒いと何もできない)などとボヤいている。
そのおかげで、こちらは暑くてたまらない《我慢している》
こんな贅沢を貧しい我が家に許されるのかと思うと暑い上にストレスである。
暑くたって寒くたって(こういうものか)と育ったわたし、ここだけの話、全然平気である。
とは言うものの、寄る年波、我慢は禁物。夫に準じてありがたく恩恵に浸っている。
以前、飢餓状態で死亡した人の話を新聞で読んだことがある。その人はこたつにうっぷしたまま亡くなっていたけれど、こたつのスイッチは切ってあったらしい。預金もかなりあった人の餓死。愚かだと思う前にひどく共感したのを覚えている。積み木崩しのように預金を切り崩していく…究極の質素を貫いても残りは…考えるともう何も咽喉を通らなかったのかもしれない。
イタ寒い話である。
『出現』
深淵、どろどろの混沌、いわく言い難い暗澹の中に彩色された方形の粒の連鎖で囲まれた漆黒がある。
深淵が先か、黒の領域が先かは分からないが、とにかく変化の徴候が現れたという景である。
混沌の中から彩色された中の黒(無)が生じた景色と言っていいかもしれない。彩色(カラー)は光の分解であれば、太陽の存在を確信できる。
雷が多発していたという原始地球、地殻から多くの物質が海水に溶け出していたという景ではないか。即ち出現である。
生命の起源について宗教的な神話などはあるが、決定的な解答は未だないという。しかし、《太陽ありき》の混沌から奇跡の星として地球が誕生したことは判明しているし、出現があって、今日のわたしたちが存在しているわけである。
出現の謎を問い詰めると、究極この不定形な謎のままの条件を提示するしかなく、むしろ決定的な解答かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会日ました。マルソがジョバンニに走り寄ってきました。
☆双(二つ)の解、双(二つ)の記がある。
「相手がどんなに美しい娘であろうと、どんな不美人であろうと、お城の人たちは、どんなことだってできるのですから。しかし、あなたは、その他の点では、アマーリアのことにかんして完全に思い違いをしていらっしゃいます。
☆死の決定した大勢の人の側には美しい、あるいは醜い作り話があります。けれど、アマーリアに関しては完全に思い違いをしています。