〔まなびかんトコトン学校 紙芝居編〕第2回
宮崎二美枝先生の講座
何人かの受講生の実演、上手でびっくり!(たぶん読み聞かせなどの経験があるのかもしれない)
となりに座ったモンメちゃん、今朝は自転車で飛ばして小学校へ行き、物語を生徒さんの前で読んで来たという…(すごいな)
是非にと意気込んで参加させてもらっているけど、恥ずかしい。
先生は、もちろん飛び切りプロ!!それぞれの声の出し方、間の取り方、(う~ん、真似できなレベルの高さ)
まずいな、まずいな…小心者のピーちゃん、どうしたらいいの?
中一の娘さんを持つ若いお母さんのモンメちゃん、(わたしのような年寄りと組んでいいの?)活発で可愛いい彼女の優しさにほだされている。
ドキドキだけど、がんばりたい!!(できるかな?)
『夏』
夏と題されている、建屋(集合住宅)の前に上げた旗には青空がある。しかも方形ではなく一辺は自由に泳ぐ魚の尾ひれのような変形になっている。(旗はおおむね方形であるという概念の否定か、あるいは欠如なのか…)
象徴である旗に描かれているのは天空(青空)であり、影は建屋に投影されている。青空(空間)が平面化し、しかも影を作っている不条理・・・。
夏は解放的な季節であるにもかかわらず、一様に閉じた窓、暗い室内、堅固に見える建屋の中の閉塞感。
掲げた旗の青空、光と影は『自由/解放』への憧憬だろうか。建屋(集団/人々)の一致した願いのシンボルだと思う。
並べて閉じられた窓の沈黙、住民(大衆)は精神的な旗を掲げている。「夏の解放的な光」を希求し、叫びの結集がこの旗に集結していると思われる。
『夏』は、そういう景である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出て来るかあるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立ってゐて誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がしてしかたないらしいのでした。
☆派(わかれて)現れる影(かたち)を運(めぐらせていること)を、推しはかる記である。
幽(死者の世界)の図りごとを致(まねく)。
修(ととのえて)惹きつける律を推しはかる記である。
弐(二つ)の記は、詞(ことば)に包まれている。
村の人たちからも、お城からもね。もちろん、村の人たちが遠のいていったのは分かりましたが、お城のことは、どうにもわかりようがありませんでした。
☆ここの人たちからも、終末(死)からもね。ここの人たちが退いていったのは、もちろんわかりましたが、終末(本当の死)については、全然気がつきませんでした。