そしたらさっきから仕度ができてめづらしさうにこの新らしい農夫の近くに立ってそのやうすを見てゐた子供の百姓が俄かにくすりと笑ひました。
☆詞(言葉)に託す真(まこと)を納める譜(物事を系統的に書き記したもの)である。
襟(心の中)の律を現わす。
詞(言葉)で教(神仏の教え)に飛躍させる。
照(あまねく光が当たる=平等)は、我(わたくし)の衝(かなめ)である。
浮遊する球体の上に立って言うということは、転倒(否定)の危機を常に孕んでいるということであり、確信による持続は有るかもしれないが、一歩踏み出せば危うい情況である。
それを見つめているのは室内における安定した、しかも仕切られ隠れたエリアでひっそり観察を続ける自身である。
頭脳は、表面上のわたしと精神の深層を彷徨するわたしとに分解を余儀なくされている。
わたしは彼(分解されたわたし)との対峙に於いて《認識》という作用を確信する。
わたしは重力下に着地し存在しているが、わたくしの精神は不安定極まる球体上で世界を観察している。雨風(世間の批判)に耐えられるだろうか、あるいは靡かないとも限らない。
「この球体上において決定という着地点はないが、認識とはこのようなものである」と、マグリットは孤高を持する覚悟でつぶやく。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
学校のは十五%だ
雨はふるしわたくしの黄いろな仕事着もぬれる
☆合わせた講(話)は、等(平等)の悟(真理に目覚める)天(天上の世界)の講(話)である。
視(気を付けて見ると)、弐(二つ)が著(明らかになる)。
「なんてひどい中傷を!」と、フリーダは、小さなこぶしを打合せた。
「中傷だって」と、Kは言った。「ちがうよ。ぼくは、中傷なんかするつもりはない。
☆「なんで否定するの」と、フリーダ(平和)は、普通とは違う氏族のことを考えた。
「否定?」と、Kは言い「否定ではありません、その意思もない。