今までじっと立ってゐた馬は、この時いっしょに頸をあげ、いかにもきれいに歩調を踏んで、厩の方へ歩き出し、空のそりはひとりでに馬について雪を滑って行きました。
☆魂を留める目(ねらい)が字に逸(隠して)書いている。
継(つなぐのは)普く懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)の道(物事の筋道)を究めた法(神仏の教え)である。
部(区分けしたその一部分)を推しはかると、句(言葉)の目(ねらい)の説(話)が活(動く)講(話)である。
明け方に見える二十六日の月が南中するのは昼の刻であり、多分その時刻に星は見えない。
昼間にも、月も星も確かに見えないが存在している。存在しているが非存在のごとく見えない。(ちなみに鷲は昼行性)
《有るが見えない》ならば《無いが見える現象》があってもいいのではないかという仮説は成立するだろうか。
鷲が翼を広げた形の山は、無いとは断言できない。それを、現実の鷲と印象付けることによって世界の質が変換されるという現象である。
高峰には憧憬すべき霊魂が宿るというイメージがあるが、強い嘴をもつ肉食の鷲に重ねたことに畏敬や恐怖心をあおる景に変換させている。
この強力な欺きの光景によって、画面(世界)全体を、本当に見える光景(現実視)として疑念の余地を与えない空気を醸し出している。
強力な錯視が否定を肯定に変換させる。故に手前に置かれた卵は、いとも簡単に鷲と関連付けられるというわけである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
さつきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
⦅そんなことでだまれれてはいけない
ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
それにだいいちさつきからの考へやうが
まるで銅板のやうなのに気がつかないか⦆
☆死の耀(光)の絡(筋道)を試みる。
空(根拠がない)換(入れ替え)の講(話)を導き、判(可否を定める)企てである。
つまり、きみがぼくから眼をそらし、どこか定かならぬものに憧れているようなときがあった。そういときに、きみの視線がむけられている方向に適当な人物を置いてやりさえすればよかったのだ。
☆半ばボンヤリした可哀想な子供、そんな時、釣り合いの取れた人たちと並んでいればよかったのに、きみの行くべき方向は失われしまった。