わたしの日常を支えるものは「ラジオ体操」と「歩こう会」である。
ラジオ体操の会場まで歩いて三分、400歩の距離は出不精のわたしにとってはまことに都合の良い距離なので難なく続けられ、お世話になっている。
その上、嬉しいプレゼント・・・ほんと申し訳ないけど、子供(少女?)に戻って喜んでいる。
小屋の天井にのぼった人たちは、器械の上の方Kらどんどん乾いた玉蜀黍をはふり込みました。
☆照(あまねく光がある=平等)を憶(思いめぐらす)。
典(根拠があって正しい)照(あまねく光が当たる=平等)の図りごとである。
記の解(問題を解く)は、常に法(神仏の教え)に換(入れ替わる)。
霊(死者の魂)に属(託して)書(書いてまとめたもの)である。
宙に浮く球体である、つまり重力から解放されている。
精神の在り様は、このような深淵の闇の中、うっすらと水平線を照らす光彩が見える世界に位置している。その水平線は地球(存在)における動かしがたい真実を提示している。
微かに波立ってはいるが、平穏・静寂の態である。この無窮とも言える時空の中でわたし(マグリット)は思考し続けている旅人である。旅人の所以は定着の思考に束縛されないという点にあるが、生きて在ることの誇り(尊厳)、吹奏楽器(音/聴覚)・鏡(視覚)・酒樽(味覚)・トルソ(触覚)・緑葉(嗅覚)そして、ミシン(衣)麻袋(食)など必要十分な条件を備えている。
しかし、衣食住の住、心の棲家を虚空に押し上げている。外界に左右されることのない固有の論理、秘密裏に告白・吐露せざるを得ない個人的な事情、しかし永遠に変わることのない真理へと直進すべく苦悩している。捨てきれない観念と捨てるべき観念の狭間で揺れ動いている。
わたくし(マグリット)は、結論・明確な答えを探求し続ける『旅人』である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
(ぼどしぎのつめたい発動機は……)
ぼどしぎはぶうぶう鳴り
いつたいなにを射たうといふのだ
爺さんの行つた方から
わかい農夫がやつてくる
☆発(明らかにする)の道(神仏の教え)を記す。
冥(死後の世界)の赦(罪や過ちを許す)也。
講(話)は法(神仏の教え)を納め、譜(代々引き継ぐもの)である。
中傷なんて、かなり無邪気な、とどのつまりは無力な防衛手段さ。だから、こんな握りこぶしは、しまっておくことだね」
☆中傷(名誉棄損)なんて罪がない、最終的には無力の防衛手段であり、一存だけの評判なんだ。