「無くなったな。」赤シャツの農夫はつぶやいて、も一度シャツの袖でひたひをぬぐひ、胸をはだけて脱穀小屋の戸口に立ちました。
☆謀(計画)を積(積み重ねる)。
納(受け入れる)訃(死去の通知)は逸(隠れている)図りごとである。
醜(みにくい)凶(悪)を奪うと告げる。
照(あまねく光が当たる=平等)也、という途(みちすじ)の講(話)が律である。
『弁証法礼讃』
家の窓の中に、さらに家があるという景である。
現実にはあり得ない想定であり、非現実的、矛盾、否定がある。
しかし、「それを受け入れて見よ」というテーマに鑑賞者は戸惑い狼狽えてしまう。答えはあるのだろうか・・・。
わたし達はこのような景に出会うことない。物理的に小さな窓の内部にその窓を複数持つ全体(家)が存在する筈がないと経験上認識しているからである。
個から複数の個が増殖していく・・・例えば、細胞分裂などの態には見られるかもしれない。ゆえに比喩として捕らえるならば答えは発見可能である。
しかし、家(建屋)という固定観念はそれ以上の変態を拒否してしまう。わたしたちにとって観念は社会生活における基準である。
個の内部に複数の個を孕むという現象は、生物界においては条理である。時間の経由や歴史的な発展の構図は、明らかにそれを証明する。
眼に見える現象のみを絶対と知覚し、それ以外を受け入れないのは確かに誤りである。
ゆえにこのマグリットの矛盾した家の構造は、否定的ではあるが肯定的見地を含有する複合的な様相を呈しており、礼讃・・・マグリットはこの否定的矛盾を肯定し、否定と肯定のズレを統合する図解を提示したのだと思う。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
(天の微光にさだめなく
うかべる石をわがふめば
おゝユリア しづくはいとど降りまさり
カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張って
ユリアがわたしの左を行く
ペムペルがわたしの右にゐる
…………はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
☆転(ひっくり返ること)を備(あらかじめ用意した)講(話)である。
酷(厳しい)考えの講(話)である。
査(調べて明らかにする)考えの題(テーマ)がある。
魂(精神)の闘いに挑む。
詐(作り事)の講(話)は、幽(死者の世界)に応えた我意である。
章(文章)は裂(バラバラに離して)応えた我意である。
つまりは、すべてのことが寄ってたかって、ぼくたちの関係の痛いところを悪辣に、しかし、じつに巧妙に食いあらしただけじゃないかという気がする。どんな関係にも、痛いところや欠点がある。
☆すべて、ただ質の悪さ、もちろん、わたし達の欠点を狡猾に利用し尽している。あらゆる関係(抑圧)には短所があり、わたし達も多分そうである。