『オーステルリッツの喧嘩』と題している。しかし、その作品は、ミニチュアの窓があるばかりである。
オーステルリッツの喧嘩は題名がなければ想起できない。題名があっても結び付けることは困難である。
無関係・・・しかし、任意にまったく意味なく『オーステルリッツの喧嘩』と名付けたのではない。
《無意味》をこそ強調したかったのではないか、すべては無に帰していくのだと。題名と作品(窓)を並置することで、人は考える。(オーステルリッツ)には喚起される歴史上の大戦が被る。しかし、長い年月の間には表記された文字だけが記録として、否、それすらも風化していくかもしれない。
認識には古いデータを消去する仕組みがある。何千年か後、更にずっと先の未来ではオーステルリッツという固有名詞だけが浮上することもあるかもしれず、又は『オーステルリッツの大戦』が『オーステルリッツの喧嘩』と誤伝される日があるかもしれない。
誤伝されるまでもなく、あれは(喧嘩/愚行)だったのだと・・・デュシャンは呟く。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者は誰もこの琵琶に耳を傾ける風もみせない。
☆講(話)の腎(かなめ)は逸(隠れている)。
認(見分ける)想(考え)の拠(よりどころ)がある。
過(あやまち)を化(教え導き)赦(過ちや罪を許すこと)を推しはかる。
備(あらかじめ用意してあるもの)を把(つかむと)、字の計(はかりごと)が普く現れる。
夢だけは、すべての少女とおなじようにすてきな未来を夢みていました。だれだって、自分に夢まで禁じるようなことはできませんもの。でも本気で出世したいなどという考えを起したことはありませんでした。すでに獲得したものだけで満足していました。
☆すべてのおとぎ話のようにすてきな未来を夢見ていました。夢まで禁じることはできません。今在るものに満足しさら、さらに上など望んでいませんでした。