このタイトルの単語は確かに意味をもっている、しかし意味を放棄した羅列は意味を破壊し、鑑賞者を謎の渦中に放り込んでしまう。苛立ちは否定という結論で収まるが、それ以上を追求しにくい構成である。
言葉を言葉の集合で打ち消す。意味の分裂は縷々つながることはなく、言葉は存在し誰にも見えているが、内実を消失させるという実験である。
作品(タイトルと作品は一体であるが)は実験的試行、現象を否定したのちの模索、答えさえ霧消する作品群の集合である。意味を探そうとすれば、意味の方が逃げていく。厳然と作品は目の前にある事実に鑑賞者は細部に目を凝らすこともあるかもしれない。
しかしこの(大ガラス)では、それぞれが結集している。この一致は強固である。逃げも隠れもしない(大ガラス)、どこからも見え、死角がない。
にもかかわらず、あるいは《さえも》と換言してもいい。さえも、見えないのである。存在しているが非存在である。見えているが見えないのである。存在の本質的な意味は崩壊・破壊・滅亡へと進む一筋の道である。
《刹那》、瞬時の現象は意図なく偶然の形象である。《有るものは無く、無いものは有る》デュシャンはこの作品の前で費やしたエネルギーの大きさを抱えひたすら沈黙したに違いない。
花嫁(婚前の一時的な仮称)は浮上したまま性の秘密を以て彷徨うしかないが、彼女の独身者たち(母が生んだ人類)は裸に還り、原始を希求する。遥かな時間への帰還である。こういう光景もあるということにすぎないが・・・。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
なぜ僕が憶い起すだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
☆目(ねらい/観点)は往(人が死ぬ/そののち)の鬼(死者/亡霊)である。
目(ねらい/観点)は訓(字句を解釈し)和(調合すること)で現れる。
こうして、わたしは、この地位を手に入れたら、あなたは頭を下げてわたしのところへ頼みにいらっしゃるだろう、そうなったら、わたしは、あなたの願いを聞いてあげて、この地位を棒にふるか、それとも、あなたの願いをはねつけて、さらに出世をするかのどちらかを選ばなくてはならなくなるだろう、というような夢想にふけりました。
☆あなたのことを拒絶するか、ずっと先まで上りつめるか、形勢を無にするかの選択に迷う空想に耽りました。