『埃の栽培』
白黒写真、デュシャンの要望に応じて埃がつもった状態のままでマン・レイが撮影。
空中の微塵、人がまき散らした微かな埃・・・故意という意思は微塵もない。人が生き、暮らしている生活圏に浮遊していた埃が重力によりいつかは地に落ち果てるという状況である。
栽培という意思の欠片もないが、究極、人が育てたと言えないこともない。
無意識・・・混沌、計算も計画も歯が立たない成り行き。
偶然の集積である。しかし結果は必然であり、そうなるべくして成った景色に他ならない。偶然と必然の一致した光景に共鳴する人は滅多にいない。単に生活の汚れ、取り除くべきものとしてのゴミにすぎないからである。少しの湿り気で細菌やウィルスの発生を呼びかねない忌むべき状態でもあり、美の範疇に届かない。
育てるという意思をもつことは研究者以外はいないと思うが、この現場には時間の集積がある。風が吹けば形を変え、雨が降れば消えるだろうこの刹那、あるいは現象が記録されることは稀有である。
無意識・・・こうしようとしてこうならない現象は哲学的には問題を孕むかもしれないが、現実的には衛生上廃棄、清掃によって消去されるものに他ならない。
『埃の栽培』は時間と空間における緊密な関係の一端である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.com
「僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利競争の俗念消えて総ての物に対する同情の念の深い時はない。
☆目(観点)は弐(二つ)の芯(中心)が表(表に出ること)である。
音を換(入れ替える)。
字には弐(二つ)が融(とけている)。
換(入れ替えた)字には冥(死者の世界)の理(道理)がある。
供(述べた)総てが然(そのとおり)の章(文章)である。
双(ふたつ)を打ち、他意を道(語る)。
常に捻(捻った)新しいことを示している。
客室付き女中をしていますと、日時がたつにつれて、すっかりだめになり、忘れられてしまったような気になってくるものですわ。まるで鉱山のなかで働いているような仕事なのです。すくなくとも秘書の人たちがおられる廊下は、そうです。あそこの廊下には、小走りにうろつきまわって、顔をあげる勇気もない少数の昼間の陳情者たちをのぞけば、何日間もひとりの人間も見あたりません。
☆作り事は時代とともに失われすっかり忘れ去られてしまいます。まるで小舟にいるような現場不在です。少なくとも秘密のやり方はそうです。来世では幾日も観察され、少しの死亡通知に基づいて見上げることもできない人たちをのぞけば、小舟の人たちは他の作り事などと似たような閉ざされた事情なのです。