これら大ガラスに閉じ込められた対象物(作品)は、重力下において落下すべき物体である。しかし、中空に漂っている。意味ありげ、即ち鑑賞者がどこかで出会ったことのあるような形態に近似しており、不可思議ではあるが了解し得ると納得を可能にしてしまう対象物なのである。
しかし、端的に言えば《ガラクタ》である。機能性を持たず生産性にも抵触しない。鋳型は雄である証明を持たず、内部は不明である。花嫁は地上に立つ存在感がなく浮上する落下物の刹那であり、チョコレート粉砕機は、以って非なるものを捻出している・・・大ガラスに収められたそれぞれは本来全てその形態を留めるものではない。これら集合体に必然性は皆無であり、強いて言えば偶然でもない。
《必然でも偶然でもない》そんなものはこの世に存在しない。思考(空想上)の無を、《言葉と物》によって造り上げている。この経由を辿らない限り、見えてこない《無の現象》である。
存在しているのに、非存在という答えを待つ作品である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
「そこで僕は今夜のような晩に独り夜更けて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて耐え難いほどの哀情を催して来る。
☆目(観点)は魂也。番(組み合わせて)読む也。
講(話)を套(被う)考えの章(文章)である。
故に、律は換(入れ替える)譚(話)である。
納めたものは相(二つのものは同じ関係にある)。
状(ありさま)は差異に頼る。
ところが、こと志とちがってしまったのです。これは、だれのせいでしょうか。とりわけあなたのせいであり、さらには、もちろんフリーダのずる賢さのせいもあります。しかし、まず第一には、あなたのせいですわ。と言いますのは、あなたは、なにを望んでいらっしゃるのでしょう、なんという変わった人でしょう。
☆しかしながら、違っていたのです。誰の責任でしょうか。すべてはKであり、明らかにフリーダの動きのせいです。あなたは何を望んでいるのですか、奇妙な人ですね。